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魔法物語 メイリ3(セグロ)

 風に夜のにおいが溶け込む頃、男は店を開ける準備を始めた。
『青い猫亭』
 このソドウという土地に来て、改めて店を開いた。以前は海辺にあったのだが、海に沈んでしまったのだ。
 新しい店も以前と同じように、酒と簡単な料理、気安く過ごす時間を売りにしている。
 独り身が長い。実の娘のように育てた訳ありの少女がいたが、成長し今では嫁いで、夜の短い時間だけ手伝いに来てくれる。そうと承知の客は、その頃合いを狙ってやってくる。
 いつもの、あまり変わらぬ時間を、男は求めてきた。ついつい余計なことばかり気を回し、気苦労の多い人生だったが、このところようやく落ち着いてきた。長く大きな気苦労が、周囲を巻き込んで実を結んだのだ。
 料理の仕込みは済んでいる。食器なども準備万端、きれいに磨かれている。
 もうじき娘が顔を出すか、待ちきれない客が覗き込んで、そうしたらできるだけ慌てずに、年相応に無理のきかなくなった身体を「よいこらしょ」と動かして店を開けるのだ。
 ふう、と息を落とす。
 新しい空気を吸い込もうという時、入り口の扉が音をたてる。軽やかに響くいつもの音なら、あいつだろうと見当もつく。が、少し様子が違う。奴なら勝手に開けて入ってくるだろうに。
 重い腰を上げて、立ち上がった時、ふと寒気がした。こういう時には、臆してはならない。それが男の信条だった。逃げ腰で事に当たれば、かえって余分な手間を背負い込むことになるものだ。
 急いで扉を開けてやる。
「ああ」
 やはりそうだった。ろくでもないことが始まろうとしているのだ。
 傾いた陽光の赤い色を受けて、立っている。大きな翼を持つ、異形。
「わしの名を覚えているかセグロ」
「もちろんだ、オクライさん」
 好きこのんでこんな姿でいる魔導師。
「少し、顔を貸してくれ」
 少しだけ貸すわけにはいきませんよと、千切れちまうからねと、言わずに頷く。
「しかし、待ってもらえますか。もうじき店番が来ると思うんで」
 と言っているそばからサマエが近づいて来るところが見えた。少し肩を落とした。たぶん彼女は、店に来たのが何者か気づいているだろう。ならば、出来れば近づきたくないはずだ。そもそもは、この魔導師から逃げ出してきたほどなのだから。
「大丈夫だ。たいして時間を取らせない」
 どのみち待ってはもらえないようだった。
「すぐに出るぞ」
 そうして、脚と背中を支えられてしまう。
 かつてオクライに支えられて飛んだことがある。
 ずいぶん昔のことだ。
 その時には、寒く、呼吸が苦しくなるほどの高さまで上がった。
 今回も軽々と運ばれた。
 ソドウの街を見下ろす巨樹の、梢に近いほどの高さにある木のウロが目的地。あの時に比べればずいぶん低いが、自力で登るのは無理だろう。
 街の景観を見下ろすゆとりはなかった。
 そこに少女がいた。よく知った、けれどそれよりは幼い印象だった。テネアという名を思い浮かべ、では彼女の妹だろうかと思う。
「連れてきたぞ」
 とオクライが言った。
「はい」
 と少女が微笑む。すると、
「よし」
 オクライは言って、セグロの肩を叩く。十分に加減してくれて、痛くはなかったが、不思議な体臭を改めて感じていた。
「どういうことです?」
「用事が終わったということだ。すぐにも帰してやろう」
 馬鹿にされているようだったが、そこはあえて追求しない。そういうものだと受け入れる。
 店まで連れ帰ってもらわなければならない。それが最優先事項だ。自力で降りるのはご勘弁。
 戻ったら店を開ける。サマエはもう準備しているだろう。あれこれ詮索されるかもしれないが、説明できそうなことはなにもない。
「ありがとうございます。店までお願いします」
 なにか嫌な予感はするが、そこは無視するべきだ、と長年の経験による勘が教えていた。
 勘は正しかった。ただし、このセグロに限っては。

 肩を叩かれたような気がしたが、その感触がなかった。そのかわりに、世界が真っ白になった。
「来たな」
 声がして振り返れば、そこにオクライがいる。「来たな」はなかろう。おまえが連れて来たんじゃないか、と思う。だが、
「言いたいことは分かる。だが、まず教えておくべきことがある。おまえは、おまえではない」
 またしても奇妙なことを言う。わたしがわたしでない、というのは、わたしじゃないのがわたしだということかよ、と。ならば空が空でなく、風が風でなく、世界が世界でない、とでも言うのかよ、と思って、小さな気づきが生じる。
 もしやここは、世界ではないのか、と。言われてみれば、まともな場所とは思えない。
「ならば、わたしは誰だ?」
 と尋ねてみる。すると、
「いうなれば、もうひとりのおまえだ。ついさっきまでのおまえは、別にいる」
「つまり、偽物ってことか」
 そんなことを言われても、実感はない。が、そうか、と思う。つまり、この世界がそもそも偽物で、そこにいるやつも全部偽物なのだ。目の前のオクライもまた、偽物のオクライということになる。
「まあ、そういうことでかまわん。
「分かった。とりあえず棚上げということだな」
 正直なところ分かったつもりはない。棚上げをするための前振りだ。そんなところにこだわっていては、話ができないと察したのである。ただ、忘れてしまうつもりは毛頭なかった。
「ああ。そうしてもらおう」
 心なしか偽オクライが笑っているようだ。
「では、このセグロの偽物をだれかが作ったということになる。その理由を聞かせてもらおう」
「おお」
 返事になっていない。セグロは「ふん」と鼻で息を落とし、見回してみれば、黙っている二人に意識が向く。子ども、子どもに毛が生えた程度の若者。
 子ども、少女の方に見覚えがあった。テネアだ。いや、違う。さっきも同じことを思ったような気がするが、セグロが出会った時、テネアはもう少し大きかった。ということは、この娘はテネアが小さかった頃の偽物ということになるのだろうか。
「あえて言えば、他に思いつかなかったからだ」
 余計なことを考えているところに返事が来た。なぜ自分が連れてこられたかの理由。思いつかなかったから。
 微妙にいやな感じがする。けれど同時に、嬉しく感じかけている。厄介事に巻き込まれる兆し。同時に、頼りにされている感触。
 関わってしまったたいていの厄介事は、セグロが自ら引き受けてきた。他の誰もが厄介事と気づかぬうちに、先回りするように対処してきた。そのほうが簡単に済むからで、けれどそのぶん、感謝もされなかった。ほとんどの場合、セグロに助けてもらっているということさえ気づかれなかった。
「まあいい。わたしを思い出してくれた理由があるのだろうからな」
 白い世界に、声は空しく吸い込まれてゆく。
「そういうことだ。真っ先におまえを思いだした」
 低く、オクライはうなる。それからこう付け加えた。
「どうしておまえなのかは分からん。それというのも、これから我々がなにをすることになるのか、なにが起ころうとしているのか、それさえ分からんからだ」
 偽オクライは静かに、さらには、人を馬鹿にしたようなことを言う。
 セグロは不思議だった。オクライの話は、なぜ自分を選んだのかという問いの答えになっていない。にも拘わらず、自分が評価されている気持ちになる。それどころか、少しワクワクしている。
「分からなくても、なにか起こるのだな?」
「いや、それさえ絶対ではない。だが、もし何か起こるとしたら、それはたとえば、世界全体の運命に関わるようなことかもしれん」
「そうなの?」
 ふいに少女が声を上げる。オクライは少しそちらを見てから、改めてセグロに向き合う。
「そうと分かって、おまえを思いだしたのだ」
 かつて、セグロは街の崩壊に立ち会った。オクライと出会ったのも、その時のことだった。それは、セグロの生涯においても、とびきりの厄介事だった。
 ただし自負もあった。あの危機において、自分がどれだけ働いたのか。他の誰もが知らなくても自分だけは知っている。
「そうか、面白いな」
 ふいに、無責任という言葉が浮かぶ。
 この場にいるのはすべて偽物で、この世界自体が偽物なのだ。ならば、無責任でいい。たとえこの自分が消えてしまおうとも、本物のセグロには関係あるまい。
 ならば、あらゆるしがらみを無視して、可能な限りなんでもやってしまえるということだ。もっとも良いと思える手段を選べるということだ。この偽物だけの世界で、本物たちを救うことだってできるかもしれない。
「面白いのか?」
 オクライが呆れたように言う。
「十分にな。ある意味、なんでもできるということだ」
 自らを確かめるように。
「そうか。ならばどうする」
「そうさな、まずは、人材を集めよう。この世界にいる、我々にとって有能と思える人物を、本物をそのままにして一方的に集結させられるはずだ。無能な人間に関わられると、話はややっこしくなるばかりだが、それがないなら、きっといくらでも優秀な部隊を結成できる」
 話すうちに考えがまとまってくる。
「ではどう集める」
「最初に、状況を知る方法を手に入れることだ。なにが起こっているのか分からずに対応することはできない。それに応じて人も決まる」
「なるほど、もっともだ」
 オクライの反応を見ながらセグロは、これは自ら厄介事に突っ込んでゆくやり口だと思う。これまでなら警戒してきた展開だ。ただし今は事情が違う。
 複雑な気分だった。もしかしたらこれこそが、自分の求めていた舞台なのではあるまいかと。
 いや、そうではない。危機に際して戦う、などという状況を求めていたはずはない。
「どうした。笑っているのか」
「いや」
 真っ直ぐに、だ。それこそを求めていた。真っ直ぐに、求められることを、だ。そうして、それに応えられる、と思うこと。その自負を。
 セグロは言う。
「さらに、準備が必要だ。われわれが得られる人材について、できるだけ調べておくんだ」
 オクライが頷く。
 ただし、ことはそう簡単ではない。準備できる時間がどれだけあるか。それが問題だった。
 そうだ。
 時期に応じた食材を入手し、適切に下拵えし、調理の手順と盛りつけを確認する。それと酒だ。
 すべてを、客が来る前に。

 夜が大樹を包み、その姿を朧にする。
 ソドウの街に夜の賑わいは乏しい。
 それでも、淡い闇を振り払う店がある。
「いらっしゃい」
 扉が開くと明かりと声がもれた。『青い猫亭』のサマエの声だ。今夜も準備万端、客を迎える。
 店の奥では店主のセグロが軽く頭を下げる。

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