魔法物語 ロウチ5
その晩遅く、雨が降った。風も強く、嵐が来たかのようだった。
ロウチは寝台に横たわり、小さな目を雨の中に送り出す。それは、奇妙で心躍る経験となる。
小さな目は、見るだけだ。音も聞こえない。雨に濡れる様子もない。風に吹かれて押されることもない。
ただ稲光があって、時おり強く景色が浮かぶ。雲の中に稲妻が動き回っているのも分かる。
竜に誘われるのではなく、星も見えず、ほぼ暗い中を勝手に飛ぶのだ。自分で空を飛んでいるのとは違うだろうが、ロウチにとってそれは初めての経験であり、心に刺激を受けないはずもない。
昨夜のように速くは進まない。だいたい、自分の足で走る程度。全力で走るくらいの速さ。ただ、足で走る時には景色を見ている余裕はない。道を見なければならないからだ。障害物に関係なく飛翔する小さな目なら、余裕をもって見ていられる。あまり強く見回したりすれば目だって(?)回るだろうけれど、あたりの様子を見ながら視野を動かすこともできる。
それが思った以上に楽しいのだ。
雨の様子、風の様子、浮かび上がる光と陰。
畑を抜け、建物の多いあたりに来れば、少しは家の灯りもある。においを感じれば分かるはずの生活感はないけれど、そこに人がいると感じるだけで、少し安心している自分に気づける。
遙かな高みから見下ろした世界には、人がいる感触など皆無だった。同じように視覚だけで、同じ場所を見ているのに、感覚はまるで異なっている。
ロウチの意識は走る。身体を使っていないから、そうは疲れない。息切れない。それでも、目眩く風景を続けて浴びていれば、気持ちの方が疲れる。疲れるけれど楽しかった。
村を抜けて、速度を上げて、道に沿って飛べば、やがて大きな街にたどり着く。旅人の街・グラウゼ。
夜中だというのに街は明るいのだ。
こんな遅くに、グラウゼにいたことはない。父と母とが出会った街。濡れてでも通りを歩く者の多くが、機嫌よく酔っているようだ。酒を提供する店、男女の営みに関わる店。誘う声は聞こえなくても分かる。
雨は小止みになったろうか。
ロウチの心は誘われる。ふと、女性との関わりを提供する建物の中に吸い込まれている。もとより興味がないはずもない。まったく知識がないというわけでもない。
美しい女性には心騒ぐ。それでも、男が現れ、段取りを踏むのは醒める。じっくりと事の展開を見守るのが気恥ずかしい。じれったくもあるが、なにも言えないのだ。言っても、その言葉は自宅の中。
少し留まったが、すぐに出た。
こんなことは、いつだってできる。なんて思いながら、次は武器商の建物に入る。
店主だろうか、老女がうたた寝している。
並ぶはさまざまな武器。とりわけ剣は、魔法との関わりもあって選択肢が多い。物理的に大きく重い剣、細く軽く素早く切れる剣。それぞれの利点を生かし、欠点を魔法で補うという考えもあれば、補助効果として麻痺を与えたりする場合もある。洞窟などで松明がわりに使いたい、などという人もある。
ただし、どんな剣が売られているかとなれば、そこは運次第でもあるのだ。値段も含めて。
それでも、誰にも邪魔されずに眺めていられるのは楽しくもある。どのみちなにかを切って殺す道具ではあるが、それは美しくもある。それぞれに、作り手の思いが表現されているのだ。
もっとも、いくら見ても買えるわけではなかった。また、たとえ手に入れたとしても自分が使いこなせる気はしなかった。
宙を転がるように、身体を振るように外に出る。
その場でしばしためらった。が、再びロウチは走り始める。走る速度で飛ぶ。
雨は止んで、街の明かりを抜ければあとは闇だ。まだ雲に覆われた空に星の光もない。小さな目は見るだけだから、闇の中では感覚が消えてしまう。それでも進んでいられるのは、障害物があっても通り抜けてしまえるからだ。木の枝や幹、時には地面の起伏があっても、抜けてしまう。いや、ほんのわずかな視界の変化で、そういった場所を通り抜けたのだろうと想像するだけだ。
もう少し高く飛べば、障害物にぶつかることもないのだろう。けれどロウチは、あえて自分の身長くらい、自分の目線の高さを行くことにこだわった。
闇を進む。
ほとんどなにも見えていないのに見て進む。
ふいに寒気がわいたりもするけれど、それは身体が勝手に感じて、心が勝手に受け止めている錯覚のようなものだろう。
死出の旅、という言葉がある。
死んだ人の魂が死者の世界に行く旅路。そんなことがあるかどうかロウチは信じていなかったけれど、死んで消えてしまうことを恐ろしいと感じる気持ちなら分かる。旅をする、というのはきっとたとえ話だ。
その旅はけれど、こんな闇を貫くようなものではないだろう。もっと心安まる旅。だから、父もこの闇を越えていったわけではないだろうと思う。
そんなふうに思っているのに、闇を行く今が、死へと続いているという想像は消せない。それでも、かなりの速さで進んで行く。
ふいに気づいた。
自分が、なにかを我慢していることに。闇の旅路は、その象徴のようだ、と。
グラウゼを出て、そのまま進めば次の街にたどり着くはずなのに、もう、進む方向さえ定かでなくなっている。胸の奥に、どんどん闇が大きくなってゆく。固くなってゆく。だんだん息が苦しくなって。
父との思い出が現れては消え、そのたびに少しずつ胸の奥が締め付けられる。
静かな人だった。あまり偉そうにはしない人だった。
「そうだな」
と言う父の表情ならたやすく思い出せる。父から放たれた否定的な言葉の記憶はほとんどない。ただ、悲しげな目をすることはよくあった。遠くを見ていることもよくあった。それでも、弱い人ではなかった。
一度だけ、父がケンカに巻き込まれたのを見たことがある。祭りがあって、大勢の人でにぎわう街路で、複数の男たちが争っていた。その最中、ひとりが剣を抜いたのだ。味方が劣勢と見て、威嚇のつもりだったのだろう。だが、その直後に、剣は叩き落とされていた。
ロウチには見えた。素早く父が動き、剣を持った男の手を、掌で剣の柄ごと叩いたのだ。まるで、剣を振るより速く動けると確信しているかのようだった。
「やめましょう。なにが原因か分かりませんが」
その場の全員が呆気にとられていた。それでも、剣を叩かれた男が我に返り、父を殴ろうと拳を突き出した。けれど、その身体が前のめりに泳いだ。父の顔を殴って止まるはずだった拳は、そのずっと前にあった。父の身体は相手の横にあって、その拳を引っ張っていたのだ。
男は身体の平衡を失って転びそうになる。それを必死に耐えて体勢を立て直す。そこから、今度は横殴りに腕を払ってくる。
思いがけないことが起こっていた。父の身体は、相手の拳が通る軌跡を先回りするように動いた。つまり、拳より速く移動したのだ。そうしてその場で相手の肘を押さえ、さらに拳を引っ張る。相手の身体が、ぐるりと回転させられて地面に落ちる。その落ちるところを、頭を打たないように手で押さえてあげる父。
「やめとけ!」
と誰かが叫んだ。
「疾風のトーフェだ」
と別の誰かが叫ぶ。
すると、たちまちみんないなくなった。
「すいませんでした」と「ありがとうございました」の声を残して。
その後ロウチは、父に軽く頭を叩かれた。
「お母さんには内緒だ」
と言われたけれど、すぐに話してしまった。こんなにも誇らしいことを黙っているなんて、絶対無理だった。
もう十年以上も昔の話だ。
その父は、もういない。
止まる。
夜の中に小さい目が止まる。浮かんでいるような気持ちになって、あわてて息を吐き、吸った。
風の音が聞こえる。耳が捉えた、身体のある周囲に伝わる音だ。拳を握る。強く握る。その感触を確かめる。ゆっくりと開くと、指がある感触に気づく。
小さな目のある場所と、身体のある場所が離れている。当たり前のことを思う。
上半身を起こして目を開ける。魔法の光に浮かぶ室内の情景。小さな目の見ている景色が消える。消えたように感じる。けれど、意識を凝らせば、まだ同じところに小さな目があるのを感じ取れる。
どこなのか分からない。たぶん、藪の中。
深く呼吸して、それから頭を、首を回した。その動きで、小さな目を飛ばす。自分を中心に、離れている距離を半径にした大きな大きな丸を描く。あまりに速くて、なにも見えない。どのみちなにも見えていない。それでも、恐ろしいほどの疾走感が生まれる。
すべてを貫いて、突き抜けて、欠片のような視界が回転する。目を回さぬようにロウチは堪える。
そのままいつもの目を閉じる。
視界は小さな目に渡される。その速さで動く視界は、そこにあるなにもかもを溶け合わせてしまう。
木々も、建物も、地面も、空も。どれもこれもが判別できないほど小さな粒子になってしまう。ほとんど闇の中。けれど、普通の闇がどこか手応えのない淡いものであるとすれば、この闇は濃い。ねっとりとした、どろどろとした、押しつぶされそうに重い闇。
耳鳴りがする。
自分の鼓動が、耳の中でわんわんとうるさく響く。
首の動きを止める。小さな目の運動も止まる。混沌としていた視界が澄む。
何か見えている。
視界の下の方に平らな、ほのかに光るのは、あれは海かもしれない。漆黒の、陸の陰たちの向こうに、少し、見えている海。
自ら輝くのか、なにかを映すのか、それとも輝くなにものかを宿しているのか。
小さな目は動かさず、海の情景を眺めたままで、ロウチはまた、頭を落として横たわる。後頭部に布団を感じる。身体によってつぶされた形を感じる。
そうしてロウチは、小さな目を閉じた。
あと見えるのは、思いによって描かれた映像だけ。
ほ、と息を浮かせて、ロウチは眠る。とても疲れていて、気を失うみたいに。
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