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魔法物語 メイリ6

 朝が薄れてゆく。
 太陽が高くなるにつれ風が止まった。
 飛行艇は、動きだそうとして軋んだ。魔法により重さは消されているが、それだけでは浮かばない。内部には四人いる。その重さは消されていない。
 それでも、飛行艇は動き出す。身じろぎするように震えて、地面をこすり、小さく弾み、どこかが地面に接している状況から、何度となく繰り返すうちに、ついに機体のすべてが空中へと離れる。
 浮かんでしまえばすぐにでも、とはゆかずまた接地してしまい、けれど弾み、離れて、ふいっと昇った。
 不格好な離陸だった。中にいたら目を回してしまうだろう、とセグロは思った。そのことは、けれどかすかな未練を消してくれはしなかった。まだ、行きたい気持ちが残っていた。
 それでも、自分という肉体が行くべきではない。この結論は揺るぎなく、行けば確実に足手まといになる。しかも、肉体を持たぬ状態の自分が参加していると聞いた。ならばそれで十分ではないか。
 飛行艇は空中で静止した。ようやく姿勢を制御できるようになったらしい。
「行け」
 未練を断ち切るようにセグロは言った。
 ゆっくりと、それは動き出していた。まずは向きを整え、機首を安定させ、少し上昇する角度で前進してゆく。おそらく中にいる者たちは、最初の揺れで弱っている。それでも徐々に落ち着いているのだろう。
 未練を抱いて見る身には、あまりにもたついている。素早く飛び去って欲しいのに、なかなか速度が上がらないのだ。
 空。機体に生じる陰。陽光の反射。切り取られた雲のように美しい。やはり風はない。
 吐息をひとつ。その間に飛行艇の速度が上がっている。加速は弱いが安定している。
 それは確かに遠ざかる。
 もうセグロは黙ったままで見送る。

 ホーサグはしばらく気づいていなかった。
 自分もまた突然の参加であったし、状況が呑み込めていなかった。まさか自分の後でここに加わった女魔導師が、古い知り合いであったとは。
 いや、名乗られた時に違和感はあった。
 リーラ、と聞こえた。だが、その名は、異形のものだった。オクライのような翼を持つ異形だ。かつて戦いを挑んだこともある。
 けれどそこに立つ魔導師は、普通の女性のように見えた。年の頃は三十代というところか。際だって美しいというほどではないが、整った顔立ちの、やや大柄な女性だった。
 もっとも、魔法は形を変える。その姿が真正のものである保証はない。ホーサグ自身、魔法によって大きく姿を変えていた時期があった。そうだ、その魔法を使ったのがリーラであったはずだ。
「おひさしぶり」
 と、はにかむように微笑んだリーラにホーサグはときめき、混乱し、即座に否定する。やはりそうだったかと思うけれど納得はしきれない。本当にあのリーラなのか。
 彼女こそを、妹のネイであると感じたこともあった。だが、だからこそおのれの情動を受け入れ難い。
「リーラには、この船を動かす力を貸してもらう」
 オクライが口をはさむ。なるほど、空を飛ぶこの船は魔法で浮かぶ。なんらかの問題が生じた時に、魔導師がひとりだけでは心許ない、ということだ。
 だが、その考え方で言うなら、自分は完全に役立たずだ、自分を誘ったセグロも乗らなかったこの船に、魔導師がふたり、旅の鍵となるらしき少女がひとり、あとはホーサグひとりだけなのだ。
 単純に居心地は悪かった。

「空が重く感じる」
 オクライはあえて言葉にした。メイリに、さらにはその内側にいる者たちに伝えるためだ。
 空が重い、と感じる。けれどオクライはその感覚に違和感を抱いてもいた。
 皆が座って、進行方向を見ている。そちら側には、視界を確保するため窓のようなものを設けた。壁を透明にしたわけではないが、外の景色を投影している。ィロウチの小さな目の見る情景を投影する魔法と、ほぼ同じやり方だった。思わぬ形の再利用だ。
 オクライは今、この飛行艇の船長という立場にある。
 ただし全権を掌握しているわけではない。この船は、メイリと、その内側の世界を運ぶためのものだ。基本的な指揮権は内側にいる者たちが持つ。
 もちろん、それだけではうまくゆかない。外の世界の状況にただちに対応しなければならないことも多いはずだ。その指揮権を今はオクライが持つ。
 いや、指揮すべき相手も、ほぼオクライ自身なのだ。
 空を重いと感じる理由について、おそらくメイリの内側でもなんらかの検討が始まっている。メイリが見ている情景も、内側に伝わっているはずだ。
 だが今は、なんらかの危機が近づいている、というほどの予兆ではない。このまま進むべきだろう。
 オクライは、ひとつの仮説を思い浮かべていた。それは、こうして飛ぶことに関わる感覚、それ自体についてへの疑問だ。感覚というものは、ほとんどの場合、受け取った刺激をどう解釈するのかという形で発生している。つまり、過去の経験と照らし合わせるようにして生み出されるのだ。だが、オクライには飛行艇で飛ぶという経験はなかった。だから、自力で飛翔した経験と照合するようにして今の感覚が発生しているはずなのだ。
 そのことがこの重さという感じの原因であるのかもしれない。そう考えれば納得もできる。だが、確認する方法がない。
 メイリを見た。サマエが用意した服は、可愛らしい印象だが、オクライには漠然としか分からない。
 ただオクライの視線を感じたのかニコリと笑って、
「ちょっと待ってね」
 と言うのだ。

 ィオクライは空の重さを感じ取れない。危機であるかどうかの判断もできない。
「どうする」
 ひとまずはィセグロに頼ってみる。そのィセグロは、この時もう、対応に動いていた。ィロウチに指示を出しているところだったのだ。
「ぼくも外を見ます」
 ィロウチが宣言する。ィセグロの指示だ。
 そうして間もなく風景がふたつ並んだ。どちらも空には違いない。同じように見える。
 だが、ィロウチが小さい目を飛行艇より先行させた。わずかに先を、同じような速度で進む。すると、映し出される情景が変わる。色が濃く、まるで夜が近づいているかのようになった。
「なにが違うんだ」
 ィセグロが呻いた。
「連続性だ」
 ィオクライが呟く。オクライは空間について調べてきた魔導師だった。だが、その言葉の真意を受け取れる者はここにはいない。いや、
「そうか、連続性か」
 声が聞こえた。外にいるオクライの言葉が伝わったのである。ふたりのオクライが共鳴したのだ。
 だが他の者には、やはり意味不明だ。だがやがて、ィリーラが言った。
「つまり、空をふたつ、同時に飛んでるってこと?」
「まあそうだ。連続しないふたつの空を、われわれは切り裂いて飛んでいる」
 それは、存在という考え方に関わる問題だった。位置と時間の確定によって“存在”する。だが、もしも位置を確定できなければ、存在自体があやふやになってしまう。
「あの・・」
 ィロウチが思いがけず言葉を発する。彼は、複数の世界という概念を自ら体験してきたのだ。
「なんだ」
 と大人たちが反応する。
「ぼくらは、なにを感じているんでしょう」
 一瞬、沈黙に包まれた。それは、根源的な問いだった。問うても答えられない問いだった。在るとはどういうことか。感じるのは在るからか。感じないなら、無いのか。
 そもそもメイリの作り出したこの世界は、在ると言えるのか。その中で発生している感覚は、在ることを保証できるのか。
「それはな、少年」
 だがィセグロが答える。
「とりあえず、なんだ。感じるかどうかは、いつだって不十分なんだ。だが、感じられないことを前提にすることはできない。より多くを感じ、より具体的に感じ、より鮮明に感じるようにする。それでも常に、どこまでいっても、感じることはすべてではない。それで全部だと決めつけるのはたやすい。これが絶対的真実であると思いこむ。人はそうしたがる生き物だ。だが、我々は、それをとりあえずであると考えておくことができる。たかだかこの瞬間の真実に過ぎないのだ、と」
 ィセグロはふいに言葉を途切れさせ、苦笑した。思いがけず語ってしまったことを、説教じみてしまったことを自嘲するように。
 その時、そんな理屈などまるで興味のないィメイリが叫ぶ。
「竜よ!」
 ィメイリは、ィロウチの小さな目の映像を指さしている。少し濃い、暗い空の中に、動くもの。翼を広げて飛翔するものの姿。だが、外の世界を投影した空に、そんなものの姿はない。
 折り重なった世界の一方にだけ、竜はいる。暗い空の色の中に、そこだけ夏空の青で描く輪郭。
 誰もがその姿に心を奪われる。
「ルシフスだ」
 そう言ったのはィホーサグだった。
 その名を、次の瞬間には皆が共有する。あの青き竜の名はルシフスだ、と。
 ルシフスは近づいてくる。
「見つかった」
 ィリーラが呟く。全員に緊張がはしる。恐怖、に似ている。同時に興奮している。

 外のオクライには見えていない。
 もうかなりの高度を進んでいる。見えるものはただ、空ばかりだ。昼間の、濃い空をひたすら飛んで行く。なにもいない。風と雲だけ。
 だが、メイリの内側の状況についてはおおよそ理解していた。おおまかにだが、彼らの会話も聞こえていた。
 オクライは翼を広げる。その形で幼い少女に近づき、包むように屈む。
「メイリ、竜が見えるか」
 内側のィメイリに見えているなら、外のメイリにも見えていて不思議はない。
「う、ん。見えるよ」
 ィロウチの魔法によって見えている竜の姿を、自分にも見えるようにする魔法について頭の中に思い描く。だが、とっさのことでありすぐには結論が出ない。
「じゃあ、そいつを捕まえるんだ」
 思いがけない答えを、オクライは口にしてから驚く。人を集めるつもりの旅を始めたばかり。では、竜もそこに加えられるだろうか。
「捕まえる?」
 メイリはやんわり混乱する。だが、オクライは自分の言葉に、相応の自信を感じていた。
「仲間、ううん、友だちにするの」
 リーラが助けてくれた。
「竜が友だち?」
「そ」
「わかった」
 メイリがその気になった。
 だが次の瞬間、オクライはふいに大きくなった不安に襲われていた。

「来るぞ」
 ィオクライは叫んだ。だが、叫んだ時にはもう、ルシフス、もしくはィルシフスは来ていた。
 外の世界を投影する映像の中にもいる。同時に、ィオクライたちのいるこの内側の世界にも、その青き竜は姿を現していた。
 ィホーサグが構える。だが、武器はない。自分だけが、この後の展開を知っていると思う。戦えるはずはない。
 ィリーラが、とっさにィメイリをかばうように動く。
 ィセグロが、ほんの数歩だが下がる。
 ィルシフスは、すぐには状況を呑み込めていないのか、飛行状況からゆっくり降下し、その場に立った。
 ィロウチが、腰を落とす。
 次の瞬間、それは来た。「耐えろ」と叫ぶィホーサグの声に重ね合わせるように、青き竜より放たれる膨大な情報の奔流が。光の子を覚醒へと導く力が。

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