「書評と感想と批評、評論の違い」と「動画と文章の違い」について考えたこと。

書評と感想の違いを、説明できるほどはっきりわかっていなかった。

感想は根拠のない主観的なもので、書評は(解釈は主観になるにせよ)作内描写や同分野の別作品、他分野からの知識などの根拠を上げながら、客観的な意識を維持して論じるものかなくらいに思っていた。

少し調べてみたけれど、上記の記事の

読書感想文は自分のために書くもの
書評は誰かのために書くもの
読書感想文は自己の変化に焦点を当て書き、書評は書評を読んでくれる人が面白いと思ってくれるように書く、という違いがあるように思えます。

という説明が一番しっくりきた。
書評は「紹介」というニュアンスが強いようで、
自分が考えてた「書評」は、「批評」や「評論」に近い。

事物の美点や欠点をあげて、その価値を検討、評価すること。狭義に芸術批評、ことに文芸批評をさすことも多い
「批評」が、特定の事物に関し、それに対する判断を述べるだけなのに対して、「評論」は、さらに論理的、総合的にある事物について論じること、また、その文章をいう。

上記を踏まえて「感想・書評・批評・評論」の違いを整理すると、

「感想」=その創作に触れたことによって起こった自己の変化(感動が心に生まれた)などを、自分のために書く。
「書評」=その創作を未読の人に面白いと思ってもらうために、客観的に紹介する。
「批評」=その創作を全て読んだ上で、様々な観点からその価値を論じる。
「評論」=根拠を提示した上で批評を行う。

「感想」は自分用の備忘録。
「書評」は未読の人への紹介。
「批評」は既読を前提にした評価。
「評論」は批評をさらに論理的にしたもの。

こう理解した。

自分は「書評」を「批評」や「評論」に入るものだと思っていたので、書評家の豊崎さんがTikTokで本を紹介しているけんごさんについてしたツイートは、「対象が違うし、書評の評価軸に『本が売れたから』を持ってくるのは不思議だ」と思っていた。

しかし「対象とする人が違う」のは自分の勘違いだった。
細かいターゲッティングに違いはあるのかもしれないが、「その本を未読の人が興味を持ってもらうように紹介する」という意味では、対象は同じだ。

そうして「(対象の作品を)面白いと思ってくれるように書く」ことが書評の目的であるならば、「売れたこと」は書評に対するひとつの大きな評価軸になる。

そもそも「小説」……というより、文字から情報を得ること自体が、「特定の人の特殊な癖」だと思っている。

文字メディアしかない時代ならばともかく、個人が動画で受信も発信も出来る時代の今は、さらに「わざわざ文字で情報を得よう」という人は少ないだろう。


自分は動画よりも文章のほうを好むが、動画よりも文章が優れていると思う点は二点ある。

一つ目は、読み手である自分の裁量で情報を得る量や得たい内容を、細かく調節できる点だ。

動画も静止や遅送りすることはできるが、喋りの速さと読むスピードが対置すると考えると、「喋りの速さ」は動画作成者が決め、「読むスピード」は読み手が決めている。
どの文を強調して、どの文を流しめに読むかなどの細かいことも含めて情報の強弱にアクセントをつけるのが、発信側であるか受信側であるか。
この点は、自分の中では動画と読書は正反対だ。

二つ目は動画は情報量が多く、読書は情報量が少ない。
情報は処理できる限界が決まっているので、多ければ多いほどいいものでもない。
自分はむしろ「必要な情報だけを最小限に得たい」ので、相当ミニマムに整理されている動画でなければ、視覚からも聴覚からも情報が入るのは「多すぎる」と感じてしまう。

自分が動画が苦手な理由は①「自分の裁量で情報を得る速度が決められない」②「情報が多すぎる」ためだ。

同じ理由でドラマや映画、アニメよりは、圧倒的に本や漫画、ゲームのほうが好きだ。(ゲームは情報量が多いが、自分主体で動くので楽)
受け取れる情報を(量、内容共に)、自分で細かく調節できないものは苦手だ。

自分のように「動画と文章では文章を好む」というより、「動画と文章は特徴がかなり違うので、(動画も見るけど)動画が文章を代替することはない」という人も一定数いると思う。

だから文字メディアが完全になくなることはないだろうけれど(と思いたい)、ただそれでも文字メディアは今よりさらにニッチになっていくと予想がつく。

今回の件を見ても分かるが、本の紹介も文字よりも動画のほうがリーチする層が遥かに広い。

仕事として長年やっている人にはこだわりも自負もあるだろうし、それは自分にはわからないことだと思うが、「紹介の方法論で争って、文字メディア自体の衰退がさらに加速することが一番怖い」というのが、この件の感想だ。

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