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「スキップとローファー」の志摩聡介が苦手である。

 以前「スキップとローファー」を読もうと思って、とりあえず一巻を試し読みしてみた。
 他の部分は面白かったが、ヒロインの相手役の聡介という人物が合わな過ぎて読むのを止めた……が先日思い出して、もう一度読んでみようと思い立った。

 ストーリー自体は面白いが、やはり聡介という人物が合わない。ストーリー内の他のキャラの「聡介は優しい」という見方も疑問がある。
 自分から見ると、聡介は優しくない。なぜ優しいと言われるのかも理解できない。

 聡介は「優しくない」と思う一番の理由は、「自分のことはわからない」と言うのになぜか他人のことはわかると思っているところだ。

(「スキップとローファー」高松美咲 講談社)
(「スキップとローファー」高松美咲 講談社)

「自分の感情は自分にしかわからない」のは当たり前のことである。

 しかし聡介は「自分のことは他人に聞くほどわからない」のに、氏家(他人)のことは「興味はないけど、言ってほしそうな言葉はわかる」と言う。(ここ以外でも、最初のころ、ミカにも肩の力を抜いたほうがいいと言っていた……聡介自身はどうなんだ?)
 自分はこういう聡介の態度こそ(作内で言われる)「他人を舐めて雑に扱う態度」だと思っているので、これについて誰も何も言わず、そういう見方が物語内に存在しないところに首を捻ってしまう。
 自分から見ると聡介は傲慢な人間で、しかも自分がそういう人間だと無自覚なのだが……。
 そういう視点が物語内に一切ないのが辛い。

 既刊9巻まで読んだ限りだと、「スキップとローファー」は無価値感ルートの価値観が支配的な話であり(千笑璃がミツミに「悪意に鈍感」と指摘したように)罪悪感を内包する自分の悪性に自覚的なキャラが当たり前のように人間関係における「悪」を引き受ける話だ。

*罪悪感ルートと無価値感ルートについて。

 
 読んでいて薄々そうではないかと思っていたが、聡介が

(「スキップとローファー」高松美咲 講談社)

と自己の内面を語っているので「やっぱりそうか」と思った。

 自己が他者に侵襲されることで成り立っている「無価値感が強い人間」と自他の境界を強烈に意識することで成り立っている「罪悪感が強い人間」は、世界観の生成過程が真逆であり(基本的に)相容れない。

 罪悪感ルートの世界観に偏っている「進撃の巨人」では、聡介的キャラであるヒストリアはエレンに「不自然で気持ち悪かった」と指摘されている。

(「進撃の巨人」14巻 諌山創 講談社)

 ヒストリアはこの場面で「本当の私はこんなに空っぽで、クリスタ・レンズみたいないい子はどこにもいない」と語っているが、「無価値感が強い人物」は「他人に侵襲されている状態がデフォルト」なため、「自分は空っぽだ」と感じやすく、自分の意思や感情がわからないことが多い。

*「葬式帰り」の章雄のように幼いころから性的虐待を受けてきたのは一番悲惨な例だが、大抵の場合は子供のころ、自分の感情や意思決定の一部を他人(たいていは親)に、乗っ取っとられてしまっていたことが要因として大きいもよう。

 自分は「進撃の巨人」のケニーや「ファイナルファンタジータクティクス」のガフガリオンのような自己の悪性を自分のみで引き受ける(引き受けざるえない)キャラが好きである。他者や社会と自己の境界が曖昧で「『自己の』悪性に無自覚なキャラ」には疑問……というより、嫌悪を持つことが多い。
 客観的に見てわかりやすい「悪」は、多くの場合、強い人間が引き受けさせられる。だが本来、悪性は他人との比較や関係によって生じるものではなく、誰もが「その人独自のもの」を持っている。

「スキップとローファー」であれば、自分の悪性(醜さ)をちゃんと引き受けているミカや千笑璃が好きである。
 千笑璃は物語的に「ミツミを好きではない聡介」という立ち位置に見える。梨々華と同じで聡介の悪感情を移植されたキャラである。(聡介が梨々華を突き放せないのは、「自己の一部」だからだ)
 梨々華が聡介の母親に怒りを表したり、千笑璃がミツミに「他人の評価を気にしなくていいのは愛されて育ったからだ」という嫌味を言うのは、メタで見れば聡介の悪性や負の感情を代替している。
 聡介が自分で自分の悪性を引き受けない限りは、こういうキャラが増殖していく。

 無価値感に支配されると「他人に侵襲されている状態がデフォルトで、自分の意思や感情も自分のものか他人のものかわからない」から「自分の悪性」もわからない(自分固有の悪だと認識できない)
 周りも指摘するのが難しく不可視化されやすい。
 だが自己は悪性も含めて自己なので、「自分固有の悪性」も自分のものとして認識して取り戻さなくてはいけない。

というように、7巻くらいまでは「女の子同士の関係は好きだし話も面白いけど……聡介はどうにかならんのか」と思いながら読んでいた。

 だが9巻まで読んで少し見方が変わった。
 聡介の内面に話が移ったからだ。
 自分は「スキップとローファー」の主人公(その人物の成長が物語の展開とシンクロする人間)は聡介ではないかと思っている。
 コミックスの表紙の聡介の表情は、「不自然で気持ち悪かった」(©エレン)から徐々に変わってきている。

 最終的には聡介が「他人の期待に答えない自分は価値がない(無価値感)」を乗り越える話になるのだろうか。
 そうならないと、この話は終わったとしても作外未来で、延々と聡介の悪意の分身が作られるエンドになる。
 千笑璃のようなキャラが聡介から受け継いだ悪意をミツミにぶつけ続け、そのミツミを聡介が支える自作自演が延々と続くことを予想させるエンド……も個人的には面白いと思うが、後味は悪そうだな。

(余談1)
 
聡介のように「負の感情をないものとして生きる問題」を罪悪感ベースの世界観で描くとどうなるかが「君が獣になる前に」である。
「君が獣」の神埼と琴音の関係が、「スキロー」の聡介と梨々華、千笑璃の関係だ。
 物語としての出来は正直さほどいいとは言えないが、自分は「君が獣になる前に」が凄く好きだ。 

 ラストはちょっと残念だったけど。

余談2)
 ナオは「ミツミのことは愛しているが、その話を聞いていると自分が同い年の時と比べて苦しくなる」と恋人に語るシーンがある。
 このシーンの会話に自分は違和感を覚えた。
 ナオの人生はミツミとの比較で成り立つものではない。例えミツミが同じ苦しみを抱えていたとしても、ナオの苦しみが癒されるわけではない。
 悪性と同じで、自分の苦しみは他人との比較で成り立つわけではなく、それ自体としてあるからだ。

 自分(の感覚)だったら、ナオの気持ちをわかろうとするにしても「ミツミとナオの人生は無関係だ」という前提から話すと思う。
 ナオもわかっているとは思うし、この会話以外ではそういう部分はない。
 だがこの話は、その場の言動の背景やコンテクストに注目することが多いのに、聡介やナオについてはそうならないところはアンバランスに感じる。(「スキップとローファー」はこのシーンに限らず物の見方がアンバランスなのに、その点に無自覚なところが気になる)

「罪悪感駆動の話」と「無価値感駆動の話」の違いは、「エゴイスト」の主人公浩輔とこの時のナオとゴロの会話を比べてもわかりやすい。
 罪悪感駆動の「エゴイスト」の場合は、タイトル通り「相手を自分の人生のダシとして見ることの悪性」に凄く自覚的な話で、相手の人生を乗っ取ってしまう。
 自覚的にやるほうが結果がひどいことになっているので、あくまで考え方の好みの問題である。

 ノワール小説の傑作として残して欲しい「エゴイスト」
 それにしても罪悪感駆動でも無価値感駆動でも、親との関係の影響が大きすぎる。怖い。

※作品全体の正直な感想。


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