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私の作品について/西洋と日本の近代絵画と、そのしつらえと

前回、昔話「見るなの座敷」からそのしつらえに着目しました。今回はそこから絵画の歴史について。
 私は美術史家や評論家ではありません。
 作家として、自分で絵を描き、発表してきた中で見知った観点からの近代くらいまでの絵画で表現する上での、職人もしくは画家の視点のざっくりとした印象をさらいます。
 傾向としての話で、例外的な作家もいることは言うまでもありません。

○西洋
 自然を把握し、隅々まで支配するかの如くデッサンを学び、陰影による立体表現や遠近法を駆使する。見せかけの奥行きを絵の中で作る。現実を絵の中で再構築していくような意識。
 見て何が描いてあるかが誰にでも分かるような具体的な物体(壁や床も含む)で埋め尽くし、そこに宗教的な意味づけを行うことが一般的。どのように描くとリアルに感じるか、のテクニックを習い、それを磨く。
 言わば足し算です。意味で埋め尽くされているような隙のなさを感じます。

○日本
 シルエットと色彩の分割により、現実よりも極端に単純化し、抽象的な「間」をあえてたっぷり残す、引き算の絵画。前提として絵の平面性に抵抗せず(平面を平面のまま受け入れている)、それを活かすような描写。自然観察による個人的な把握よりも、型や伝統を受け継ぐのを優先しています。絵の具など素材そのものの中に自然を取り込む傾向があります。
 現実から型を抽出するような意識、文様のパターンなど。

 部屋と部屋を区分けした壁に穴を穿ち、蝶番を付け、手で掴めるノブを誂えた代物が、ドアという確固たる動く壁だとするならば、襖や障子、屏風などの和のしつらえは。
 これまた建築にも疎い自分が、旧日本家屋などを実際に歩いてみてどう感じるか・・・それは、「部屋よりも先に、この間仕切りがあったのだ。」そんな風に思うのです。間仕切りと間仕切りで区切られた何もないところを、仮に部屋とする。そんな逆説を言いたくなるような不思議な感覚に陥ります。

 「間」と呼ぶのも、そのような美意識からなのかもしれません。

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