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謝罪管理

 端末にマイナンバーカードをセット。これで個人情報のすべてが管理可能になった。今年から、あらゆる経済活動も管理されているのだ。
 もちろん、健康管理だって資産管理だってできる。
 あらゆるデータが、手首にセットした生体認証装置を介して国に渡されているのだ。
 となれば、今さらカードなんてものを使うのは時代錯誤も甚だしい。こんなもので、個人の特定はできないのだから。
 それでもこうして生き残っているのは、制度設計のバグを考慮してのこと。基本的にどうでもいいことはカードに任せて、そこで個々人の裁量であれこれ使わせる。万が一メインシステムに問題が生じたならば、バックアップとして使うことができるのである。
 この制度が始まった時にはずいぶん世間で批判的意見が噴出した。プライバシーの侵害であるとか言うのだが、結局、管理されるのが嫌だったのだろう。なにもかもが国に筒抜けになったら、いろんなごまかしができなくなる。もちろん、データ管理に完全な安全などというものはないのだが。
 それでも、預けてしまうメリットも存在した。
 とりわけ大きかったのは、税金をはじめとする国家的事務処理から解放されたことだ。確定申告だの年末調整だのといった、面倒な手続きがなくなったのである。
 当然、それらの事務処理を引き受けていた仕事も消滅する。けれど、一方で慢性的人手不足の問題があった。さらには、AIの本格的な利用が始まって、実のところ事務処理という作業はどのみち消滅せざるをえない運命にあったのだった。
 社会制度の大きな変革は、混乱をもたらし、たくさんの人の命が失われ、路頭に迷って犯罪に走るものも続出したのだ。それでも徐々に進む健康管理機能の高度化が抑止力になった。
 自分では把握しきれない健康上のデータというものがある。健康診断によって、それを把握し、すみやかに医療につなげてゆけるようになれば好ましい。というのをさらに一歩進めて、可能な限りの身体データを常時観察してやり、生命維持をよりやりやすくしたのである。それは、自分自身の最重要データを他者に預けることに他ならない。そこに、福祉という理由を与えてやれば管理可能になる。
 自殺などしそうな人間は早期発見、犯罪によるペナルティを加味して、しかも逃亡の困難さが上昇。かくして混乱の収束を図る。
「そんなにうまくいきっこねえよ」
 と、ほとんどの人が思った。が、AIの階層化利用という手法が提案され、それが成功するにしたがって、夢物語は実現していったのだ。
 求められるのは、きわめて自由度が高い状態であるかのように感じられる、高度な管理社会、なのだった。
 というわけで、それならマイナンバーカードを使う必要などなくなっていどうなものなのだが、ここに、自由意志の余地というものが残されている。
 たとえば「ふるさと納税」のような仕組みだ。あらゆる人が、ある程度のところまで自分の意思で納税対象を決めることができる。
 あえてマイナンバーカードを使おう、という自由意志も尊重されるのである。
 しかし、今回の目的は納税ではなかった。
 即座に移動するのは、通称「ごめんなサイト」である。
 すべての謝罪案件を網羅し、自分に関係あるものをただちにピックアップ。その上で、その案件に対する補償をもらえるのである。
 人間などというものは、勝手に思い込み、過ちを犯し、後で「ごめんなさい」をする生き物なのだ。ただそれが、組織だのプロジェクトだのといった形で大きくなれば、ただの「ごめんなさい」で済まなくなる。時には、人生が左右されるほどの金銭的補償をしなければならなくなる。一方、ささやかな案件でも、大量に対象者が発生すれば、補償も馬鹿にならない。
 こういった状況を効率よく処理するために「ごめんなサイト」が作られたのだ。なにしろ、ほとんどあらゆる経済活動が管理されているのだから、こういった補償も可能なのだ。
 時々ここを覗いて、自分に関係ありそうな謝罪案件をさがす。すると新しいものが見つかることがある。そういうものが来るたびに通知をもらうように設定することも出来るが、多くなるとわずらわしいのである。
 謝罪案件では、ある程度の金銭的補償がある場合もあるが、その企業の製品をもらえる程度のものも少なくない。
 本日の謝罪案件は7件。
 ひとつひとつチェックして、補償を受けとるかどうかを、自分で決めてゆくのだ。
 受け取らない時には、選択肢が発生する。「許す」か「許さない」かである。「許さない」時には、ペンディングになって、補償金額が増えたりするのである。
 が、それはたいてい面倒だ。
「許す」ボタンを選んで、次々に処理する。
 実はこの「許す」はかなり気持ちがいい。そういう演出もされている。自分の寛容さがほめられたりもする。少し偉くなった気分も味わえる。
 こうして6件の謝罪を許した。
 が、最後の案件が問題だった。
 家族からだったのだ。具体的な謝罪内容は、「約束やぶってごめんなさい」とだけ。
 補償内容は、「今度の休みこそ動物園に連れて行く」だった。
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 いつものようにタイトル画像はBingのImageCreatorで作成。
 ラスト間際まで別のオチを考えていたのですが、面倒なオチだったので今回は回避して、ほのぼのオチ。
 今回が、2023年最後の投稿になる予定です。というわけで、ちょっとだけ時事ネタに振ってみました。なにぶん、ずいぶん「ごめんなさい」案件
の目立った年だったなあ、と。
 マスコミは、そういうものを叩くのが存在意義だと思ってるようで、やたらと喧しく騒ぎます。そうして、「許すべからず」を振りかざします。ネットでも、素人さんだかプロだか分からん人が、なにくれとなく批判をしてくれます。
 でもこのところ思うのは、ほとんどすべての批判が、「自分は正しい」という主張がしたいだけなんじゃないか、ということ。
 自己正当化とか、承認欲求とか、そういうことがしたいのは、私は人類の基本的な欲求だと思ってるのです。が、そのためのツールとして批判という手段を使う(なにしろ自分と意見が違うらしいから)のは、不毛であると思うのです。だって、批判された相手だって同じ欲求の持ち主なんですから、対抗せにゃならんですから。そうなれば、言葉と言葉の、実など伴う必要のない争いになるばかりなのです。
 どうすればいいかなあ、と少し考えてみませんか。
 というようにこの作品を受け止めてもらえたら嬉しいんですけどね。
 期待はしてませんけれど。

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