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「アンチマン」の正直な感想を、せっかくなので残しておきたい。

 何を書いても角が立ちそうなので触れなかったけれど、せっかくだし自分の感想を残しておこうと思った。

 この作品は、当たり前のことを書いているように思えたので正直なことを言えばそこまで何か思わなかった。
 これが実話なら色々思うことはあるが、創作は自分にとって面白いか面白くないかが全てなのでそういう感想になる。

「アンチマン」は、ある程度意図して主人公の溝口の言動に読み手が反発や忌避の感情を持つようにしていると感じた。嫌悪感や反発を催す箇所は強調して、同情や共感を呼び起こしそうな箇所は抑制的に描いている。
 こういうことをされると、内容に関係なく話に乗れなくなる。

 そういう演出を除けば、溝口は自分の中では「標準の範囲内に収まる男像」だ。
 溝口の言動は多少露悪的だが「比較的普通の男の本音」に見える。(歩きスマホ女性へのぶつかり行為は、溝口が言うように双方の不注意で起こったことを演出でそうではないように見せているのではと感じた。この時の溝口はかなり浮足だっているから、溝口の落ち度のほうが大きいかもしれないが)

 溝口の運命は「露悪」という演出をはぎ取れば、読んでいるのがキツくなるほど残酷だ。
 溝口は最後の最後まで「全部、あんたが悪いんだよ」と父親に言わないようにずっと耐えていた。(結局言ってしまったが)

(引用元:「アンチマン」岡田索雲)

 ここまではずっと「こんなおもい」に耐えて、自分の母親を殴って追い出した父親の面倒を見ていた。

(引用元:「アンチマン」岡田索雲)

 かつては強かった父親も今は弱い。
 父親が自分よりも強かった時は言えなかった。だから自分が父親より強くなっても言わずに耐えていた。
 しかし、一瞬だけ気が緩み、今まで言わずに耐えていたことを言ってしまった。そのことに落ち込み、また父親の面倒をみる。
 若い頃母に暴力を振るっていた父親に「お前のせいだ」と言わず、介護という重圧を、「こんなおもい」を、生活の責任を「強い自分」が背負うことで耐えて、人生を恨まず誰も責めなかった。

「男らしさとは、男が本能的に持ってる力や性欲をコントロールするための社会的装置ではないか」と書いたことがある。
「男らしさ」は、社会が男に科した枷であり、
「持って生まれたその力を正しく発露するからこそ、女性はあなたを受け入れてくれる。そして女性に受け入れられたら性欲を発露して、子供を持っていい」
 基本的に(あくまで基本的に)こういう仕組みになっている。
「男らしさ」に限らず内面のものは発露されたものしか見えないから今の時代はネガティブに語られがちだが、「男らしさ」は物理的強者である男の力を抑圧し方向性を強制するために機能している。

 男が「男らしさ」という枷を外して全力で相対したら、相手が弱ければ死ぬので言えない。
 実際に父親は、溝口が一瞬だけ枷を外したために死んでしまった。

「女は戦えないから逃げるんだろ」というセリフは、自分は母親とヘルパーの女性を想定していると思う。
 男である溝口が少しでも怪しい視線を向けたら、女性は立ち向かえない。
「あなたの目線に問題を感じる」とはっきり言えるはずがない。男に代わってもらうしかない。
 それくらい自分(の本音)は女性にとって脅威なのだ、ということを溝口自身が誰よりもわかっている。
 だから「こんなおもい」に耐えている。
 弱音は吐けない、本音も吐けない。相手は自分よりも弱いのだから、それに向き合えるはずがない。

(引用元:「アンチマン」岡田索雲)

 父親の葬式でも溝口は涙どころか感情を見せない。
 そして来るはずがないと頭ではわかっている母親を待っている。(何も描いていないからわからないがたぶん。こういう溝口に共感や同情を呼びそうなところは、突然描写も言動も抑制的になる。
 母親以外の人間には溝口は「本音」や「弱音」どころか感情を見せられない。そもそも受け止めてくれる(受け止められる)相手が誰もいない。

 やり場のない感情をどこに持っていくか。
 仕事に邁進することで忘れようとする。だが、その感情の忘却の場すら取り上げられる。

(引用元:「アンチマン」岡田索雲)

 このセリフの前に不倫眼鏡男も見ているので、「お前たち」は「今の社会の空気」を指しているのだと思う。
「男の仕事」は「溝口の感情の発露の場」である。
 栄養剤を飲んで仕事をすることが、溝口にとっては「感情の発露であり」仕事に閉じこもることが「弱音を吐くこと」なのだ。

「弱音は言葉に出して言えばいい」は、「自分の話を聞いてもらえる、受け入れてもらえた成功体験がある人間」の言い分だ。
 今まで誰も自分の本音に向き合ってくれる人がいなかった、自分が要求をしたら感情を発露したら、相手は向き合えず逃げるか、下手をすれば死んでしまう。
 そういう枷を嵌められれば、仕事に埋没して感情をまぎらわすしかない。

 自分がこの話で一番ひどいと思ったのは、刃物を持った男が暴れる電車で居眠りしている溝口を誰も起こしてくれなかったことだ。
 現実的に考えれば、周りの人を責めることはできない。
 ただ作品として見たときは「溝口は、仕事に没頭することで、父親を喪った喪失感を紛らわせていたため、人が逃げ惑う中ですら目を覚ますことができず眠っている。暴漢が迫ってきても、誰からも気に留められず起こしてもらえず無視されている」ことが余りに作為的すぎて、辛さを感じる。

 溝口の「男らしく責任に耐える姿勢」は誰に知られることもなく顧みられることもない。女性から評価されることもなく無視される。
 その枷が外れた瞬間の男としての性欲の発露が「ヒーロー」と誤解され、感謝と称賛、女性(母親)が会いに来るという今まで求めても得られなかったものがいっぺんに与えられる。

「力を抑制する男らしさ」「日常を支える男らしさ」など何の評価もされない。
 人は目に見えないものは理解しないしわからない。
「今までその発露を耐えに耐えてきたレイプ願望を発露した時に、それが人を救えば『ヒーロー』として評価され、世間や女性からの感謝と称賛、愛情を得られる」というひどい皮肉である。

 作為的な作りでこういうものを一方的に見せられてもなあとつい思ってしまう。

「溝口のような心境」は、今まで創作で数多く描かれている。
 ロイエンタール(銀河英雄伝説)が一番似ていると思うけれど、尾形(ゴールデンカムイ)もアクア(推しの子)もセト(エネアド)も似たようなものだ。
 
溝口が女性に向けて言っていることや向けている感情は、ロイエンタールが言う「女は男を裏切るためにいる」と重なる。
 ロイエンタールがミッターマイヤーにさえ、酔っぱらった時にそれくらいしか言えないのを見ても、男にとって枷を外して内面を吐露することがどれくらい大変かということが分かる。
 ロイエンタールは、枷を外して全力で殴り合えるミッターマイヤーがいるだけマシだ。
 ロイエンタールとミッターマイヤーが殴り合うような意味では、男は女性とは殴り合いが出来ない(枷を外せないので、精神的にも全力ではいけない)→それを「女は戦えない」と溝口は言っているのだ。
 それは仕方がないことだ、と男である溝口わかっている。
 
 ネットでのレスバは醜い、不毛だ、感情的な応酬になりやすい、一対多になりやすい、中傷から訴訟に発展するなど問題が山ほどある(……ということは作内でも書かれている)
 山ほど問題がある。(←大事なことなので二度言いました。)

 
だが、女性が肉体的脅威を感じずに男に物が言える、女性が男に脅威を与えられる対等の敵になりうるというこの一点だけは意義がある。
 溝口がネットで女性とレスバをするのはそのためだ。(これは妄想であるかどうかは関係なく、溝口が女性と延々とレスバをするような人間であることが大事だと思う)
 
ネットのレスバでは、少なくとも母親やヘルパーの女性のように女性が戦えずに逃げなければいけないことはない。男に変わってもらう必要もない。
 だから父親に呼ばれない限りは、ずっと続けることが出来る。

 露悪的な視点では、溝口は「女は戦えないから逃げるんだろ」と言っているから女性の無力を責めているように見えるが自分は違うと思う。
 責めるなら「女は戦えないから逃げるだろ」と予測(未来)を言う。溝口は「女は戦えないから逃げるんだろ」と過去のことを言っている。

 溝口が言いたいのは「女はどうせ戦えないから逃げる(予測)」ではない。「女は戦う力を持たされていないから、逃げざる得ない」と過去の母親やヘルパーの女性の姿を無意識に想起して言っているのだと思う。
 この時の溝口は、見かけよりも「戦いたくても逃げるしかない」女性寄りの視点で言っていると思う。例によって演出でそうは見えないが。

 テンプレ的な女性嫌いの言動やレイプ願望によって、「溝口は女性を見下している」と思われそうだが、自分は溝口は肉体が介在しないネットの中では女性を対等に見ていると思う。(好きか嫌いかで言えば嫌っているとは思うけど)
 だから「レス『バトル』」(殴り合い)が出来るのだ。
 これは「女性にとって脅威である、物理的な強い力や性欲に流されやすい男体」を持った現実では出来ないことだ。

(あえて言うと)溝口のようにまともな人間にとって、女性と対等に相対する時に「女性よりも強い男の肉体」はむしろ邪魔だと思う。(暴力に物を言わせるようなまともでない人間についてはわからんが)

 レスバ自体は不毛だし、↑に書いたように他に問題が山のようにあるのでどうかなと思うし自分もやるのは馬鹿馬鹿しいと思う。
 ただ「本気で女性とネットでレスバする」溝口の姿勢自体は嫌いではない。
 たぶんだけれど、男女どちらで生きていても「異性と現実で相対して対等の立場で全力で議論すること」はかなり稀じゃないかと思う。
 男にとっては「相手より強い肉体、性欲を感じやすいために無意識にかかるブレーキ」が邪魔になるし、女性にとっては「相手よりも弱い肉体、脅威を感じやすいこと」が邪魔になる。
 そういう「議論をするのに邪魔な肉体」がなくなった時に、女性とバトルするという姿勢は自分は好きだ。(何度も言うが内容は不毛だと思う
 少なくとも「女は何もしなくていい、何も判断しなくていい、お前は俺にとって脅威たりえないから何でもしてやる」という態度よりはずっといい。

「アンチマン」は「他人が興味や共感を惹くようなもの」を取り払い、他人が嫌悪感や忌避感を抱きそうなことをわざと強調して、男の事情を描いた作品だと思う。
 その演出が作為的に感じられて、創作としては面白いとは感じなかった。
 ただこういう「男女それぞれの綺麗ごと抜きの心情吐露」作品は、どんどん増えたほうがいいと思った。まあ描きたい人がいるなら、だけど。

(ちょっと追記)
 自分は溝口は「ジャスティスブレード」の主人公が女性であると最初に聞いた時喜んだと思う。
 話を流れを見ると、「初の女性主人公と知る」→「キービジュアルを見て顔を輝かせる」→「他の人間の感想を聞いて醒める」だからだ。
 溝口が「初の女性主人公を喜んだ」のは、女性が戦える世界なら母親が出ていく(逃げる)必要がないからだ。
 そのあと醒めたのは、「声」によって現実に引き戻された時に「それはしょせんフィクションにすぎない」という反発(希望の封じ込め)では、というのが自分の見方だ。

 この話は読む人によって解釈が分かれるのでそういう造りになっているので)、あくまで自分はこう読んだ、というだけだ。

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