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「進撃の巨人」のアニメオリジナルエピソードに納得がいかず、見続けようか悩んでいる。

 話題にする時期として微妙だし余り不満を言うのもなと思ったが、どうしても気になったオリジナル箇所があるのでそのことについて書きたい。


◆なぜ入れたかがわからない。

 アニメは原作とラストが違うと聞いて見始めたが、シーズン1の後半で気になる改変が二ヶ所あったのでこの先見ようか迷っている。

 一か所めは地下道の前でアニがアルミンに問い詰められたシーン。
 アニメではアニが唐突に笑い始めたけれど、この描写をなぜ入れたかがわからなかった。
 顔つきからして自棄になった、アルミンを殺せなかったことを自嘲している辺りかなとは思う。
 思うが……自分の中では「アニはそんな笑いかたはしない」感が凄い。
 これはアニの人物像の違い、と思い済ませられる。

 もう一ヶ所は、巨大樹の森からの撤退において「遺体をどうするか」で揉めるアニメオリジナル展開である。
 まさか「お二人は人の心がないのですか」→「自分たちが甘かった」という展開じゃないだろうな?と思ったら、そのまさかだった。 
 この箇所が気になる理由は二つある。
 ひとつめは壁外遠征が初めての新兵でも、トロスト区封鎖戦の後処理でジャンがそうだったように、「遺体(死んだ人)を気遣う余裕はない」「生きている人間が優先である」と学んでいるのでは? と思うことだ。

(引用元:「進撃の巨人」2巻 諌山創 講談社)
(引用元:「進撃の巨人」2巻 諌山創 講談社)

 少なくとも「お二人には人の気持ちがないのですか?」と言うほど一般的な感覚しか持っていないとは考えられない。
 
この人たちはどこから来たのか? 今まで何を見てきたのか? と「?」が浮かびっぱなしである。


◆「俺が仲間を信じたいと思ったから皆死んだ」のが「進撃の巨人」なのだ。

 もうひとつは「一見正しそうに見えることも、選ぶまで正しいかどうかは誰もわからない」ということが、直前の女型巨人戦で繰り返し語られていることだ。

(引用元:「進撃の巨人」6巻 諌山創 講談社)

「正しいかどうかは常に結果論であり、情報が不足していて経験則もアテに出来ない状態の中で生死をかけた選択をしなければならない」
 これは「進撃の巨人」という物語に通底する原理のひとつであり、女型巨人戦ではこの原理が色々なキャラ、展開を通して繰り返し語られている。

「私たちを信じて」→「信じたからうまくいく」というメタで見ればお約束の展開のフラグが立ったあとに、「俺が仲間を信じたいと思ったから皆死んだ」という展開になるのが「進撃の巨人」という話なのだ。(女型巨人戦は、「進撃の巨人」に通底するこのルールをエレンたち及び読者に叩き込む意味合いもあるのではと思っている)

「お二人には人の心が」と言い出した瞬間に「『自分が間違っていました』となるんだろうな」とメタで見て一瞬でわかる(そして実際にすぐにそうなる)展開は、原作にはひとつもない。
 むしろメタで見たら「正しい」と思うフラグが立ったら、次の展開で必ず裏切られる(しかも予測不能な方向に)ストーリーなのに。
 外伝で描かれた展開なのかな?(とでも思わないと納得がいかない)

 女型巨人戦でそういうストーリーなのだとずっと語っているのに「なぜ、こんな(申し訳ないが)陳腐な展開を入れたのか?」という疑問が凄い。
 時系列が整理されている、訓練兵時代のライナーの存在感が強調されている、アルミンの祖父の運命の描写など前半~中盤はいいなと思う改変もあった。
 だがそれを以てしても補えないくらいこのオリジナル展開は自分の中では納得がいかないものだった。


◆オリジナル解釈からの改変は、むしろ好きだ。

 自分は映像化やコミカライズは、(作者が認めている限りは)むしろ原作の独自解釈、補足や改変を楽しむものだと思っている。
 アニメ版「葬送のフリーレン」や漫画版「十角館の殺人」など原作との違いがあるから楽しいと思う作品もあるし、道原かつみ版「銀河英雄伝説・星を砕く者部分」のようにコミカライズのほうが好きなものもある。

 ただ「そこは原作の根幹に触れる部分ではないか」と思うところがズレていると、「この先の展開は大丈夫だろうか」と不安が先に立ってしまう。
「ドライブ・マイ・カー」のような思いはしたくないので……少し落ち着いたらこの先を見続けるか考えようと思う。


◆以下愚痴

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