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魔法物語 ロウチ9

 夕食付きの宿に入って、ひとりきりで食事を済ませた。思えば初めての経験だった。
 そういえば母は若い頃、こうした宿に勤めていたはずだった。が、ロウチはその宿の名前も覚えていなかった。
 武器商の店は、このグラウゼの街にそうたくさんはないはずだ。偶然、マベラの店に入れたとしても、そんなに不思議ではないだろう。だが、宿泊する場所ともなれば、旅の街と呼び習わされるこのグラウゼ、きっと数十軒くらいはあるだろう。母が勤めていた宿に出会える可能性は低い。
 ただ空想することは出来る。夕食の給仕をしてくれた名も知らぬ娘に、母の若かりし日を重ねるのも難しくはなかった。

 寝台に横たわり、小さな目に明日の道を走らす。
 夜は重く、あまり様子も分からない。ポツリポツリと人家もあるが、さびしい街道だ。ロウチが向かうのが竜の大地であるからには当然だろう。今は消滅してしまったとはいえ、かつては危険きわまりない場所だったはずだ。
 夜の道に、むろん人影はない。
 ふと寂しくなった。
 こんなふうに道を確かめても意味はないのではないか。途中経過に、得るものがあるだろうか。
 それより、目的地の様子を知る方がいいかもしれない。竜の大地と、それから、マベラから聞いて新たな目的地となった場所、ニウルカの山。そこには、大きな力を持つ魔導師がいるらしい。
 もしかしたら、父が会おうとしていたのはその魔導師だったのではないか。とはいえ、いずれにせよ憶測に過ぎないのだ。
 徐々に小さい目の速度が上がる。この速さでは、翌日の下調べの範疇を越えている。途中、廃墟ばかりが並ぶ土地もあった。だんだん人の住む土地ではなくなっているようにも思う。こんな中を歩いて進むことになるのかと、思えば気も進まない。だから逆に、速く進んでゆくことになる。通り抜けてしまおう、となる。
 なのに道は、なくなってしまう。枯れた蔓草が、かつて道だったところに浸食し、覆っている。少し進めば、もう道であった形跡さえ分からない。
 一度止まる。
 空からはあの魔法の光が降り注ぐ。草の亡骸たちがもつれ合い絡み合う。その影も。
 寂しさが強くて、息苦しくて、再びさっき以上の速さで進んだ。
 相変わらず音はない。けれど、寒い風の音が聞こえているように錯覚する。進み行く速度もまた、ありもしない幻の音を響かす。
 地面が高くなってきている。同じ高さでは枯れ草の中に突っ込んでしまう。
 だからロウチは、小さな目の高度を上げた。自分の身長ほどだった高さから、一気に十倍ほど昇った。
 そこから見えたのだ。あの晩見た、輝く水面が視界に届いたのだ。
 海ではない。それは大きな湖水であった。
 その瞬間ロウチは直感した。
 この湖こそは、巨大な竜が移動した跡なのだと。
 さらに高く昇れば、湖の形が分かる。明確に竜の形をしているわけではないが、頭部と尻尾の場所がぼんやりと分かる。しかし、どれほど巨大な竜だったことか。
 自分の呼吸の音が聞こえる。
 小さな目で見る情景は、本来は遠近感に乏しい。大きさの感覚に乏しい。それにも関わらず、運動してゆく感覚と重なって分かる。実感される。
 呼吸が速くなる。
 湖に輝きがあって、そのことも感覚に影響する。夜の水の黒さを強烈に意識させる。
 ふいに気づく。ニウルカの山が、この先にあるはずだ。竜の大地を越えたところに、魔導師の住処があるはずなのだ。だが、今は見えない。黒々とした空に溶ける。
 小さな目は進む。竜の湖水の輝きの上を、確認するように、出来るだけ速く。
 光のゆらぎによって生じる疾走感。けれど波一つ立ちはしない。
 星が見えないのだ。進むその先には、星が見えない。それはただ山の陰というのではなく、陰そのものであるかのようだ。
 初めて小さな目で遠出した、青き竜を追ったあの夜に見た世界の果てを思う。けれど、それよりはずっと、この世界の中らしくて、不安が小さい。
 ロウチの身体は宿の寝台の上だ。意識を振り向ければ背中の感触だってある。ただ、時折感覚が混乱する。確かな背中の触感が、一瞬遠ざかる。寒気と、同時に生じる浮遊感覚。前進する感触。
 奇妙な高揚感。まるで鼻歌でも出そうな、なのに綱渡りしているような緊張感。
 闇に、闇に、闇に向かう。
 やがて対岸に達する。輝きの湖水が後方にある。
 だがそのせいか、あるいは天上の光球によってか、地上の様子を感じ取れるようになった。木々と呼べる植生はほとんどなく、あって灌木程度。草も少ない。砂、石、岩。そそり立つ崖。
 崖に沿って上昇してゆくと、棚状の出っ張りがあって、そこに洞窟があった。中から明かりがもれている。それがなければおそらく気づかなかっただろう。
 速度を落とし、吸い寄せられるように洞窟に向かうと、中から一頭の蝶がひらりと舞い出てくる。いや、それは本当の蝶ではない。光を帯びた、蝶のように動くなにか。たぶん、魔法。
 小さな目で蝶を追う。すると、蝶はからかうように、ひらりひらりと舞い飛んで、再び洞窟に向かう。誘われるようにロウチも追う。
 そこに人がいた。
 長い白髪と長い白髭の、身体は大きめの老人、と見えた。ぞろりとした黒い着衣で、険しい顔つきの、一見して邪悪な魔導師、と思う。
 それでもかまわずロウチは、小さい目を近づけてゆく。なにが起ころうとも、今のままなら大丈夫という安心感がある。行かねばならない。
 だが、次の瞬間、目が会った。そこに、ロウチの小さな目があると察して、にらみつけてきたようだった。
 遠く離れたグラウゼの宿の、寝台の上で、ロウチは身を縮こませる。身体を固くした。
 そうして魔導師がなにか言う。
 言われたのは分かったが聞こえない。
 聞こえないが、「見つけた」と言われた。なぜだかそう感じた。
 震え上がった。知らぬ間に罠に飛び込んでしまった小動物のように。あとはただ、逃げ出すことしか考えられない。
 すっと下がる。
 一瞬、宿の身体の目を開けた。そうすれば、小さな目は見えなくなって、ひとまず恐怖心から抜け出せるように感じ、けれど次の瞬間、身体の目を閉じた。刹那の、魔導師から目を離した状況が恐ろしくて。
 そうして見たのは、あの小さな光の蝶が背後へと飛び越えてゆく場面。小さな目は魔導師の様子を捉える。魔導師の視線が、正しく小さな目の位置を把握していると感じ取る。
 背後に抜けた蝶が気になるが、魔導師からも目を離すことができない。
 魔導師は右腕を上げ、小さな目を、もしかしたらそれを越えてロウチ自身を、指差した。また、なにか言う。が、すぐにそれを無駄と気づいたらしい。声は、言葉は届かないのだ。が、そんなことはかまわぬとばかりに微笑み、さらに届かぬ言葉を発した。
 恐怖、と同時に感じ取るのは、ある種の喜びだった。自分は、この魔導師に会いたかったのだと、奇妙な確信が湧いている。だが、それでも恐い。なのに恐い。老魔導師の迫力と、いきなり出会ってしまった大きな運命の予感とで、全身が小刻みに震える。
 宿の部屋で、ロウチは大きく深く呼吸する。さらに速く繰り返す。痺れたように、頭が考えられなくなって、どうにかしようと身体の方が反応している。
 だが、次の瞬間、ロウチは逃げた。空中を後退りするように下がった。下がって、なにも見えない後方に進む。魔導師の様子を伺いながら、徐々に速く。
 洞窟から後方に飛び出し、輝く湖水の上を、まだ方向転換できぬまま、もう魔導師の姿など見えないというのに、そのまま視線を離さず進んだ。
 来る時には定かでなかったニウルカの山の尖った輪郭が、影が、星空を背景にして認識される。遠ざかる。見えない後方に進むのは、まるで落ちてゆくようだ。
 上下の感覚が補正できないせいか、視野はゆっくり回り始める。湖水の輝きが回りだす。それでも、もう変えることが出来なくて、そのまま後ろに進み続ける。たとえば、ロウチの身体から伸びた線の先の目を、おそろしいほどの速さでたぐり寄せているみたいに。
 そうして追い越した。蝶を。
 その線をたどるように、光る蝶が飛んでいた。たいていの物があまりの速度で判別できなくなる状況で、その蝶だけははっきり見えた。同じ経路を、同じくらい速く飛んでいるから。
 それだけではない。蝶は小さな目の逃げる速さに気づいたように速度を上げた。だから、視野の中に同じくらいの大きさのまま見え続けるのだ。
 考えられなくなっていた。
 蝶の姿の意味を考える余裕などなくしていた。
 荒廃した風景や耕作地の様子、丘や林、道。あるはずだったが、もう分からない。
 そうして光の中に飛び込む。旅人の街グラウゼの、夜も消えぬ無数の灯りたち。もう、ロウチの身体はすぐそこだった。
 感覚がはっきりしない。速度と位置が混乱する。ひとまず速度を落とす。小さい目に対する距離感を確保する。が、その時には目は建物をいくつも貫き、ロウチのすぐ近くまで来ている。
 身体の目を開く。小さい目を止める。
 ふいに背筋を冷たい感触が走り抜けた。
 目の前に蝶がいた。小さな目で見つめ続けた、あの光る蝶だと思われた。蝶はやさしく羽ばたき、宙に溶けるように消える。
 見つかった、と思った。
 だが、だが、ならばどうする。逃げるのか、戦うのか。いずれを選んでも、そのための手段が見えない。
 ふ、と胃が重くなった。
 思い出したのは母の言葉だ。

「どうしたらいいか分からなかったら、準備して待つの。まず気持ちを準備して、身体を準備して、最後に道具を準備なさい」

 いつだったろう。まだ子どもだった時に、静かに話してくれた母の笑顔。
 ロウチは深呼吸して、寝台から起きて軽く跳躍した。最後に、父の名を持つ武器を手にした。なぜだか、最後の準備である道具を手にした瞬間に、気持ちがすっと落ち着いた。胃も軽くなった。
 魔導師が来る。
 ここに来る。
 それは奇妙な確信だった。
 だから、待つ。

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