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『ぶたぶた』新刊応援企画『とらとら』

 光文社から今年(令和5年)の『ぶたぶた』が発売となる。
(『湯治場のぶたぶた』7月12日発売予定)
 だいたい年に一度くらいは新刊が出る、すごく面白いわりにはすごくは売れていないシリーズだ。
 基本的には主人公は作品ごとに違っていて、彼ないし彼女が、人として暮らしているぶたのぬいぐるみ(意味不明だと思うかもしれんが、それは読めば分かる)と出会うことで、ちょっとなにか変わったり変わらなかったりするシリーズ。ぶたぶたは山崎ぶたぶたというおじさんぬいぐるみであることは一貫しているけれど、職業などは様々で、別のぬいぐるみらしい。
 このシリーズの面白さはあれこれあるのだけれど、まだ生かされていないのが、このフォーマットを使って別の作家が書いてみたらどうだろう、という可能性。たとえばタイムマシンが登場したら他の作家が追随していったようなことが、このフォーマットでも可能なのではないか。そこには、大きな可能性がありそうなのだ。
 とはいえ、そのフォーマットを勝手に使うのはよろしくない。きわめて独自性が高いものだが、素人には分かりにくいだろう。パスティーシュとかなんとか、そういうことになるのは違うのではないか。
 そこで以前、作者の矢崎さんとは個人的に知り合いでもあるので、勝手に作品を書いて読んでもらったことがあるのだ。
 まあ、その時はそれっきりになったのだけれど。
 せっかくなので、ここでその作品を公開して、『湯治場のぶたぶた』応援ということにしてしまおう、と思いついた。
 これを読んで、ちょっとでも興味が出たら、本家『ぶたぶた』を読んでいただきたい。シリーズはいっぱいあるけれど、基本的に独立しているので、初めて読むなら入手しやすくて話題にしやすい新刊が良い。
 で、ツイッターで聞いたら「やってよし」ということになった。
 私としては古い原稿の供養ということにもなる。そこそこは面白いものが書けていると思う。
 ということで、この後に一挙に公開します。
(なお、タイトル画像はBingのimage creatorで作成しました)
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 レモン色のハードル


 絶対に秘密だ。
 夢にまで出てきて立ちふさがった、レモン色のハードルのことは、誰にも言えない。特にクラスメートには、決してばらすわけにはいかなかった。
 それは、たしか、沽券に関わる、ってやつだ。
 ベッドの中で大垣タイガは、そう思った。ぎゅっと拳を固くした。

「高校には行かない」
 一昨日、三者面談でタイガはそう宣言した。
 担任は、あきれた顔をした。五十手前の女教師で、磯野沙也加という名前だ。
「じゃ、どこへ行くんだ?」
 おもしろそうに父の啓太が尋ねてきた。
「メキシコ」
 即座にタイガが応じる。
「メキシコぉ?」
 担任の声がうわずる。が、啓太は深くうなずく。
「ルチャか」
 啓太はにやにやしながら言う。
「うん」
「なんですって?」
 少しヒステリックなところはあるが、担任のことを別に嫌いではない。けれど、だからといって、ここで気持ちを変えるわけにはゆかない。
「ルチャリブレってやつですよ。メキシコの、覆面をつけて戦うプロレスです」
 父親は、どうやら面白がっている。雑誌記者をしながら小説家を目指している人で、タイガから見て、おそらく社会からドロップアウトしかけている人だ。だから、タイガの進路についても文句を言わないだろうと思っていた。問題となるのは頭の固そうな担任で、ここをなんとかしなくてはいけないのだ。
 少し腰を浮かせていた担任が、思い直したように腰を下ろす。パイプ椅子がギシっと音をたてる。
「あなたの成績なら、たいていの高校に行けるわよ」
「でも、有名進学校に行ったら、後ろの方です」
 即座に返した。自分のことは分かっている。必死に勉強したってトップクラスには入れない。いや、勉強で必死になれる気がしない。
「おれに遠慮してるんじゃねえよな」
 啓太の収入はお世辞にも多いとは言えない。だが、家計を助けるとか、そういうふうに考えたことはなかった。
「だいじょうぶ」
 すると啓太は、ニヤリと笑った。
「分かった。おまえが深く考えてないってことがな」
「そうよ。プロレスなんて無理よ」
「いや、先生、そういうことじゃないんです」
 父の声は真剣だった。
「こいつのことだから、ある程度のことは考えてあると思います。けど、いかんせん中学生だ。自分の生活力ってのが分かってない」
「そんなの、なんとかなるさ」
「じゃあ聞くが、おまえ、メキシコ行ったらどうやって収入を得るんだよ。どこにどういうふうに住んで、なに食って、いくらあれば足りるんだよ」
「それは……」
「養成所みたいなところに入るとしたって、いきなり行った日本人を受け入れてくれるのか? だいたい、おまえにルチャの才能があるのか?」
「それは……」
「やってみなくちゃ分からないってか? そりゃそうだ。だが、ダメだった場合のリスクが大きすぎだ。しかもいきなり挫折しちまう条件が目白押しじゃねえか、バカ」
「そうよ。メキシコ語だって勉強しなくちゃ」
 担任はやめさせたがっていた。けれど、啓太がどう考えているか分からない。
「仕送りとか……」
 とりあえず言ってみる。
「才能があるかどうか分からん息子を、メキシコに仕送り付きで送り出す親なんていない」
 けんもほろろ、ってやつだ、たしか。
「そうよ。日本の高校で勉強して、それから行ったらいいじゃない」
 そうすれば問題児の取り扱いを高校教師に押しつけられるから安心だ。
「それじゃ遅い」
 父親と言葉がかぶった。
 磯野沙也加が目を丸くした。
 啓太が言う。
「こいつに才能があるってはっきりしてるんならいいです。けど、ガタイはあるけどそっちの才能は未知数です。ダメならダメで、早めにあきらめさせた方がいい」
 そうして、こう付け加える。
「俺に心当たりがあります。テストしてもらいましょう。合格するようなら日本で修行させて、それからメキシコでもなんでも行けばいい」
 父は悪そうな顔をして笑った。

 そうして昨日、タイガは受験に行ったのだった。
 電車を乗り継いで一時間、郊外の住宅地にそれは建っていた。『倭国プロレス事務所』と看板が掲げられた、バラックのジムだった。
 履歴書を入れた紺のバッグを肩にかけていた。中には、着替えのジャージも入っている。
 秋晴れの、少し暑い日だった。建物は簡単に見つかったけれど、タイガは躊躇していた。どこから入ればいいのか分からなかったからだ。
 練習しているらしい声と、音が聞こえていた。無造作に生えた草の上に、とんぼが飛んでいた。
 しばらくそんなのを眺めた後で、タイガは意を決してジムに近づいていった。左右開きのサッシの扉があいていた。そこには必ずだれかいるはずだった。
 近づくと、ぽっかり開いた出入り口からは、湿った熱気のようなものが出ている気がした。近づき難いと感じたけれど、ひとりでメキシコに行くほどじゃないだろうと思い直す。とぼとぼと、中の様子が見えるところまで進む。
 それでも最初はよく分からなかった。目が明るさに慣れていたせいだ。落ち着いてくると、そこにはリングがあって、若い選手がふたり、スパーリングをしていると分かる。ふたりは黙々と練習していて、どこからともなくコーチらしい声が届く。低くて、ざらざらして、男らしい印象の声だ。
「こらぁ、しっかり受け身取れぇ」
「もたもたすんな」
 けれど、目は慣れてきたのにコーチの姿が見つからないのだ。なんとなく、近くて低いところから聞こえていると思うのに……。
 ふと気づくとリングの二人の動きが止まって、タイガのことを見ていた。なにか言わなければ、と思いながら肩のバッグを下ろそうとしたら、視界の下の方でなにかが動いたのが分かる。次の瞬間、
「おらあ、なんだおまえはぁ」
 動いたのは、タイガの膝丈ほどもない小さな物体だった。バスケットボールくらいの、なんだか黄色い……。
「ぬいぐるみ?」
「ああ? それがどうした」
 あの声が、そこから聞こえてくる。ぬいぐるみが、しゃべってる。さらに、右腕をあげた。
 虎だった。虎のぬいぐるみだった。色は淡いレモン色。だからだろうか、阪神タイガースのマスコットとはちょっと印象が違う。縞のパンツと白いTシャツ。
「見学か? それとも道場破りか?」
 ぬいぐるみがしゃべってる。どうにもかわいらしい。ただ、よくよく見ると虎の目は、ただのビーズではなかった。虎目石ってやつだ、たぶん。
 そんなこと考えているから返事が遅くなる。虎のぬいぐるみはいらついたみたいに言葉を続ける。
「わかった。入門希望だな。なら、テストだ」
 話はどんどん進んでいった。
 そして……。
 気がついたら、タイガはジャージに着替えてリングの上にいた。
 目の前には、あの虎のぬいぐるみ。
「俺の名前は、中町とらとらだ。おまえは?」
「大垣タイガです」
 その瞬間、石でできてるはずのぬいぐるみの目が細くなった気がした。

 現実になにが起こったのか、はっきりとは覚えていないけれど、ついさっきまで見ていた夢は、きっと昨日のスパーリングの再現だったのだろう。
 最初、タイガは蹴りに行った。使えるプロレス技なんてなかったし、相手が圧倒的に小さいから、出来ることは限られてくる。
 それでも、悪い蹴りではなかった。タイガの右足は、とらとらの腹部をまともに捉えた。次の瞬間、ぬいぐるみはリングの外に蹴り出されている、はずだった。
 だが、現実にはタイガが、痛みに悲鳴をあげていた。
 とらとらはタイガの足に組み付いていた。そのまま、足首を全身でひねりあげる。
 アキレス腱固め、という技ではないと思う。けれど、たぶん原理的には同じだった。痛みに耐えかねてタイガは後方にひっくり返る。すると、たった今まで足首にいたはずのとらとらはタイガの後頭部にいて、クッションがわりになって受け止めた。
 けれどすぐに肩を押し上げられる。身体ごと持ち上げられる感じで背中に潜り込まれる。さらに水平に投げ捨てられる。
 高さはたいしたことない。だからそういうダメージはない。けれどタイガは悲鳴をあげた。背中が、すごく熱かったからだ。ジャージがマットとこすれて、熱くなったのだ。摩擦熱、ってやつだ、たしか。
 身をよじっていると、腹部を踏まれる。柔らかくて軽いからダメージはない。けれど思わずそっちを見ようと頭を上げてしまう。その、顎を蹴られた。それは柔らかかったけれど痛い。
 次の瞬間、生まれて始めての衝撃をくらった。
 蹴られた頭が反動で戻ってきたところを蹴られたのだ。しかも蹴られたのは、鼻だった。鼻を下から蹴り上げられたのだ。
 なにが起こったのか分からない。顎を蹴られた時より軽い蹴りだったはずだが、息が止まった。ふわっとした表面の感触と、固いものを突っ込まれたような感じが同時に起こった。
「ばあっ」
 口が開いて変な声が漏れた。
 胸の上でなにかが跳ねる。
 顔面に、たぶんドロップキック。けれど、それはあまり効かない。軽くて柔らかいからだ。ただしキックの反動でとらとらは後方に大きくジャンプ。宙返りしてタイガの足下に落ちた。
 拍手がわき起こる。宙返りはアピールだったのだ。
 タイガの頭に血がのぼった。バカにされている、と感じたからだった。
 いきなり飛び起きて、とらとらを捕まえに行く。ところがぬいぐるみのくせにフットワークも軽やかで、素早く逃げられてしまう。かまわず、メチャクチャに動いて、なんとか指先がさわった。と思ったらその指関節をキメられて激痛が走る。
 けれどチャンスだ。相手は軽い。指の痛みをがまんして、そのままとらとらを床に叩きつけた。そのまま、全身の体重をかけてゆく。
 人間だったら内臓破裂、というくらいまでつぶしたけれど、とらとらはかまわずタイガの指をひねる。ついに痛みに耐えかねてタイガは叫ぶ。
「ギブアップ」
 すると、とらとらは軽くジャンプしてタイガから離れた。少し型くずれしていたけれど、とんとんと跳躍しながらなおしてしまった。
 にやり、と笑ったような気がした。ぬいぐるみなのに分かった。
「三分十二秒です」
 と声が聞こえた。
 それしかもたなかったのだった。

 ベッドをぬけだし、台所に行くと昨夜はいなかった啓太がいた。
「どうだった?」
 朝食を並べながら訊かれる。
「不合格だよ」
 最後にとらとらから言われた言葉が耳に残っている。
「おまえ、プロレスのこと好きじゃねえだろ」
 と。これが不合格じゃなければなんだというのか。
 タイガは、見透かされたと思ったのだ。
「え? そうか?」
「連絡あったんだろ」
 父のコネで紹介してもらったのだ。
「ああ。あったぞ。本人さえよければ、何度か通ってみろってさ」
「そっか」
 そういうことか。つまり、あっちから不合格にはしたくない、って意味だ。本人の口から、ギブアップを言わせようということだろう。
「じゃ、また行くよ」
 プロレスラーになりたかったわけじゃない。ルチャリブレのヒーローになりたかったわけじゃない。とらとらに言われて、タイガは自覚した。
 たぶん、逃げていたんだ。
 ふつうに高校に行って、大学を目指して、就職して、という道。磯野先生は、きっとそういう進路をイメージしてるだろう。
 なにか好きなことがあって、そのことばかりに夢中になって、なんとかして成功しようとする道。これは。父・啓太がやろうとしている生き方だ。
 けれどタイガは、どちらの道にも進みたくなかった。普通に高校に行く、というのが不安だった。親の様子を見ていて、自分も似たようなことになりそうだと感じていた。といって、父親のようになにもかも賭けられるような特別好きなこと、というのもなかった。
 プロレス、と言い出したのは名前のせいだ。タイガという名前は、タイガーマスクが好きだった母と、『愛と誠』が好きだった啓太とが意見一致でつけた名前だという。冗談みたいな話だ。いっそ梶原一騎とでもつければ良かったのに。
 ともかく、たいして好きでなくても、プロレスの世界に行ってみようと思ったのはそういう理由だった。半分だけ、反抗期だった。
 そんなタイガの前に立ちふさがったのが、こともあろうに虎のぬいぐるみなのだ。ここであきらめたら、絶対にバカにされる。生涯の汚点、ってやつだ。たしか。
「ところでさ」
「なんだ?」
「中町さん、って知ってる?」
 父は知ってるのだろうか。あそこのプロレス団体には、ぬいぐるみのレスラーがいる、ってことを。
「中町……、ああ、とらとらさんか」
「知ってるの?」
「知ってる。倭国プロレスのトップレスラーだからな」
 不思議そうでもなく啓太は言い切った。

 とらとらさん 本名・中町とらとら。倭国プロレス所属のぬいぐるみプロレスラー。得意技・スピニング・トゥ・ホールド。とらとらアキレス腱固め。バーニング・とらとらドロップなど多数。体重の軽さからいまひとつ勝利には恵まれないが、技のキレとタフネスさには定評がある。

 なんだ、みんな普通に知っていることなのか、とタイガは思った。けれど、動画投稿サイトで見ることのできる試合の様子で、それが誤解だと気づいた。
 たぶんみんなは、とらとらさんをただのぬいぐるみだと思っている。その証拠に、試合ではいつも会場が笑いに包まれているのだ。
 すぐれたプロレスラーは、ホウキが相手でも名試合にすることができる、とか言うらしい。つまり、人形が技をかけているふりをして、投げられて見せたり、苦しんで見せたりして試合を演じる。実際、そういう試合の動画は、とらとらさん以外にもけっこうあるのだ。
 ただ、とらとらさんの出ている試合は、他のケースに比べてとびきりリアルで、テンポがよくて、ついでに、面白かった。
 ただし、とらとらがひとりだけで動いている様子は見られなかった。いつだって誰かに操られているかのようにしていた。
 きっと、なにか事情があるのだろう。少なくともタイガと闘ったのは、自力で動くことのできるぬいぐるみだった。それは間違いないのだから。

 夏休み前半で部活動が終わって、進路指導華やかなる季節になれば、放課後は暇だ。タイガのように受験勉強を放棄してしまえば時間はたっぷりある。
 コインロッカーに荷物を預けて電車に乗れば、目的地はひとつしかなかった。
 ジムの前に、とらとらさんはいた。かわいらしいレモン色した虎が、腕組みして待っていた。タイガの姿に気づいたはずだがびくとも動かない。近づいて、正面に立ったところでとらとらは言った。
「来ると思ったぞ」
 ひくひくと耳が動いていた。
 うながされてジムの中に入ると、けれど今日はトレーニングだった。他の若手レスラーといっしょに、地味なメニューだ。腕立て伏せやスクワット、繰り返し受け身の練習で、タイガの身体はすぐに悲鳴をあげる。動かそうとしても動かなくなる。
 他のレスラーは、平気そうに黙々とこなしてゆく。すぐ横でとらとらさんも練習している。ただ、腕立てもスクワットも、特別製らしい重りを背負ってだ。そうでもしないと体重の軽いとらとらさんは練習にならないらしい。
 ぬいぐるみのどこに筋肉があって、どう鍛えられるのか分からない。分からないけれど意味はあるのだろう。だれより誠実に、だれよりハードに、決して根を上げずメニューをこなしてゆく。
 驚いたのは、汗をかいていることだった。とらとらさんの足下が、しっとりとぬれている。しばらく汗を流すと、なぜか置いてあったタライに飛び込んだ。水を張ってあって、そこで一気に汗を流す。タライの中で、ぎゅっと自分を絞り上げる。そこから飛び出して、なぜだか置いてあった鉄棒にジャンプしてぶら下がる。勢いをつけて大車輪を始める。
「とらとらさん脱水機だ」
 あきれて見ているタイガに、レスラーのひとりが耳打ちした。たしかに、すごい勢いで滴を飛ばしている。ちょっとした必殺技だ。最後に、自分から高く飛んだ。
 くるくると回転して、最後は背中から床に、どべ、っと倒れ込んだ。着地失敗、かと思ったけれど、よくよく考えてみたらあれは受け身なのだ。倒れたのではなく、軽く丸まって衝撃を弱めているのだ。
 きっと、衝撃が強すぎて破れないようにしているのだろう。試合中に中身が出てしまったら、たとえ綿やパンヤでも、ちょっとしたスプラッター騒ぎになる。つまり、プロ意識のなせるわざ、なのだ。
 とらとらさんは起きあがって、ぴょんぴょんとタイガに近づいてきた。
「どうだ少年、プロレスは好きになったか」
「いいえ」
 即答だった。
 もっとも、元々嫌いだったわけじゃない。好きじゃなかっただけだ。それが今になって、前より興味が出てきたのは確かだった。それは、たぶん好きになった、というのではないと思う。だからこう付け加える。
「でも、また来ます」
 そう言ったら、とらとらさんが笑った気がした。
「そうだ、少年、お前、タイガっていう名前だって?」
「はい」
「ちきしょう、俺よりかっこいい名前つけやがって」
「名前つけたのは親です」
「あ、そうか、そりゃそうだな」
 そうして今度は間違いなく笑った。声を出したから。

 その日のうちにタイガはトレーニングを始めた。部活は軟式テニス部だったが、本気でレギュラーを目指したこともなく、従って体力アップにも本気になって取り組んだ経験がない。こんなふうに体力をつけたいと思ったのは、たぶん生まれて初めてだった。
 自分でも、理由ははっきりしなかった。
 たしかに、ジムの練習についてゆけなかったのは悔しい。けれど、プロレスラーは人間離れしたスタミナを持っていることは知っていたし、ついてゆけっこないのも納得できていた。だから、彼らに勝とうとしたのではない。
 だったらなんだろう。
 きっと、もう少しつきあいたかったのだと思う。
 すぐにグロッキーになって、道場の隅で見学してるだけの自分が情けなかった。途中でトレーニングをやめても、だれもなにも言わなかったのは、最初からそんなものだろうと思われていたからだろう。
 一ヶ月続けて、だんだんメニューについてゆけるようになってきた。
 それから、高校にも行くことにした。
 磯野先生の顔を立てた、というのではない。たぶん。もめているのがバカらしくなっただけだ。高校なんて、いつやめたっていい。メキシコ行きが決まったら、その時に退学したって間に合う。
 そう。部活動はしないで、倭国プロレスに通うことにしたのだ。もちろん、先生から許可をもらったりはしない。そんな必要はないと思う。
 それでも、まだ時々夢に見る。レモン色のハードルが、目の前に立ちふさがっている夢。
「とらとらさんはな、まだフォール負けもギブアップ負けもしたことがないんだ」
 そんな話を聞いたら、ますます高く見えるようになったハードル。
 ぜんぜん越えられる気はしないんだけれど、この頃タイガは、「越えたい」と思うようになった。
 ちなみに、まだタイガは、合格も不合格ももらっていないままだ。
                                      (了)
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 というわけで、『湯治場のぶたぶた』を買おう。
 まだ読んでないけど、この話よりたぶん面白い。


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