魔法物語 竜の大地1 No.23
朝を待って飛行艇は、竜の大地に行くらしい。
ィロウチはまだ、自分が小さな目によって竜の大地に行ったことがあることを、ィオクライたちに話していなかった。
ニウルカの山のたもとにある巨大な竜が棲むという場所は、しかしロウチが行った時にはもう、もぬけの殻だった。十年も前に、竜はいなくなってしまったのだ。
さらに、ニウルカの山にはラシリウスという魔導師がいた。何かを知っているようでもあった。
だが、この世界ではどうだろう。小さな目は、この世界に来るために、果てを越えたはずだ。世界の境界を抜けて、異なる世界に到達したはずだった。だからもしかしたら、この世界の竜の大地は、ロウチが見た場所とは違うのかもしれない。黄金の竜は、まだ消えていないのかもしれない。
そうして、もしかしたらここにも、ラシリウスがいるのかもしれない。ひょっとしたら、もうひとりの自分、ロウチだっているのかもしれない。
なにが本当なのだろう、とィロウチは思う。いや、本当とはどういうことだろう、と思う。ここにこうしている自分こそは本当であると思いたい。けれど、ィロウチは既にロウチの偽物なのかもしれないのだ。
ふと思い立って、ィロウチは目を閉じる。
小さな目が見た情景は、今では魔法で、皆が見られるように投影されている。けれど今だって、目を閉じればその情景はィロウチにとって唯一の視界となる。音こそ聞こえないが、肌の感覚もないが、見るだけなら自由に空を飛ぶような感覚を得られる。
ィロウチの感覚が小さな目のもたらす風景に集中した。そこで薄く深呼吸する。
ここは、オクライたちが飛行艇に乗って進んでいられる世界とは異なるはずだった。青い竜に誘われてたどりついた場所。異なる世界の異なる場所。どうすることもできないはずの世界。
いや、本当にそうだろうか。異なる世界と単純に表現しているけれど、それはいったいなにが異なるのだろう。たとえば、地形はどうだ。ふたつの異なる世界で、地形もまた異なるだろうか。
いや、同じなのではないか。すべてが同じということはないかもしれないが、おおよそのところは同じと考えられるのではないだろうか。
ィロウチの眼前には、山があり森があり湖、川がある景観が広がっている。ィロウチの見知った風景でこそないが、これとほとんど同じ景色が、ロウチが生まれ育った世界にもあるのではないか。
証拠は、もちろんない。けれど、景色に感じる気持ちには、親しみが込められている。自分が住むべき世界だと感じてしまう。
たとえばオクライやメイリのいたテネアという島は、ロウチが生きた世界にも存在しているような気がする。反対に、ロウチが暮らした土地も、テネアからつながった土地として存在するような気がするのだ。
だったら……と思う。
このまま世界の境界など越えず、竜の大地まで行けるのではないか、と。
そうしてィロウチは、小さな目を高く昇らすことにする。自分がどこにいるか分からなくても、そうすればきっと、どこへでも行けるはずだ、と。
ィロブロウは気づいていた。
この落ち着かない白い世界に、不思議な映像が投影されている。
それがなんなのか、どういう意味があるものなのか、誰も教えてくれなかったが、ただの美しい風景ではないことくらいただちに察していた。
ところが、その景色が動き出している。ゆっくりと、あたりを見下ろすような角度に変わり、しかも視点の位置が上昇しはじめている。
やがて海があることに気づく。十分に高い位置から見下ろす景色に、海が含まれないはずがない。ならば、海でない状況は陸であるに違いない。
「ここは、どこだ」
思わず立ち上がり、風景が投影されているところに近づけば、ふと、船に乗っていた時の記憶が交錯する。
そこに、ロブロウが生きた世界が映し出されていた。
海と陸とが空に縁取られた、生きて進み届く限りの、ただ世界が。
くせで髭をしごこうとする。けれど今、そこにあるはずの髭はどこかしら頼りないのだ。
ロブロウは再び世界を睨む。
リーラは静かにしていた。
夜が明けたら竜の大地に向かって出発する。それは決定事項で、リーラとしても否やはなかった。ただ、その計画はあまりに漠然としているように思う。
少し前に浅い眠りから醒めて、それぞれに就眠状態にある仲間たちの様子を確認する。
やはりホーサグの様子が気になる。
リーラはオクライの魔法によって作り出された少女、ネイの複製だ。ネイはホーサグの親に預けて育てられ、いわばホーサグの妹のような存在ということになる。リーラは、そのネイの記憶を引き継ぐ形で複製された。そのため、生み出されて数十年が過ぎ、魔導師に変わった今の状態になっても、どこかホーサグのことが気がかりなのだ。
兄としての思慕、だが同時に、自分は彼の妹ではないという自覚。さらには、リーラは魔導師であり、それは生殖器を持たないことを意味する。つまり、正常な恋愛感情が働かないのが当然なのだ。
心の在りようは、それぞれ単純ではないが、それにしてもリーラの状況は特殊に過ぎた。
もちろん、兄たるホーサグに伝わるような伝えてしかるべき感情ではない。それは誰よりもリーラ自身が承知している。
だからただ、この薄明の中で、同じひとつの空間にホーサグがいるという状況を静かに、ただ呼吸する。
なにも望みはしない。ただあるこの今を、細やかに、大胆に、受け取るだけだ。
その状況を、好ましいと感じている。いっそ幸せと呼べるくらいに。
気づけばあたりの明るさが増している。外光が優しく入り込んだようだ。
ホーサグが目覚めた。
そろそろ朝食を準備しようか。
飛行艇は滑らかに離陸した。
あたりの草を揺らすことさえほとんどなかった。ただ潰れていた草がそれぞれに立ち上がって、飛行艇の輪郭を少し小さくした。
朝の冷気をかすかに渦巻かす。そこから前進。徐々に速度を上げる。空気を切り裂く抵抗が音となる。
「港に向かえ。そこが出発点だ」
ロブロウが静かに言った。船長気取りの命令口調を、誰もとがめはしない。だが、返事もしない。
ななめ後方にあった港町。姿勢を整え、桟橋を見下ろす港まで進めば、
「北だ」
応答などなくてもかまわずロブロウが指示する。
前夜のうちにおおよその航路は説明されていた。言葉のやりとりは確認に過ぎない。
海面が太陽の姿を切れ切れに反射させる。
リーラが飛行艇を浮かせ、姿勢を制御する。オクライが推進力を生み出して進める。いつしかそういう分担が出来上がって、安定している。
方向舵のたぐいは無意味だ。ふたりの魔導師が、行く先を定める。自らが飛行する時の感覚が連動して、それがもっともうまく飛ばす方法となる。
メイリは行く先には興味なさそうで、席の後ろの方でホーサグと身体を動かしている。自分を動かす、ということ自体が楽しいらしい。長く時を止めて眠り続けてきた反動なのか、それともその年頃の身体が、動くこと自体を欲しているのか。
ホーサグは、剣のない体術を得意にしているわけではないが、体さばきなど、おのれを守る技術はおおむね修得している。伝えることもあり、また、知らぬ間にメイリが身につけた技術を、確認してやることもできる。
もっとも、それらは遊びでもあった。少女は、時折楽しそうに声をあげる。
航路は説明されていたが海の上では自分の位置を知るのが難しい。なんの指標もなければ真っ直ぐに進んでいるかどうかを確認することも出来ない。人が徒歩で砂漠を歩くような時に、左右の足の感覚の微妙な誤差のせいで、知らず知らず大きな円弧を描くように進んでしまうという。それに近いことが起こり得る。
経験の深い魔導師は、自ら飛ぶことで経験を増やし、徐々に感覚を鍛えてゆく。視覚を越えて感覚を拡張し、普通の人が道を覚えるように、海を、もちろん陸を覚える。ただし、人に方向音痴があるように、魔導師にも魔導師なりの方向音痴がありうる。
リーラは海上を進む経験はあまりなかった。オクライに任せるしかない。
特に変化のない時が過ぎる。かなりの速度で進んでいるはずだから相当の距離を進んだはずだ。だが、とりたてて変わったこともない。
穏やかな緊張状態。
ゆるゆると時が過ぎる。
メイリは昼寝もした。
進み行き、いくつかの島影を確認して、ロブロウが「よし」と言えば、航路をはずれていない証拠。このまま飛行が続くことを意味する。
飛行艇はこの高速にも耐えていた。大気のない遙かな高空でも問題ない特殊な木で作られている。
ィロウチの小さな目は、再び降下して海を目指す。
その動きにィロブロウがうなる。
「簡単だな、この野郎」
その声に、ィセグロが反応して笑う。
「まったくだ。きわまりない」
小さな目の動きは物としての制約など無視している。そのことに、ふたりが気づいている。
「すごいねえ」
ィメイリがィスティナと手をつないで、投影された映像にため息をもらす。こんな光景、初めて見るに違いないふたり。
空と海を等しく迎える。点在する陸地が、それぞれを強調する。どこにいるとかではなく、この光景すべての中にいると理解する。
ただ徐々に大きくなる。近づいている。不穏を厚塗りした領域が。
「あれが竜の大地だ」
ィオクライが言う。なにかを含むように。
そこに、巨大な竜の姿を認めた。
二頭。
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