社会と創作について。「壁と卵」の話

だいぶこの問題について気持ちが落ち着いたので、現状の自分の考えについて書いておきたい。

どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。

(引用元:村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵 – Of Walls and Eggs」)

村上春樹の作品自体は好きなものと興味がないものにはっきり分かれているけれど、この人の作家としての姿勢や物の考え方は凄く好きだ。

当たり前だが個人も間違うこともあるし、醜く悪い部分もある。自分も嫌いな人も賛同できない人もいるし、その言動を受け入れがたい人もいる。
個人対個人なら、いくらでも批判し合えばいい。

でも「社会」(集団)という巨大なものを用いて、個人の内面に侵入しようとしたり、価値観を操ろうとしたり、破壊しようとする場面があったら、常にそれにはNOと言いたい。
「社会」(集団)に個人の内面まで従わせる、その基準に合わせさせるというのは恐ろしいことだ。

個人というのは集団の前では、とても脆い。多数派と少数派は、その時の状況でも変わる。
だから自分が気付かないうちに(もしくは意識的に)その脆いものをつぶす側になってしまうことがある。

私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。

(太字は引用者)

「物語」というのはどこまで行っても、「私的」「個人的」なものだと自分は思う。
書き手は書くときは一人で物語を書き、読み手は読む時は一人で物語を読む。
書き手が書いたものを、読み手が自分独自の「認識」というフィルターを経て、「物語」は生まれる。
だから同じものを読んでも、読み手によって解釈は異なる。そしてそのまったく違う解釈(個人的な世界)が並び立つことが許されることが創作の素晴らしさだと自分は思う。

「物事を正確に伝えようとする=世界を統合しようとする」現実の言葉や文章とは、違う目的を持つものなのだ。

だから、その個人的な認識(内的世界)を「社会のために」一元化しようとする発想には強い警戒感がある。

「同じ物語を読んでいるのだから、どんな人であれ同じ影響を受けるはずだ。それは社会(社会は無数にあり、無数にある社会がさらに大きな社会を構成するが、主張者が見えない社会については除外されている)のために良くない」

「同じ物語を読み、同じ影響を受ける」という発想自体が人間は画一的である、という前提がある。
認識のコンセンサスを取ろうとしている現実の言葉ならばともかく、様々な認識の仕方が許される創作で「(様々な認識が並び立つのに)他人がどんな影響を受けるかわかっている」という発想は納得しがたいし、「その影響の善悪を自分が判断できる」という発想は怖い。

自分は創作という「個人の内的世界」は、社会に対して個人が唯一持ちうる抵抗の方法として保全しておくべきだと思う。

現実の世界において社会と個人がぶつかったら、個人はひとたまりもない。社会が間違った場合、取返しがつかない。(そんな状況は歴史上、山のようにある)

個人対個人なら批判なり批評なりはいくらでもすればいいし、描写について言及するのも自由だと思う。

だがそれを「社会のために(どんな集団なのかわからない概念。前にも書いたけれど、言葉は機能に過ぎないので、『多様性』という言葉で価値観を一元化させることも出来るし、することも十分有り得る)」というならば、それは危ういと考えている。
(個人はその内面(創作)も社会に従うべきだ、という考えそのものに反対。理由は社会が変わったときに、社会的弱者になりうる人たちの抵抗の武器がなくなるから)

何の背景も持たない脆弱な個人であっても、というよりそうであるから、社会に対して自分の内的世界を守るためにこういうことは言っていきたい。

自分も脆弱な個人であると同時に、誰かにとっては「社会」の一部であり、そのために「壁」として機能してしまうことは往々にしてある。誰もがそうなのだと思う。

何かがあったときに壁対壁、卵の集団対壁ではなく、「それは卵対壁になっていないか」を考えることが大事だと改めて感じた。


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