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「みんなでミスれば怖くない!?」の感想

 以下の文章は全て個人的な見解です。権利者の方々による指摘や、個人的な気付きによって、予告なく変更・削除する可能性があります。
 また、視界が狭い人間なので、色々とご指摘いただければ幸いです。




前提

  • 5~6人プレイ。



感想

クイズっぽいパーティゲーム

 お題が出て、そのクイズに対して解答を書き、答え合わせをしていくようなゲームだ。答えが合っていれば、1点を得られる。

 これだけを見れば、ただのクイズなのだが、それとは別に、間違った解答をしたプレイヤーが、同じことを書いているのであれば、その人数分だけ点数が得らえることになる(正しい解答であれば、上述の通りで何人被ろうとも1点でしかない)。

 被っている、ということは2人以上でその解答をしているので、1点よりは必ず多くなる。これが、みんなでミスれば怖くない、ということなのだ。



このような点数付けで生まれる体験

 このような数理を持っていることによって、実装はただのクイズではあるのだが、異なる体験が生まれている。(そして、それが生まれるようにクイズが作成されているようだ)


 まず、間違えが想定しやすい問題がある。

 たとえば、ある国の首都は、というような問いで、最も有名な都市が首都ではない問いの場合、有名な都市の名前を書く、というようなものだ。

 これは、ある種の同調ゲームというか、互いが互いに相乗りすることで、より高い効果を求めようとするような雰囲気が発生する。


 次に、答えが明らかだが、どのように間違えるかがわからないような問題がある。

 この場合、明らかな答えを選んだ時は1点が確実に得られ、他のプレイヤーと合うことができればより多く得点できる、というような状況になる。

 この状態は、大喜利ゲームに近いような感覚もあり、ある種、クイズ番組におけるいわゆるおバカタレントの解答のような、どのような方法で間違えるべきか、というのを考える体験になり、独自性がある。


 最後に、(クイズに得意な方はそうではないかもしれないが)普通にある程度難しい問題がある。

 この場合、普通にそれを解こうとするのもアリではあるが、重なれば得点になるため、あまり気負いせず、なんとなく、解答っぽいことを書けばいいという気軽さがあるクイズになっている。


 クイズの難度(とその時のプレイヤーの技量)や、その性質によって、質の異なる体験が一つのゲームに封入されているように感じ、興味深かった。



実際に求めているであろうもの

 実際にこのゲームがどのような体験を生み出す目的で製作されたのかを考えてみると、それはおそらく、わざと間違えて、それを合わせることを楽しむ、というような形や、誤答あるあるを楽しむような形なのだろう、という気はしている。

 なぜならば、クイズが得意な方々によって製作されたものであり、その内容を見ても、クイズでよく出題されるであろうようなものや、間違えをある程度想定できるような問いも多いと感じたからだ。

 ただ、間違えるバリエーションが多いもの(たとえば、『銀行・コンビニ等に置かれる金銭の預け入れ・引き出しをする機械はアルファベット3文字でなんと言う?』など)の場合、答えを合わせることは難しくなり、どちらかというと大喜利の様相を呈するのに対し、逆に間違いを想定しやすすぎるもの(たとえば、『オーストラリアの首都は?』など)は、基本的にはその想定される間違いを書くことが正解になりすぎる(正答しても1点しかもらえないため)という嫌いがある。

 これらの体験にフォーカスした場合、面白くなる幅が狭く、結果として、連想ゲーム的な体験に収束してしまうため、クイズである意味はどんどん少なくなってしまうのではないか、とも感じた。



ゲームとしての破綻

 実際に行われることはないと思うので、これを論ずることはあまり意味はないのだが、ゲームとして簡単に破綻してしまうのも、問題ではある。

 というのも、『クイズと正答』というクイズの軸が『1点』でしか結び付けられていないのに、『バッティングと誤答』というバッティングの軸が『2点以上』で結び付けられているので、後者の方が強くなってしまう。そして、『正答』以外のものはすべて『誤答』であり、『誤答』は『クイズ』とは事実的に無関係に成立しうる。

 その結果、原理上、何が起こるかと言えば、たとえば、あるプレイヤーが『この先、自分は『あ』としか書きません』というような『解答』をする(その時の問いが何であるかは関係がない)。そして、その先は実際に『あ』を書き続けるのだ。(もちろん、途中で裏切ってもよいが)

 それに同調するプレイヤーが1人でもいた場合、それに乗ったプレイヤーたちは延々と2点以上を獲得していくだろう。『あ』は(それが正答の問題もあるかもしれないが基本的に)誤答であり、それが被っているという条件を満たすからだ。これではまともにプレイするのはバカバカしくなってしまう。点数上の関係から、別の勢力が生まれたり、裏切りが発生したり、ということはあるだろうが、それはこのゲームとはまったく別の軸で行われることになってしまう。つまり、ゲームが破綻する。(念のため追記しておくが『ゲームを壊そうと思った行為の結果壊れる』のではなく、『ゲームで勝とうと思った行為の結果壊れる』ということになるので、ゲームが破綻する、と記載している)

 流石にこのようなことは思い付いてもやらない(実際にやらなかった)とは思うが、トートロジーで解答する(『オーストラリアの首都は?』『オーストラリアの首都』)ムーブメントが発生する、ウケ狙いで同じ解答が繰り返される(天丼)結果として上のような形となる、ぐらいは想定しうるし、発生するゲームがあるのではないか、とも感じる。

 やはり、問題と解答という軸に対して、正答と誤答というアプローチで、バッティングをする以上、誤答の領域が広すぎて、何らかの破綻が発生する可能性は高いだろう。抜本的なメカニクスの調整は必要不可欠だ。

 逆に言えば、このような穴があるルールになっていること自体、ボードゲームの文脈とは少し異なる視点で創られている証左であるとは言え、その視点に価値があるゲームである、とも感じた。


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