アニメ「葬送のフリーレン」第14話「若者の特権」の感想を、原作との違いを軸に語りたい。
*原作のネタバレが多少あります。
アニメ「葬送のフリーレン」第14話「若者の特権」を見た。
原作では読み方に迷ったり、どうなんだろう?と思う部分が綺麗に補完されていた。(フェルンがザインに「蹴って済みませんでした」と謝っているところが凄く良かった)
◆原作とアニメのシュタフェルの違い。
原作を読んだ時は、誕生日プレゼントを買い忘れたシュタルクに対するフェルンの態度を理不尽に感じ、それを(そうするのが二人の関係にとって最適とは言え)ザインが「シュタルクは子供で察しが良くないから」という原因に集約するところが納得がいかなかった。
アニメでは、フェルンがシュタルクに対して激辛なツンデレ態度をとってしまう理由が納得しやすく、「これはフェルンはそういう態度になるし、ザインもそう言うよな」と自然に思える。
多少のつけたしがあるとはいえ、展開やセリフはほとんど変えていないのに何故だろう、と自分でも不思議だったので考えてみた。
結果、原作とアニメではシュタルクのフェルンに対する態度が微妙に違うのではないか、と気付いた。
原作のシュタルクは、恋愛云々以前に「よくわからない相手(女性)」としてフェルンと相対しているように見える。
アニメだと「フェルンがしてくれたことに対してお返しをしなくてはいけないと思う理由は、自分がそうしたいからだ(フェルンのためではなく、二人の関係性のためだ)」
それはわかっているのに、出来ない自分を情けなく思っている感じが強調されている。(腕輪を見ているシーンのため息など)
原作とアニメでは二人の距離感が違う。
アニメだと上のフェルンが駆け寄ったシーンや二人が歩くシーンは、手が触れあうほど近かった。(ネットでも「手をつないでいるように見える」と盛り上がっていた)
原作のシュタルクは「フェルンが相手だからではなく、同年代の女の子だから意識している」ように見えるが、アニメだと付き合う寸前の距離感、空気感なのだ。(確かに「もう付き合ちゃえよ!」と言いたくなる)
シュタルクは同性に対しては、一回り以上年上のザインやヴィアベル、ゲナウとも自然と対等になれる。
それなのになぜフェルンに対しては極端にぎこちなくなってしまうのか。
その理由が原作では「フェルンが同年代の女の子だから」という文脈が強いが、アニメだと「フェルンがフェルンだから」という文脈が強い。
フェルンがシュタルクに一方的に「フェルン(含女の子)のやり方による気遣い」を求めているのではなく、二人で作り上げて来た関係性や距離感があり、その前提に基づいた対応を求めているのだ。
こういうことならフェルンがシュタルクからのお返しを期待してそれがないと怒るのもわかるし、その関係性に基づいた対応をしたくても出来ないシュタルクを、ザインが「ガキ」と表現するのも納得がいく。
原作のこのシーンで「自分がザインだったら、フェルンが『相談しに来た』とわからない」と言ったが、
アニメの描写ならわかるぞ! ででーん(フリーレン風)
ザインみたいに的確に返せるかは怪しいが。
◆勇者ヒンメルならそうする。
フリーレンに鏡蓮華の指輪を渡した時、ヒンメルが何を考えてどういうつもりだったか、は色々な考え方があると思うが、自分はヒンメルはフリーレンと結ばれることは最初から諦めていた……というより、視野に入れていなかったと思う。
ヒンメルは自分が人にしたことに対して見返りが欲しいと一切考えず、自分がなすべきこと、することだけを考える人だからだ。
フリーレンの気持ちがどうあろうと自分は久遠の愛情を死んだあとまで捧げる、そういう意思の表れだったのではないか。
出会った時に見せてもらった花畑の魔法の美しさに対して久遠の愛情を捧げることができる、勇者の剣を抜けなくても、魔王を倒して平和をもたらせばそれが勇者だ。
そう言う風に、自分の内面のことは自分の意思だけで完結させられるのがヒンメルの凄いところだ。
これほど強い意思を持つヒンメル(勇者)の敵になれるのは魔王だけであり、愛情の対象になれるのは信じられないほどの鈍さ(分かり合えなさ)を持つフリーレンだけなのだ。
アニメを見て、「あんな人通りが多いところで、膝まづいて指輪を嵌めたのか」と衝撃を受けた。
「勇者ヒンメルならそうする」と思っても……あれは真似できねえ。
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