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魔法物語 メイリ7

 そこに、ホーサグはいた。
 突然、脳裏に浮かんだルシフスという名前に、全身が小刻みに震えていた。かつて経験した、砂嵐の印象と重なり合って、その特別な名を受け止めた。
 嫌悪と恐怖、畏怖。自分でも滑稽なほど、その言葉に敏感だった。
 それは意図せぬ変身のおぞましい記憶とも結びついている。変身については、その後魔法によって解いてもらえたものの、完全に元に戻ったわけではなく、納得できる自分になるために、時間をかけて鍛える必要があった。
 そんな苦い記憶の鍵となる名前がルシフスだった。その青い竜に責任があった、というわけではないのかもしれないけれど、恐怖心は責任の有無によって決まるわけではないのだ。
 ひとつ覚えている。ルシフスの登場によってもたらされた、さながら暴走する幻覚によって受けたかのような攻撃。なにひとつ対応できず、それらを受け取ることも拒絶することもかなわなかった。
 ただし今は違う。次の瞬間に来るものを知っているだけでも意味がある。
「伏せろ!」
 そう叫びながら、自分も伏せる。身体の平衡を保つために使われる力を空けて、余力とする。わずかでも余裕を作る必要がある。
 オクライは突っ立っているが、リーラは即座に反応してくれた。刹那の後、それは来る。
 視界に迸る色、形。大きく、小さく、揺れ、回転し、収縮し拡大する心象の奔流。重なり合う音、響き、こもり、突き抜けて届く。さらに触感。ザラザラし、ふわふわし、滑らかに堅く、冷たく、また熱い。香しく、あまやかで、純粋で複雑な匂い。渋く苦く酸っぱく辛く甘く透き通って混濁する。
 矛盾するのではない。感覚はそれぞれに粒だって、それぞれに主張し、溶け合わずただ短い時の中に強引に詰め込まれている。世界に存在する感覚、感触をすべて、そっくりまとめて頭の中に押し込まれるようだ。
 世界を丸ごと注入されるようだ。
 ホーサグは逆らわない。抗わない。どれほど長く感じようとも、実際にはそれほど長時間というわけではない。だからかわす、いなす。物理的にどうする、という方針はない。ただ心持ちとしてそうする。そうあろうとする。
 そこに大切ななにかがあると感じている。だが、そう思えば引き込まれそうになる。今、身を守るために留まらなければならない。
 それでも、持って行かれる。意識が連れ去られそうになって、引きずり込まれ、溶け合わぬはずの感覚が溶けてしまえば、意味を失う。ただ薄明と溶暗。
 どれほどの時間そうしていたのかは分からない。測る方法がない。
 だがホーサグは取り戻すことが出来た。おのれのあるべき位置と時間を。
 周囲を見回す。床が斜めだ。飛行艇が落ちようとしていることを即座に察する。
 幸いにも垂直に落ちているわけではない。それでも妙に身体の重さが狂って、うまく動けない。
「リーラ!」
 不自然な姿勢になろうとただ叫んだ。他の誰も、この事態に対応できないと決めつけた。最適な対応を検討する余裕などない。直感によって、ホーサグがホーサグであるがゆえの勘に従って、リーラを呼んだ。
 同時に、リーラに近づこうとした。
 飛び上がってしまわぬように、かなう限り床に近い状態を保ち、這いつくばって進む。案の定、彼女も意識を失ってしまっている。
 ホーサグは抱きしめる。不自然なほど女を感じさせるその身体を、太い両の腕で支える。
「起きろ!」
 身体に力を入れれば、身体は平衡を失って浮かんだ。
 ふたりの身体はもつれ合って後方に飛ぶ。ホーサグは腕を回し、リーラの頭部を守る。
 天井に激突。まだ大した衝撃ではない。
「起きろ。リーラ」
 強く抱いた。

 臭いだ。
 懐かしさを伴う不快な臭いに包まれていた。
 そこが現実にしがみつく取っ手になった。無数に並立する心象の粒はうねり渦巻きまとわりついて、容易くは解放してくれなかった。ただ、そこにある、誰かに与えられたのではない、紛れもない自身の感覚。自らに根ざした記憶を伴う感覚が、現実への道標となる。
 目に涙を浮かべていた。熱い涙だった。
 リーラは胸に残っていた大気を吐き出す。そして新たに吸う。それが現実だ。
 名を呼ばれている。懐かしい人が呼んでいる。
 緊急事態。とは分かる、だが何が起こっているかは分からない。それでも、なにをすべきかは分かる。
 浮かぶ、いや、浮かばすのだ。そのためにこそ、自分はこの旅に参加したのだから。
 目を開けると、そこに顎があった。髭の生えた顎があった。懐かしい形の、けれど老いた顎だった。
「どいて」
 彼の喉に向けて言う。距離が離れる。愛おしき未練を断ち切る。気持ちを落ち着ける。傾き降下する飛行艇の状態を把握。機首を、少し上げた。まずは降下速度を落とすために。そうして進む。高度は、それで上がるはずだ。
 ホーサグは身体を離して、次にオクライに向かう。適切な判断だ。
 けれど彼に出す指示も思い浮かばない。考えている余裕もない。
 叫んだ。意味などない音を。ただ自分を奮い立たせるために。

 ィホーサグは最初に意識を取り戻した。
 青き竜はすぐ近くにいた。
 なぜだか戸惑っているように思えた。思いもよらぬ空間に招き入れられたこと。そう思う自分が自分ではないらしいこと。
 それは少し前にィホーサグ自身が感じた感触だった。
「おい」
 と呼んだ。反射的にそうしていた。恐怖は、もちろんあった。が同時に、話しかけたくてたまらなかった。

 ウィオーンヌ

 竜は鳴いた。高く透明な響きを広げた。声に意味などなく、それどころか感情さえないようだった。「おい」と呼んだことへの返事だったのかと、少し遅れて思った。
 ただそれだけで会話らしきが終わってしまう。いや、ィホーサグはさらに言い募る。
「なんのつもりだ。どうしたいんだ」
 だが青き竜は翼を広げる。人の言葉など聞きはしないのだと意思表示するように。
 あたりに、人は倒れている。この世界でも、ルシフスの挨拶の威力は大きい。いや、この世界であるからなおさら、強く受けてしまうのか。
 竜が飛び立とうとする時、ところが予想もつかぬところから声が上がった。
「待って」
 幼き少女の声。ィメイリだった。

 ィメイリは竜を見上げる。
 青き竜による覚醒をもたらす波動による影響から、もう抜け出していた。なぜなら、すでに熱き星の魔法は覚醒済みだったからだ。
 恐怖も感じない。親しみも感じない。ただわき上がる感情は温かく、大きい。
 少女はまだ幼く言葉もその意味も知らない。が、もしも知っていたなら、その気持ちを運命と呼んだかもしれなかった。
 竜と少女。互いに、その素性を知る機会を持っていなかった。だが、錯綜したその運命が強く結びついていたことは間違いなかった。
 光の子と呼ばれる、それは太く巨大な運命である。世界を破滅から救うために、数万の命を礎にして描き出された魔法。その魔法を作り出すために生み出された四人の子どもたち。それが光の子であった。
 けれどメイリは光の子そのものではなく複製であり、ましてィメイリはさらにその複製といえた。光の子を覚醒させるルシフスも、しかし重なり合う一方だけにいた存在であり、さらにこの世界に招かれた時点で、ある種の複製であると言えた。
 それでも、そんな偽物めいた関わりであっても、互いに引き合うことが不思議ではない。
 そしてもうひとり、起きあがる者がある。ィロウチだ。光の子トーフェの息子だ。彼もまた、大いなる運命の、傍流と言えるような存在だった。
 だがその人生は、たしかに光の子にまつわる運命の中にあり、黒い風の魔法も覚醒済みだったのだ。
「どうして」
 ィロウチは問うた。
 問いはあやふやで、あるいは自問するものであったのかもしれなかった。けれど、ィロウチは問わずにおれなかったのだ。そこに、問うに足る相手がいたから。答えを持つかもしれぬ相手がいたから。
 無論、ィルシフスに問いの真意が伝わるはずもない。それでも、ひとたび広げかけた翼を畳む。まるで問われたことそのものを面白がっているように。
 ィロウチの背中を、近づいてきたィホーサグが手のひらで叩いた。
「ありがとうな」
 ィホーサグはそう言う。ィロウチはその顔を見る。父親ほどの年齢だろうか。日に焼けたその表情は、不思議に満足そうな微笑みを浮かべていた。
 そうして次の瞬間、ィホーサグは走り出した。
 あろうことか、青き竜に殴りかかるように。

 落ちている。
 飛行艇の降下は止まっていない。リーラが思ったより、これを浮かすのは難しいのかもしれない。地上に落ちるまで、あまり時間がない。
「起きろ」
 ホーサグがオクライを揺すっている。けれど、まだ起きそうにない。
 ならば、自分がやるしかない。焦る気持ちを抑えて、リーラは状況を確認する。飛行艇の形を、降下速度を。さらに自分の感覚を広げて落ち行く大地の情景を知る。
 飛行艇全体の重さを、意識の中で分割する。
 この大きさに対して、魔法で重量を消しているぶん軽くて、空気の抵抗を受けている。だが、それでは飛行艇の形状によって姿勢が不安定になる。今、リーラは自らの魔法によって揺れや回転を制御しているのだが、そのぶん飛行艇全体の制御が難しくなっている。
 そうではなく、飛行艇を部分的に重くしたり軽くしたりすることで、姿勢を安定させようと考えたのだ。
 単純に言えば床面方向に重くし、機首近くを軽くする。こうして回転を抑え、進行方向に飛行艇の姿勢を向けやすくする。こうして魔法の制御に余裕が出来たぶん、推進力に振り分けることができるのだ。
 ただし、このようなことを細かく考えているわけではない。魔法による飛行は、人が二本足で立ち、歩き、走るようなものだ。こうした動作は基本的に重力の中で行われるから、重力に対する感覚と、過去の動作の経験によって無意識に実行される。
 もちろん自分の身体だけで飛行するのと飛行艇を飛ばすのとでは異なる対応を必要とする。しかし、重力に逆らうことは同じだ。感覚の意味するところも似ている。かつては翼のある身体を持ち、風を抱く感覚の経験も少なからずある。
 今は、墜落を避けること。かなうならば、ゆっくりとではあっても浮かびながら進むこと。
 できる、と思う。
 ホーサグが目に入った。オクライの頬を軽く叩いていた。
 ふふ、と思わず笑いが浮かぶ。その途端、飛行艇の挙動が安定した。

 勝算はあった。
 生身の身体であれば、素手で竜に殴りかかる、などということが成立するはずがない。いかに相手が小型の竜だとしても、そもそもの身体の頑健さが違いすぎる。
 だが、ここは基準が違う。肉体というものが存在しているかどうかさえ定かではない。
 いや、ここではもしかしたら、死ぬということさえないのかもしれない。
 ィホーサグは、肉体の感覚に敏感だ。そこを、人生の拠り所にしてきたのだ。だからこそ分かる。この仮初めの肉体の危うさと、ある平等さを。
 ィルシフスは、自分に襲いかかってくる人間に気づき、翼を使って軽く払いのけようとした。
 それを、両手で捕らえる。引き込みながら足を回してゆく。払われようとした状態から、肩に乗る。そこから、顎をなぐった。
 痛い、と思う。拳に痛さを感じる。けれどその痛みは、どこか他人事のようで、誰かに言葉で説明されているような痛みなのだ。
 もちろん、竜にしてもほとんど痛みなどないだろう。けれど、気づくことは出来るはずだ。おのれの置かれた環境の特殊さくらいは。
 竜はその身体を無造作に振る。とっさになにか掴もうとしたが、うまくゆかずにィホーサグは振り落とされる。
 落ちれば痛い、と分かる。が、それだけだ。ろくに音もしなかった。
 急いで起きあがる。
「どうだ」
 と言い放つ。すると竜は、さらに大きく身体を揺すった。まるで埃でも払うように。
 一瞬、見つめ合った。互いに恋しているかのごとく。
 ィホーサグは、竜が笑ったと感じた。
 だが、すぐに青き竜は浮かび、しなやかに身体を回転させると翼を広げる。

 ィオクライが意識を取り戻した。
 次いですぐにィセグロも我に返った。
 ふたりがようやく取り戻した視界に、青き竜の後ろ姿が浮かぶ。
 ふたりともに、見えている情景の意味を、すぐには把握できなかった。
 だが竜が遠ざかるにつれて、それぞれに思うのだ。
 ィセグロは、この世界に青い竜が含まれたということを。ィオクライは、この世界の広さを。
 ィルシフスは白い世界を飛翔する。この閉じた世界の果てを目指すように。
「またねぇ」
 ィメイリがこともなげに言い放って見送る。
 他の者たちは呆気にとられ、互いに見交わし、静かに苦笑した。

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