「プーチン大統領演説要旨」を読んで考えたこと。

読売新聞に掲載された「プーチン大統領演説要旨」や識者たちの解説を読んで考えたこと。
*専門家ではないので、雑談程度に読んでください。


2022年2月24日朝に公表されたプーチン大統領の演説の要旨を読んだ。

訳し方要し方にある程度ニュアンスが左右されるということは前提として、自分がこの演説全体から読み取ったのは、怒りだった。
「この人は何をこんなに怒っているのだろう?」と思うくらい怒っている。

それは「ロシア国民」や「ロシアという国全体」の怒りではなく、プーチンの個人的な怒りに見える。
民族主義や国粋主義を高揚させるために計算、という感じではない。

「ものすごく怒っている」という自分が受けたイメージはどこから来るのだろう? ともう少し演説を細かく読んでみた。

一番は言葉の使い方だ。
最初の四段落の間に、以下の言葉が出てくる。

「米欧の無責任な政治家たちによって乱暴かつ無礼につくられている」
「この無礼な態度はどこから出てくるのか」
「我々の利益と絶対的に合法的な要求に対する見下した姿勢は、どこから来るのだろうか?」
(引用元:2022年2月25日読売新聞朝刊6面「プーチン大統領演説要旨」/太字は引用者)

「無礼」「見下した」という言葉がすごく印象に残った。

対立する国への言及なのだから、強い言葉を使い非難するのは当然だ。
「不当」や「不公平」「不正」という言葉なら、(物の見方はともかく)言葉の使い方としてわからないことはない。

冒頭の部分だけで無礼という言葉が二回繰り返されているおり、演説では、「米欧はロシアにとてつもない辱めを行い、それに長年耐えてきたがついに堪忍袋の緒が切れた」
というニュアンスに満ち満ちている。

この演説要旨は、善悪是非、日本に住んで米欧よりの感情を持つ自分の価値観はとりあえずおいておいて、気持ちを平坦にして読むと「なるほど、プーチンの目からは物事がこう見えるのか」ということが伝わってくる。

同日の新聞には外務次官、駐米大使を務めた佐々江賢一郎氏の談話が載っているが、ここにも興味深い話が載っていた。

何世紀も西側、欧米社会に包囲されているとのメンタリティーと、NATOに押し込まれているという「プーチン的世界観」の両方が事態の背景にあり、エリツィン元大統領やゴルバチョフ元(ソ連)大統領が同じことをしたかといえば大いに議論の余地があり、「プーチン的賭け」と言える。

(引用元:2022年2月25日読売新聞朝刊12面「論点スペシャル」/太字は引用者)

今回のロシアのウクライナ攻撃は、プーチン大統領の個人的資質や物の見方がかなり関係しているのではないか、というのはそうではないかなと思う。


また2月26日の朝刊14面にはドストエフスキーの新訳版で有名な亀山郁夫氏がこんなことを書いている。

侵攻の報を聞いて真っ先に思い出したのは、2014年のソチ五輪最終日の出来事だ。(略)
ウクライナで政変が起こり、親ロシア派の政権が崩壊。ヤヌコビッチ大統領は国外脱出を余儀なくされた。

(引用元:2022年2月26日読売新聞朝刊14面「視点」亀山郁夫/太字は引用者)

そう言えばそんなことがあったなあと思い少し調べたら、プーチンは2014年の「ウクライナ政変」を「違法なクーデター」と断じ、「政変で解任されたヤヌコビッチ前ウクライナ大統領が実際の権限はないものの合法的な指導者だとの見解を示した」

つまりプーチンにとってはそもそも2014年の政権交代はクーデターであり違法なものなのだから、それを正すという認識なのだろう。

さらにこのクーデターはロシアで行われたソチ五輪の最終日に起こったことに、プーチンはそうとう拘泥しているのではないかと亀山氏は指摘している。

ロシアの復権を世界にアピールすべき晴れ舞台で恥をかかされた屈辱感を、プーチンはずっと抱いていたのだろう。
今回の侵攻は、NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大への反発というロシアの国家としてのアイデンティティーの問題だけではなく、傷つけられた個人的なプライドを回復したいという感情も働いているのではないか。

(引用元:2022年2月26日読売新聞朝刊14面「視点」亀山郁夫/太字は引用者)

プーチンも長年政治の第一線で権力を握り続けた人間なので、ただ屈辱感から「個人的なプライド」を回復したい、という発想ではないだろう。
長期独裁政権が視野に入ったので、国内向けに「強い指導者」像を維持する意味合いが強いのかなと思った。

この辺りは中国の習近平が、格差によって国内の不満が噴出しようとしたら、「共同富裕」を掲げるようになったことと似ている。

権力を一極集中させて、支配に個人崇拝の色調を入れたいと思うと、「自己」のイメージに気を使うようになる。
「無礼」「見下す」という言葉には、その作り込んだ自己イメージを傷つけられる怒りや危機感があるように感じた。

自分はプーチンのことを個人的に知っているわけではないので(そりゃそうだ)、プーチンが何を考えているどういう人か、本当のところはわからない。

自分の感じたことが合っているか合っていないかではなく、ロシアに限らず権威主義的な国は、トップの人格や個人的な物の見方が国の方向性に与える影響がかなり強いのではないかということと、プーチンが再三指摘する「米欧は常に正しいのか」ということは、そういう見方をすること自体はわからなくもないということだ。

「アメリカによるイランのソレイマニ氏殺害」なども(彼がどういう人物かはとりあえずおいておいて)主権国家に対する介入であることは変わりない。
正に今回のウクライナ侵攻で指摘される「強国が、どうせ何も出来ないと弱い国の足元を見た」構図だった。
イランが結局体面を保つ程度の攻撃で鉾を収めたから良かったものの、これもどうなるかと当時は心配だった。


亀山氏が言及しているところによると、

驚いたことにゴルバチョフ氏は「クリミア住民がロシアを選んだのだから、その正当性は一概に否定できない」と語った。
「当時、NATOの東方不拡大について文書で約束しなかったことを悔やんでいる」とも話した。
欧米との関係改善を図り、冷戦を終わらせた立役者である彼ですら、そのような考えを持っていたのである。

(引用元:2022年2月26日読売新聞朝刊14面「視点」亀山郁夫/太字は引用者)

これを見ると冷戦を経てきたロシアの指導者たちへの西側諸国への不信と警戒は、日本で生まれ育った自分には想像もつかないほど根深いのではないかと感じた。


前述した亀山氏は「視点ウクライナ危機」の中で、ロシアの国民性についてこう語っている。

ロシアには古来、個人の自由は社会全体の安定があってようやく保たれるという考えがある。(略)
絶対的な権力が失われれば、社会の無秩序が制御不能な形で現れるのではないかと恐れるロシア人は、グローバリズムに対抗するだけでなく、自らを統制するためにも強大な権力を求める。プーチン氏の側近が、これほど異常な決定に誰も異を唱えないのは、このためだ。(略)
ロシア人の心性には、永遠の「神の王国」は歴史の終わりに現れるという黙示録的な願望があり、それが政治の現状に対する無関心を助長している。(略)
この国民性をロシアの作家グロスマンは「千年の奴隷」と呼んだ。

(引用元:2022年2月26日読売新聞朝刊14面「視点」亀山郁夫/太字は引用者)

中国もそうだが、国外から見ると「指導者の横暴、暴走について国内の人はどう思っているのだろう?」と疑問が浮かぶ。
だが、そこには「国民性」や「歴史」が深く関わっていることが多く、それが身に染みていない外部の人間が「なぜこう思わないのか?」と考えるほど単純ではないのだなあ、と中国関連の書籍を読んで思った。


ただ今回は、不幸中の幸いなことに、プーチンの個人的な思惑からの怒りを(だと仮定すると)、ロシアの一般的な市民の人たちはそれを共有していない。
むしろたくさんの人がロシア国内で反対の声を上げている。

色々な人が既に指摘しているけれど、自分も今回のウクライナ侵攻の鍵を握るのは(プーチンを止められるのは)、ロシア国内の世論じゃないかと思う。

結局は犠牲を払うのは普通に平和に暮らしていた人たちで、国境を越えてそういう人たちと連帯して、支配者たちの横暴を止めなくてはいけないと思う。

色々な意味で日本も他人事ではないと思うので。


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