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フロゲによくある「世界観の枠組みを示さずに、作内の事象から帰納して世界観を推測させる」のは禁じ手に近い。

*本記事には「エルデンリング」のネタバレが含まれます。

ブログのほうで「エルデンリング」のメリナの正体の考察をした。
「エンヤが『火の幻視を宿す者』と言っているのだから、『火』なのでは?」という結論で終わった。

仮に合っていたとしたら、クローズドサークルミステリーでまったく知らない通りすがりの人間が犯人だった、のような肩透かしを感じる。
「実は宵眼の女王でした」とか「マレニアの娘でした」とか「ラニの妹でした」などの「ちゃんとした結論」をどうしても求めてしまう。

「ラダゴン=エルデの獣=律を具現したもの=黄金律=大いなる意志の眷属=マリカ=幻視の器=エルデンリング(の宿主)=王の伴侶」ということが成り立ったり、「死を生きる者」という訳のわからない存在がいたり、魂だけが死ぬとか悪意が可視化するとかそういう世界観なのだから、「メリナ=火」だとしてもおかしくない。
「ラダゴン=マリカ」は受け入れられるのに、なぜ「メリナ=火」という推測はこんなに受け入れづらい……というより、肩透かしのような気持ちになるのだろう。

一般的な日常を生きている実感からすれば、「名前しか知らない存在(マリカ)は抽象的に語られても違和感はないが、会って話して心の交流も出来る存在(メリナ)が実は自分が幻視しているだけの存在」ということは受け入れがたい。「お話の中のさらに想像だったのか」という感覚になってしまう。

色々と考えた中では、「メリナは、火の概念を具現化した存在である」という答えが、今のところ一番妥当に思える。でも感覚的には、メリナは自分が作内で存在を実感できる人の関係者だと思いたい。
具体的な答えが欲しいのだ。何故なら、作内でメリナの存在を実感しているからだ。

下位(具現化・実体化)世界の事象の解釈を、上位(概念化・抽象化)世界レベルでしてしまうのは「何でもアリ」になりやすい。
「この世界は、何でもアリの世界観ですよ」という世界観の枠組みを最初に提示されないと、読み手(プレイヤー)はいま生きている自分の実感からの認識で目の前の事象を解釈しようとする。

フロムのゲームの世界観は、現実的な実感は一度全て外して、作内で起こっている事象から帰納して世界の法則(世界観)を構築し、その法則に則ってゲーム内の出来事を解釈して、初めてこういう話かとわかる作りになっていることが多い。
そこがフロムのゲームの世界観の大きな魅力だけれど、「エルデンリング」は「世界観の構築の仕方」も進化しており、「生死の概念」「時間の概念」、果ては下位階層(物質的な世界)上位階層(霊的世界)の境目も不鮮明だ。
それでいながら「ここはこういう法則の世界です」という世界の外枠は見せられずにいきなりポイっと放り出されるので、普通にゲームをプレイしていると、自分が何のために何をしているのかさえよくわからない。

世界観の枠組みを説明せずに、日常的な感覚では分かれている実感がある概念や階層をごちゃまぜにする。
これは、読み手に禁じ手ととらえられやすい。

そういう世界観そのものが駄目、というより、「世界観の法則性が見えないと、読み手は現実を生きる自分の認識で作内の事象を判断するしかなくなるため、
①自分の認識で作内の事象が解釈できないと、訳が分からないで終わってしまう。
②後から世界のルールを明かされると、後出しされたような感覚になる。
という風になりやすいからだ。
実際「〇〇〇〇〇〇〇〇〇」は、かなり批判された。

自分は基本的には、創作は「自分にとって面白いか、面白くないか」だけでしか判断していない。
「殺人鬼は一作に二人までにして欲しい」など色々言うけれど、最終的に面白ければ何でもいい。

「エルデンリング」は滅茶苦茶面白いのでいいが、一般的には

読み手の日常的な感覚では矛盾と感じられたり、理解することが困難な特殊な世界観を、その世界観を説明せずに、作内の事象から帰納させて世界の法則性(律)を推測させる。

こういう作りの創作は、難しい上に失敗した場合は「それは禁じ手」と批判される確率が高いので、賭けに近いなと思った。

◆余談:メリナの正体にまつわる妄想。
メリナは宵眼の女王で、本体はマリケスに捕らえられている。霊体だけが牢獄である黒い剣から脱け出して主人公に助けを求めている。
という妄想をした時のワクワク感が忘れられない。
……まだ、可能性はある。

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