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「私説三国志 天の華・地の風」全10巻の感想(裏面) この話の面白さは、物語の深層に眠る「プリンセス軸」にある。

ブログで書いた「天の華・地の風」全10巻の感想の裏面。

「表面」はこちら↓。

「表面」では「面白かったけれど、色々と矛盾があり全体像がはっきりしなかった」と書いた。

「全体像がはっきりしない理由」の理由として挙げたのは

・この話には、(主に演義ベースの)通説である「三国志」に、新たな解釈を加える「歴史軸」暗い過去を持つ主人公・孔明の内面の葛藤と自己回復を描く「個人軸」があり、この2つの軸のどちらがメインなのかが、全10巻を通して定まっていない。

「キャラの表記揺れ」が激しい(姜維や楊儀の豹変が唐突すぎるなど)

「ストーリーに直接影響を与えない意味のない描写」が多い。(*「結局、何の意味があったのか」と思う設定、いわゆる「チェーホフの銃」)
例として、司馬懿が孔明の過去を知ったものの、結局その過去を暴露をしなかったため「司馬懿が孔明の過去を知ったこと」になんの意味があったのか、など。

自分がこの話を読んでいる間、ずっと不思議だったのは「歴史軸」「個人軸」に沿って紡がれているように見える表向きのストーリーが、上記に上げた理由のためにどこかちぐはぐに見えるところだ。

これらは一見、矛盾や欠陥に見えるが、「天華」の深層化に眠る「本来の軸」を通して見ると、全てが一貫しているのだ。

自分がこの話で最も面白いと思った部分はここだ。


この話の深層には、因果さえ転倒させる唯一無二の強力なルールが眠っている。

この話は表層のストーリーである「歴史軸」「個人軸」で話を見ると矛盾が多いのだが、深層化に眠る軸を通して見るとどれも矛盾していない。

例えば六巻以降が、「個人軸」から「歴史軸」に切り替わったのは、「個人軸」が終わったためだ。
「個人軸」の目的である「救済」はなされたが、その「軸」は仮初のものなので、「救済」されても話は終わらないのだ。

司馬懿が孔明の過去を知った意味は、「司馬懿が孔明の最大のライバルとして歴史上、存在するから」だ。
つまり「司馬懿が孔明と関わるという事実が歴史上あるから、『天華』という物語では司馬懿は孔明を個人的に知らなければならない」
「知ること」自体が意味なので、知ったあとはそれを利用しなかったのだ。

姜維が孔明を裏切ったのは、孔明に振られたためである。
どこで振られたのかと言えば、孔明が周瑜の墓参りをした時だ。

振ったあとも朝薫を通して、自分を支配しようとする孔明から逃れるために孔明を殺すことを決意したのだ。
殺害のための表向きの理由が必要だったので、孔明の性行為を見た。

つまり物語内の表層に描かれているものとは、因果が逆なのだ。

姜維は孔明の性行為を見たから、孔明に支配されることを恐れて裏切ったのではない。

孔明に振られたあとも支配されることを恐れたために裏切ることを決意し、裏切るための理由として性行為を見る必要があったのだ。


「天華」という物語は「孔明という個人にとって、その対象がどういう意味を持つか」ということを軸にストーリーが紡がれている。

この軸はとても強力で、人物の言動や内面はもちろん、「歴史軸」「個人軸」どころか「時間軸」さえ動かすことが出来る。(因果を時間に沿わせず転倒させられる。)

その軸によって「歴史軸」も「個人軸」も動かされるので、通説では孔明の忠実な弟子であった姜維が、最後は孔明を裏切るのだ。

「天華」における最も重要、かつ強力なルールは魏延が話しているこれだと思っている。

「丞相はなにもお判りになっていない。その頭のなかはご自分のことでいっぱい。それがしのことも、ほかの誰のことも、お考えになろうとしない。いつも……いつでも、ご自分の気がすめば満足なのだ。この世に、ご自分にかかわりがないことなど起こらぬと思っておいでなのだ。……反吐が出る。もう飽き飽きだ!」

(引用元:「私説三国志 天の華・地の風7」 江森備 復刊ドットコム/太字は引用者)

この話は話全体が常に「孔明が満足して気が済むように動き」「孔明のかかわり(関心)がないことは起こらない」。

孔明の自意識によって、話も人物も動かされている話なのだ。

なぜ、六巻から「個人軸」ではなく「歴史軸」が中心になったのか。

なぜ、五巻(正確には四巻末)以降、魏延が急に優しくなったのか。(性行為が加虐的ではなくなったのか)

なぜ、五巻まではあれほど深く孔明に関わっていた棐妹が、六巻以降存在を示唆される程度しか出て来なくなったのか。

なぜ、棐妹と入れ替わるようにして貂蝉がクローズアップされたのか。

なぜ、司馬懿は孔明のことを調べたのか。しかも調べながら、一切それを利用しなかったのか。

なぜ、朝薫と姜維が急に恋に落ちたのか。しかも「初めての恋」「愛している」と言いながら、よくわからない理由で「唯一の女」である恋人のことを気にかけず恋人の父親を陥れたのか。

これらは全部、「孔明がこうして欲しい」と思うように物語が動き、その意思に登場人物が沿う、もしくは全力で抗った結果が表層のストーリーラインだからだ。

この深層のストーリーラインを生み出している「孔明の自意識」を、「感想2」にちなんで以後「プリンセス軸」と呼ぶ。


「プリンセス軸」によって構成される真のストーリー

この「プリンセス軸」を以て、「天華」のストーリーを見るとこういう風になる。

孔明が理解者として選ぶ男は、周瑜、魏延両方とも、最初は非常に加虐的である。(二人とも孔明を脅して関係を持つ)

これは何故か言うと、孔明に「被虐の欲望」(1巻)があるからだ。
だから周瑜は「こんなことをするつもりではなかった」し、魏延は後の孔明への対応から見るように、そこまで加虐嗜好があるわけでもないのに、最初のうちは非常に加虐的なのだ。

二人とも「孔明の被虐願望を叶えるために、自分の嗜好ではないのに加虐的なふるまいをする」

このラインで見ていくと、孔明が周瑜を殺した理由は「加虐的ではなくなった」からではないかと思う。
本当に孔明が言う通り、「強い男に心身をゆだねたい」が「劉備との水魚の交わりが断ちがたかった」のならば、後で劉備を殺すのは辻褄が合わない。

周瑜が自分の被虐願望を満足させられなくなったので、相手を玄徳に変えたくなったのだと思う。

周瑜をあんな風に裏切って殺しておいて、「永遠の恋人」だの「愛する夫を失った未亡人」だの言えるところが、「自分の認識のみで世界を支配してしまい、他人もその認識でいて当たり前だと思っているプリンセス」の真骨頂だ。

「天華」の恐ろしいところは、そういう言葉をスルーしてしまいそうになるくらい、全編が孔明の認識(自意識)によって支配されているところだ。


ところが劉備は、(恋愛という意味では)孔明をまったく相手にしなかった。(孔明が劉備に「人間扱いされていなかった」というのは、恋愛対象として相手にされなかったことに対する恨み節だと思う)

またこの時孔明は、魏延というパートナーを得て、被虐願望はだいぶ満足している。

もうひとつ、劉備が死ぬ直前辺りで孔明の「被虐の欲望」がだいぶ治まったのだと思う。

「被虐の欲望」は、性的な面以外でも「自分の真の力を眠らせる」方向にも働いていた。(自分の能力を発揮しない、というのもある意味被虐だ)
その欲望がなくなったために、自らの能力を試したくなり劉備を殺したのだ。(*孔明は星の双子である献帝に代わって漢王室を復興させるのが、全編を通じたモチベーションに見えるが、辻褄が合わない部分があるので、これも恐らく表層上のものだと思う)

「被虐の欲望」が無くなったのは、魏延に心身をゆだねられるように(要は愛し合うように)なったためだ。そして孔明の「被虐の欲望」がなくなると、魏延も徐々に加虐的なふるまいを止めるようになり、四巻の半ばくらいで「以前の、拷問のような交わりがなくなって」「気味がわるいくらい丁寧」(四巻)になる。
ここで十分とは言えないにせよ、「個人軸」の課題である「愛情による過去の傷からの救済」はなされている。

五巻が「主人公教」に見えたのは、「個人軸」が消え、深層に眠る「プリンセス軸」が露骨に出ているからだ。
棐妹は孔明の思うままに動く操り人形にしか見えないが、「孔明と棐妹の関係」が全登場人物との間に築かれているのが、この話の真の姿だ。

「個人軸」の「救済」がなされた孔明は、急激に「歴史軸に干渉できるほどの能力」を失う。
正確には干渉する必要がなくなったので、六巻以降は「歴史軸」がメインとなり話が進む。

姜維は「最初は周瑜に似ていることに意味があった」と孔明が語ったように、物語的には「周瑜の代替」、正確には「孔明の周瑜への思いの残滓」として出てくる。

魏延が嫉妬しているところや孔明が自らを「愛する夫を失った未亡人」になぞらえているところからみても、魏延と孔明が真に結ばれるために「孔明の周瑜への思い」を浄化しなければならない。
そのために(周瑜に似ている)姜維が出てきたのだ。
馬謖はいわばそのとばっちりを受けた。気の毒で仕方がない。

姜維は「周瑜の代替」なので、そもそも最初から孔明が好きだった。だから孔明の性行為を見た後は、朝薫との性行為を妄想しても孔明に顔がすげ代わってしまうのだ。

朝薫が孔明の代替なのだ。

しかし姜維は孔明に振られてしまう。
孔明が周瑜の墓を詣でているときに、思い出していたのは魏延のことだった。

孔明に振られたうえに、自分を振りながらなおも娘を通して自分を支配しようとする孔明から逃れるために、殺したのだ。
しかし物語の表層上は殺す理由がない。その理由を作るため、性行為を覗き見た。
 
孔明の死に方は、孔明が周瑜を殺したやり方と似ているのも、姜維が周瑜の代替であることの示唆であるように思える。(二人とも幽鬼のようにひからびて死んでいる)

司馬懿が孔明の過去を調べさせたのは、利用するためではない。知らなければならなかったからだ。
なぜ司馬懿が孔明を「蜀漢の丞相」としてだけではなく、個人として知らなければならないかと言うと、
「この世に、ご自分(孔明)にかかわりがないことなど起こらぬ」
というルールがあるためだ。

司馬懿は「孔明の最期のライバル」という歴史上の事実があるために、「天華」においては「司馬懿は、孔明個人のことを知らなければならない」。

「天華」は本来はこういう軸に沿った話であり、その上に「個人軸」や「歴史軸」によって構成されている表層のストーリーが被せられている。
被せられているものは真の軸によって左右されるために、唐突に切り替わったりする。

これだけだと「感想4」で書いた通り「主人公教」だ。(実際、五巻までは怪しかった)

この話は「プリンセス軸」を他の登場人物が認識しているところに面白さがある。認識している登場人物が、その軸に抗ったりツッコミを入れているために奇跡的に絶妙なバランスを保っている。


登場人物は「プリンセス軸」に気付いている。

孔明の巨大な自意識に狙いをつけられた登場人物は、事あるごとにそれに抗おうとする。

上記のルールについて話している魏延も「……反吐が出る。もう飽き飽きだ!」と言っているし、劉備も「もう御免だ。儂は御辺の人形ではない。息苦しい」(四巻)と言っている。

姜維が孔明を殺したのも、孔明の自意識から逃れるためだ。

姜維も朝薫も、自分で相手をえらんだと思ったのは錯覚で、じつはずっと、丞相の手の中で、おどっていただけなのだ。

(引用元:「私説三国志 天の華・地の風9」 江森備 復刊ドットコム/太字は引用者)

「孔明は自分を手に入れるために、娘である朝薫と娶せようとしているのではないか」という姜維の推測は被害妄想のように聞こえるが、自分はかなり真実に近いのではないかと思っている。
何故なら、孔明が周瑜(=姜維)を振ったタイミングで、姜維と朝薫は出会い恋に落ちているからだ。

姜維が言うように「女」は、孔明にとっては利用するだけの道具であり、実際に孔明は紫陽以外の女性には非常に冷たいか無関心だ。

棐妹は利用するだけしたら六巻以降ほぼ出て来なくなる(この話は孔明の自意識に支配されているので、孔明にとって必要がない人物は存在感をなくす)し、黄娘は手つかずのまま放置、義母のことは(当然とはいえ)憎んでいる。

黄夫人については、亡くなった後はほとんど思い出さない。(周瑜との落差が凄い)
命の恩人である貂蝉でさえ、「この女、何を企んでいる」と思い、長い間警戒を解かなかった。

そう考えると、紫陽、そして年がいった際に貂蝉と和解したのは、彼女たちが(孔明の中で)「女」ではなくなったからではないかという見方も出来る。

朝薫は「姜維と恋に落ちるためだけ」に出てきたといっても過言ではない。
朝薫が初登場した時に言っていた「孔明は実子だということに疑惑をもっている」という話(意味のない描写の一例)も何だったのだろう?と思うが、それは孔明の中でどうでもよくなったのだろう。

朝薫は孔明の代わりに姜維(周瑜=最初の夫)をつなぎとめることで、「孔明の娘」になったからだ。

このように孔明の射程に入った人間は、必死にその恐ろしさを訴えているのだが、いかんせんこの話全体が孔明の認識に支配されているために、追い詰められてことを起こした場合、物語上劉備や姜維のように「ひどい人」になってしまい、同じことを周瑜や劉備や劉封やその他大勢にしている孔明は「可愛そうな人」になってしまうのだ。

もう一度繰り返すと「プリンセス」は、下記のような特性を持つからだ。

ひと言で言うと「自分の認識のみで世界を支配してしまい、他人もその認識でいて当たり前だと思っている」だ。
だから他人が他人の認識で行動して、その行動によって自分が傷つくと物凄く理不尽な目に遭ったかのような被害者意識を持つ。

これが「プリンセス軸」の恐ろしさである。


「最強のプリセンス」孔明の魅力。

「自分の認識のみで世界を支配してしまい、他人もその認識でいて当たり前だと思っている」

魏延の指摘によると「その頭のなかはご自分のことでいっぱい。それがしのことも、ほかの誰のことも、お考えになろうとしない」

「天華」はこういう特性を持った「プリンセス孔明」の強烈な自意識によって支配された世界であり、孔明の射程に入った登場人物、劉備、魏延、姜維はそこにツッコミを入れたり必死に逃れようとしたりしている。

対して孔明の射程の外にいて、比較的その影響を受けない龐統や法正などが正しくその姿を把握しているのも面白い。

貴君には不思議な魅力があるようだ。
人は貴君の冷たさを畏怖し、人の心を操りつづけることに嫌悪し、だがやがて、我と我が身をすりへらしてそれに徹し続ける貴君に引き込まれてゆくのだ。

(引用元:「私説三国志 天の華・地の風4」 江森備 復刊ドットコム/太字は引用者)

この物語の面白さを支えているのは、孔明という人物像の面白さと魅力だが、それを最もよく表しているのが法正のこの言葉だ。

こういう理解を示す法正が死ぬ間際に頼んだ劉封でさえ死に追いやっているのだが、そうしなければ生きていけない必死さが、人をどうしようもなく惹きつける。

全てを支配しておかなければ安心して眠ることもできないところが幼いころに受けた傷の深さを想像させ、自分の都合で主君やその親族を次々死に追いやる「冷酷な悪鬼」であることはわかっていても、ある種のいじましさを感じてしまう。

「天の華・地の風」の孔明ほど、「プリンセス」の特徴と恐ろしさを巧みに描いている話は見たことがない。

少なくとも自分にとっては色々と考えて延々と語りたくなるくらい、稀に見る面白い話だった。

思い出して読んでみて本当に良かった。
「鶏肋増田」に大感謝している。

読み終わってしまった。寂しい。

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