魔法物語 ロウチ12,メイリ1
少女は停まっていた。
ソドウと呼ばれる街の大樹に封じられて、もうずいぶん長いこと凍結された状態にあった。
命を受けた時、すでに八歳ほどの身体と知能を持っていた。そのような少女を、魔法によって複製することで与えられた仮初めの命だった。
元になった少女は、大いなる運命の魔法を身に宿していた。その魔法そのものを奪おうとした魔導師によって、少女は複製されたのだ。
いわば嫉妬によって生み出されたことになる。だが、そんな複製の魔法を行った魔導師は知らなかった。元になった魔法、“熱き星”は、光の子と呼ばれる四つの魔法のひとつだったが、その目的であった世界の破滅からの救済には、無意味だったのだということを。その目的は、光の子のひとつ“滅びの光”によって達成されるのである。
そもそもの目的を達することのできない魔法。その魔法を複製することで奪ったとして、果たして意味があるだろうか。
だが、魔法を映した本人に自覚はない。魔法もろともに少女の姿を奪った魔導師にも自覚はない。当初の目的がなんであろうと、その後の人生にはなんら関係はなかったのである。
まして、凍結状態にされて過ごした時間に、意味などあろうはずがなかった。
だが今、意味などなかったはずの人生に、ひとつの機会が訪れる。
こちらからは見えない。感じ取ることもできない、ただ向こうから見られるだけ。そんなきっかけだった。ひとつだけ特別だったのは、見ている者もまた、光の子に関わる者だったこと。
見ることは、伝えられる。特別な経路をもって、見たものが伝わって行く。魔導師によっては、その経路を辿ることさえできる。だから、ほんのわずかなものではあっても、そこには魔法による相互作用が働く。時には気づくことができる。
眠りにあった少女は、ゆっくりと目を開けた。
ロウチは見ていた。
目のやり場に困る全裸の少女が、徐々に目を開けてゆく表情の変化を。
あまりに魅力的だった。ただ美しいだけではなく、無垢で純粋、なのに歳ふりて妖艶。相反する印象を溶け込ませているように感じられた。
最初、彼女の目はなにも見ていなかった。それとも、すべてを同時に見ようとしているかのように、一点に焦点を結べずにいた。そのことが、表情にも顕れている。それが余計に彼女を魅力的に見せる。
見る者が息を止めてしまう。ロウチもその例外ではない。ふいに苦しくなる。
小さな目は音を伝えないが、そこには確かな静寂がある。押しつぶされそうな静謐がある。
やがてロウチが苦しくて呼吸を再開する頃に、少女はその表情を移ろわせて、すべてを見ていた視線がひとつところに集約される。まるで、小さな目を見るように。
あの魔導師と同じように、ないはずの空間に焦点を合わせて、その奥を覗き込んでくる。
ロウチは、名も知らぬ少女と向かい合っているように錯覚する。
すると少女は微笑む。独り合点の笑みか、それともロウチを認識できているのか。いずれにしても、その表情に意図は感じられない。あくまで自然の成り行きで生まれた柔らかさを。
受け止めてロウチの胸は躍る。ふいに湧いた強い感情に身を焦がす。好きとか嫌いとか、そんな昔なじみの感情ではなくて、もっと複雑で入り乱れた気持ち。
恋、と言われたら信じてしまいそうな、あるいは絶対に違うと拒絶しそうな、得体の知れない感じ。
そこから少女の感情が消えてゆく。磨かれた銀食器のように、冷たく硬質な印象に。
その顔に、不意に影が差す。わずかに射し込んでいた陽光が途切れる。木の穴をなにかが塞いでいる。
少女から視線を外して、小さな目は背後を見る。
そこに、異形が立っていた。
人の形でありながら同時に鳥の形でもある。岩のような肌、大きな灰色の翼が日差しを遮って、その輪郭を橙色に輝かせている。
異形がなにか言った。もちろん、なんと言ったのかは分からない。それでも、危うい印象だけは強く伝わってくる。威嚇されたように感じる。
逃げようかと思う。
けれどそれではいけない気もする。小さなためらい。そんな短い時間に、なにかが起こった。
グラウゼの宿の寝台で、ロウチは跳ねるように身を起こした。痛みと痺れが同時に起こって全身を包んだ。
喉の奥で塊になった呼気が跳ねた。息が止まりそうに感じる。無理矢理吐き出す。
「いいのか」
と吠えた。濁った声だった。だが、もう一度目を閉じて、あの場に行く勇気がない。上半身を起こしたままで、しばらく待った。確かな現実に包まれている安心感を、確認するように。
ロウチは、身体をびくんと痙攣させて、次の瞬間に異変に気づいた。
あたりは真っ白だった。なにもない空間に、自分だけがいると感じる。白い世界は、たとえば霧のようなのに、不透明というのではなく、ただどこまでも広く白いのだ。
異変はそれだけではない。知らぬ間に自分が立ち上がっている。ただし、足に体重がかかっている感覚がなかった。その場に浮かんでいるようだった。
「おーい」
呼んでみた。
返事はない。
「おーい!」
叫ぶように強く呼んでみた。
「はーい」
どこからともなく返事があった。あたりを見回してみるが、やはりただ白い空間で、だれもいなかった。
「大丈夫だよ」
宿の部屋でロウチは、自分に言い聞かせて、寝台を降りて立つ。足の裏に感触がある。冷たい。
シャイヌ叔父にもらった靴に足を入れると、その感覚が落ち着かせてくれる。やはり良い靴だ。
「もう大丈夫なんだ」
もう一度声に出して、声があると確かめる。周囲を見回して、どこにも異変がないと確認して、それでもどこか不安で再度見回してみた。
「おーい」
なぜだか、なにかを、小さな声で呼んでみた。
返事はなかった。
天井を仰いで、荒く息をして、思い直して、再び寝台に腰を下ろし、ていねいに呼吸して、それからゆっくりと目を閉じる。
まだ、あそこに小さい目がある、と。
「おまえはだれだ!」
白い世界にロウチは問うてみる。答えはあまり期待していなかった。ただ、問わずにいられなかった。
意外な答えがあった。
「少し待ってて」
女の子の声のようだった。
白い世界は、静寂に満たされている、と思いこんでいた。だが、声があると気づけば変わる。かすかに、音が動いている。
ロウチは音に意識を集中した。
風の音がしていた。高い木の上で聞くように。思い出す。この白い空間に来る直前、小さな目で見ていた情景のことを。
ならば、もしかしたらここは、あの木のウロの中。あの少女が眠っていたところなのか。
確かめてみる方法がある。
改めて小さな目を送り出すのだ。この白い世界がどうであろうと、いつか果てるならば、そこを抜け出せばいい。あるいは天高く行くか。
いやいっそ地に潜ってみるか。
そこでロウチは、小さな目に意識を集中させる。
どこであるかも分からない。それでも魔法でつながっているなら、見ることができる。
ロウチに借りられた宿の一室は小さく、それでもひとりで過ごせる。意識を遠くに飛ばして、不審がられることもない。
座ったまま見る。もうひとつの視界を。
!
驚きを呑み込む。眼前に異形がいたからだ。少女がいるその手前に立って、なぜだか小さい目の前に顔がある。とっさに動いて、異形の視線を外す。異形の視線は追ってはこない。だから回り込んで、名も知らぬ少女が見える位置まで移動する。
せまい空間だ。異形の身体は大きく、窮屈この上ない。それでも、少女は微笑んでいた。なにかを、異形に対して話しかけている。
その時、聞こえないはずの声が、聞こえた。
「メイリよ」
メイリ。名前であるようだった。どうやら少女の名前らしかった。
「メイリよ」
ふいに声がする。さっき聞いた少女の声らしかった。
「メイリ?」
反射的に聞き返す。
「そ」
どこか誇らしげなのだ。
「あなたはだあれ?」
「ロウチだ」
「わかったぁ」
含み笑いするように少女の声が応える。
「そうか。わしはオクライだ」
ふいに近くで声がした。白い世界に、唐突に出現したのは、大きな翼を持つ異形だった。反射的に距離を取って、剣を構えようとしたがなかった。
「あわてるな。説明はしてやる」
しゃべった、と思う。さっきも言葉を発していたのに、その時には思わなかった。
「どういうことですか」
「面倒なので、ひとまずここは、夢の中だとでも考えておけばよい」
落ち着いた声だった。それから異形は自分を魔導師であると説明する。
ロウチは昨日までの生涯で、一度も魔導師に会ったことがなかったのに、今日はもう二度目だった。
なにか聞こえたと思ったのに、一瞬で消えてしまったから、ロウチは再び静寂の情景を見るばかりだ。
眠っていた少女は、メイリという名前なのだろうか。漠然とそれで正しいと思うけれど、どこにも証拠などないのだ。
大きな翼を持つ異形は、少女になにか話しかけている。少女は、恐れる様子もなく穏やかに返事をしているようだ。
少し後退してみる。少し上から眺めてみる。どのみちウロの中はあまり広くないが、小さな目なら大木の内側ギリギリのところまで下がれる。
異形は、緊張しているようだった。なんらかの緊急事態に、急いでやってきたというところか。一方、少女はゆっくりと上半身をもたげて異形を見上げているのだが、いたって穏やかな表情なのだ。
オクライ、という名を思いつく。まったくの突然だったが、それがこの異形の名前であると感じた。まるでついさっき覚えたことを思い出したようだ。
なにかが起こっているのは分かる。
なにが起こっているのかは分からない。
ただ、なにかがある。見えているもの以上のなにかが、この場所にあると分かる。けれど小さな目は、問いかけることもできない。叩くこともできない。
ここに因果の糸があって、自分を導いたのだと、思いこむのは簡単だ。けれどロウチは、そんな簡単に納得することができない。
異形の魔導師オクライは、今あるこの状況を、メイリの持つ力のせいだという。あらゆる人を、この白い空間に導き入れてしまう力なのだという。
そんな奇妙な罠に、最初に(他に誰もいないのだから)捕らえられたのがロウチなのだ。
「おそらく、その力を開いてしまったのが、おまえの示した力だったのだろう。わしは何度もメイリに会ったが、ここに招かれることはなかった」
オクライは冷静にそう言った。信じられるかどうか怪しくはあったが、他にはなんの説明もできなかった。因果の糸とか運命とか、そんな言葉では足りなかった。
「われわれは、死んでしまったのですか」
まず、そこが気になった。
「分からん。おそらく違うが、確かめる方法が分からないだろう」
「聞いてみてはどうですか」
「あぁ?」
そこでロウチは大きな声で叫ぶ。
「おーい」
返事はすぐくる。
「なあに?」
ふいにロウチは感じた。この声のする方に、小さな目を向かわせよう。そうすればもしかしたら。
ところがそれだけではなかった。改めて小さな目を動かそうとした時、強く感じるものがあった。その方向に進めば良いと感じたのだ。
世界そのものの白さが、掻き消える。
どこかへ飛び出した瞬間、見えるものすべてが急速に小さくなった。なにもかもが、顕す意味を変えてしまう。ほんの今し方までただ白かった世界が、小さくなってみれば少女の顔だったと思える。
さらに後退すれば分かる。
同じその場に、オクライがいた。
「いた。死んでない」
そう言った時、ロウチは気づく。目には見えないけれど、たしかにいる。もうひとりの自分。
少女が動いている。そっと微笑む。
なにもかもを承知しているかのように。
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