映画に行きませんか
暖かい風を追うように小道を行くと、ふいに足が止まった。淡く降る梅の花の香り。そっと見上げるとどこからか「映画に行きませんか」と聞こえた。けれど姿は見えない。
それでもその声の優しさに、反射的に「はい。行きましょう」と応じる。
あたりを見回してみるけれどやはり誰もいない。
まあいいか、と行き先を変えた。
「映画ならシネコンですね」
独り言のように言う。
たぶん徒歩だな。そうでなきゃな。
ふふ、と微笑んで、ゆっくり歩くのだけれど、誰か追ってくるような気配も感じない。
かまわず想像して、おとなしそうな服装も思い描いて、時々、
「あたたかいねえ」
なんて、話しかけているようにも独り言のようにもとれる言葉をこぼす。返事は聞こえない。
かまわず進んで川沿いの土手。広がりのおおかたは枯れ色だ。少し、早春の緑。広い道路と交錯して、橋の反対方向に進めば、畑と街路樹、中古車の店といったその先に大きなショッピングモールがある。
田舎の映画館は、こういうところにある。歩道から駐車場を横切って建物に向かう。
ふいに、右肩の近くに小さな緊張を感じる。なにもいないのかと思ったけれど、いたみたいだ。
「よかった。エレベーターに乗りますよ」
あたりに誰もいないから安心して話しかけた。もちろん返事はない。
シネコンのあるフロアは3階。上映中の作品は、恋愛ものの邦画、アクションものの洋画、テレビアニメの劇場版。それからサスペンスもの。
「どれにしますか?」
返事はない。誰かと見る映画は、その誰か次第。サスペンスものが、幽霊と恋愛がらみのものらしいから、今日の相手に良いのかも。
それからチケットを取る時、ちょっと迷った。けれど、大人を二枚。売店でポップコーンとコーラのSをふたつ。入場する時、チケットを二枚見せたら少し変な顔をされたけど、それはそうだよね。
なんだか、特別な儀式に参加してるみたいな気分だった。
梅の花の精とかかな。『紅天女』の宣伝だったりして。もっとも、あれの映画化って聞いたことなかった。
それぞれの席にコーラを置いて、ふたりの間にはポップコーン。
すると隣の席で緊張がほぐれたような印象があった。
さて、映画そのものは特別面白くなく、といって退屈というほどでもなく、ほどほどの出来だった。
エンドロールの時、それとも上映が終わって明るくなる瞬間、ここに連れてきた何か、誰かが姿を現すことを、実は期待していた。だって、そういうものじゃないかな? ところが、そんなオチもつかない。
ただ、明るくなった時、もう隣の席にはなにもいない、ということだけははっきり感じ取れた。
もったいないからコーラとポップコーンを自分だけで処分して、ショッピングモールを出た時には、「たぶん自分はなんらかの世界を救ったんだよ」なんて自分自身に言い訳していた。
ただ、夜になって思ったんだ。
こんなふうに過ごす時間を持てたこと、そのものが、なんて豊かで贅沢だったのだろう、って。
梅の花の香りなんて思い出しながら。
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イラストはBingのImageCreatorで作りました。
昨日、朝起こされた時からずっと、ひどく大変な一日でした。とても消耗して、いわゆる疲労困憊。ただ、その中で手に入れて読んだ『特別じゃない日』の新刊で、この作品のシチュエーションを書いてみる気になったのでした。そうして今、まるで予定していなかったラストにたどり着いて、ちょっと救われた気になったりしています。
先週も、ひどい新年だ、みたいなことを書いたのですけれど、今日はもう月も改まって、もしかしたらマシなフェイズに入ったのかも、と思うような印象があります。
だったらいいなあ、と。
今年も剪定作業できぬまま梅が咲いてしまうのですけれど。
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