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『本とコンピュータのネットワーク』的昔話1

 ぼんやり過ごした頃

 幼い頃、身体は小さかった。
 そのせいか、肉体的ヒーローにはあまりあこがれなかった。小さな身体で大きな敵を倒す、たとえば「ハリスの旋風」の石田国松のごときもあったが、自分では、最初からあきらめていた。
 鉄腕アトムも、自分の出る幕ではなかった。
 かわりに、ハカセにあこがれた。ひょっこりひょうたん島のハカセや、オバケのQ太郎のハカセやら、そしてもちろんお茶の水博士である。
 民話、おとぎ噺のとんちものも好きだった。
「なぜなに理科の学校」なんて本で仕入れた知識をひけらかして、豆博士なんて言われて喜んでいた。
 そこから少しだけ大人になって、ホームズや明智小五郎にあこがれる。少しだけ現実的になったのだ。
 だがなぜか、大人向けミステリには行かないで、子供向けのSFに行ってしまう。「宇宙のスカイラーク」や「27世紀の発明王」といった、子供向けにリライトした海外のSFである。
「日本のSFなんて」とか、知りもしないで決めつけていたのは、小学校の高学年の頃。NHKでドラマ「タイムトラベラー」が評判になり、同級生の間でもよく話題になって、だんだん無視できなくなったのだ。
 その原作者である筒井康隆の『SF教室』という本が図書室にあった。思えば、この本との出会いが私の人生を大きく変えてゆくことになる。
 ここで、星新一という名前を知ったのだ。
 いや、『SF教室』で紹介されている作品には、あまり興味をそそられなかったはずだ。たしかあまりSFっぽくなかったせいでもある。
 だが、中学校に進学して、田舎のこととてまともに書店もない環境だったのが、ちょっと離れた町に自力で行き来するようになる。バス停のすぐ横に書店があり、少し歩けば他にも四軒。いずれも小さな本屋さんだが、少しは異なる在庫を並べていたのだ。
 そうして、この時代というのが、岩波を代表とする名作系ではなく、さまざまな娯楽系文庫が登場し拡大する時代だったのだ。それは、中学生の読書好きが、みんな星新一を読むようになる時代の始まりでもあった(たぶん)。
 うちは決して裕福ではなかったし、小遣いにも恵まれてはいなかったが、それでも、百数十円程度の文庫もあって、それなら町に出るバス代とさほど違わない。買って読む、というのは当時の私にはとても贅沢だったが、なればこその喜びだった。
 ショートショートは、文庫の花でもあった。星新一の本は次々に出版され、さらに多くのSF作家がショートショート集を出版した。
 たしかこの時代、ラジオでは「欽ちゃんのドンといってみよう」が放送されていた。江戸川乱歩のラジオドラマ(タイプライターのオリベッティが提供していた)を聞こうとしてチューニングしたら流れてきたこの番組が、投稿というものを教えてくれた気がする。
 ついに欽ドンには一度も投稿しなかったが、自分でショートショートを書こうとすることになる、ひとつのきっかけにはなったのではなかろうか。
 そうして学級新聞でショートショートを書いてみることになるのだ。
 小説家になりたい、と初めて思ったのはたぶん、小学生の頃だった。ヒーローはもちろん、ヒーローを助けるような博士にも、たぶん名探偵というものにも、なれそうにないと気づいてしまった頃、そういうお話を作るような人になりたい、と思ったのではなかろうか。
 けれど、ミステリを書ける人にはなかなかなれない気がした。トリックが作れないし、社会には子どもが理解できていないいろんな事情がありそうだ。一方、星新一のショートショートというのは、すぐにでも書けそうな錯覚を与えてくれるのである(実際にはかなり難しい)。
 かくして私は、大いなる誤解をもって、小説を書く、という行為に接近し始める。
 そうして、そんな私の目の前に現れたのが『奇想天外』という雑誌の創刊号だった。この創刊号、実は第二期と呼ばれる、一度つぶれた雑誌の復活号だったのだが、そんなことは知らない。楢喜八による印象的な表紙のこの一冊は、「今更SFマガジン読んでもついていけない」中学生にはもってこいの一冊だった。(余談だが、この当時に『幻影城』に出会っていたらまた別の展開があったかもしれないなあ、と思う)
 そうして、この『奇想天外』に連載されていたのが「あなたもSF作家になれる わけではない」だった。
 豊田有恒によるこのエッセイ連載は、少なくともSF作家になるためのノウハウではなかった。自分の周辺の思い出話などを語るもの、であったと思う。だが、この連載によって触発されたのは、「こういう仲間に加わりたい」という願いだった。SF作家たち、とりわけ星新一のエピソードがひどく魅力的で、爆発する馬鹿話がまぶしいほどで、強い動機付けになってゆくのである。
 馬鹿話に加わるためにSF作家になりたい、などというのは筋違いにもほどがある。が、たぶん、あこがれなんてそんなものでいいのだ。
 さらにこの第二期『奇想天外』は、新人賞ってやつを始めるのであった。
 ところで、この『奇想天外』には、毎号のように山田正紀とかんべむさしの作品が掲載されていた。このふたりの存在は、星新一世代よりもずっと自分たちに近い年代ということで、素晴らしいあこがれを与えてくれた。なにより、その作品が面白くて、遠い目標ではあったが恐れ多くも目指すべき道を示してくれた。
 さて新人賞である。
 そこに登場したのが新井素子だったのだ。圧倒された。なによりもその年齢に。彼女は同世代、同学年だったか早生まれの私と同じ年の生まれだったかで、つまりたとえれば同じクラスのやつが自分が送った新人賞で受賞してしまった、といった衝撃なのである。
 初めて新人賞というものに送るために書いた、初めて五〇枚を越えるような小説では、とうてい太刀打ちできないような作品。さらには、ちょっとだけ年上の大和真也という人もいる。(いやいや、この新人賞からは山本弘、牧野修、谷甲州と実力者が多数登場している)
 自分の力不足たるや、どうにもならないレベルであったのだ。
 が、若いというのは幸いであって、自分の力が足りていない、とはあまり考えない。むしろ、もうちょっとがんばれば、自分だって届くのではあるまいか、と勘違いする。次なるチャンスを、と思う。
 渋川市の町中を流れる平沢川沿いの道に面して、小さな書店があった。山口書店(ダンディな店主と美人な奥さんだったが、やがて店をたたんでダンスの講師になったという)というその本屋さんと、部活はすぐにドロップアウトしたが高校の図書館(男子校では滅多にいない女性、桜井恵子司書のいる司書室)には入り浸って、あれやこれやとSFやその他の小説を読みふける時期だった。図書館で読んだ本の代表は、先頃亡くなった畑正憲のムツゴロウシリーズだろうか。
 こうした生活の中で、身の程も知る。というか、なにかにつけて安全策を考えてしまう私である。作家にはなれないかもしれない自分というものに向き合って、それでも生きてゆく自分の人生というのも考え始める。
 出した結論が、コンピュータだった。コンピュータを学ぼう。そうすれば、SFを書く勉強にもなる。失敗しても仕事はありそうだ。
 そこで、決して数学は得意ではなかったが、なにより英語が苦手であったということもあって、理数系への進学を決意することになる。
 群馬大学工学部情報工学科。ここが本命。当時国立大学は一期校と二期校があって、国立を二度受験できた。滑り止めと称して私立も受験し、そこに落ち、一期校に落ち、なぜか本命だけ合格した。
 願書を出すのに写真を貼り忘れて郵送し大学まで持参したり、合格発表の日が告知されていた日より一日早い(群大ではよくあることだったらしい)など、あれこれあったのだが思い出になってしまえば勝ち、である。
 そう、私は合格発表をテレビで見た(この頃、群馬テレビでは毎年群馬大学の合格発表を放送していた。その日、私は医学部を受けた友人の発表を見ようとテレビ前で待機していた。工学部の発表がありましたとアナウンサーが告げて、頭が真っ白になったことを覚えている)だけで、現地には行かなかったのだ。
 ところで、入試に自信があったのか、と問われるなら自信をもって「なかった」と答える。とりわけ数学は最低で、下手したら零点だったかも、という惨状だ。
 それでも合格できたのは、工学部なのに国語が入試科目にあったこと。共通一次というのが始まる前年のことで、そうでなければ合格なんてしなかったに違いない。国語だけは満点にはちょっと足りない、という感じだった。数学の一点も国語の一点も同じ一点だったおかげでハードルを越えられたのだった。
 とはいえ、きっとぎりぎりでの合格だったろう。群馬大学の工学部は、その年、十学部のすべてに志願することができた。望む学部から順位をつけて、志望上位が落第でも少し点数を減らして下位の志望学部と競わせてもらえるというシステム。私は、難しい学部から易しい学部にという順位をつけて志望を出した。後で考えると、最初のひとつに落ちたら全部落ちてしまいかねないやり口である。
 ともあれ、なんとか第一志望のコンピュータ、をやれる情報工学科に合格する。
 ここで、情報工学科というのが、ちょっとだけメリットをもたらしてくれることになる。
 あの『奇想天外』新人賞、数えて三回目(第二回の時になにをどうしたのか覚えていない。受験があったので断念したのかもしれない)、ついに予選を通過したのだ。
 自分が書いた小説が、初めて公の場で評価された、ということだから、それは有頂天になった。
 作品は『俺達……』。
 自分自身を複写したロボットと、同様にコピーされたクローンとが宇宙船に乗って、なんらかのミッションをクリアしようとするが、実はその宇宙船にはオリジナルの脳が搭載されており、いわば宇宙船型サイボーグなのだった、というもの。自分自身というのはどういうことなのだろう、と問いかけるような物語だった。なんだか、今になってみればその後の私の行方を暗示しているようだ。
 作品は二次選考も通過、最終選考に進む。すると、選考委員は星新一、小松左京、筒井康隆という、当時のSF作家のトップとも言えるメンバーだ。
 選考の様子は座談会形式で誌面に掲載される。もちろん、私の作品もその俎上に乗せられる。そうして、見事落選。ただ、小松さんが「俺がもらった選外佳作ってやつで掲載したらいいんじゃないか」とまで言ってくれて、望外の喜びであった(掲載はされなかった)。
 なお、この時の受賞者は児島冬樹と中原涼。『奇想天外』ではあまり使われなかったが、後に朝日ソノラマや講談社ティーンズハートという舞台で活躍した。最終選考まで残った作品は、たしかもうひとり、女性がいたような記憶があるのだが、忘れてしまった。後に有名になった人だったりするのかもしれないが。
 さて、この選考会の中で私は、十九歳の情報工学科の学生、という扱いをされている。このことが、作品の評価をちょっと上げて、ちょっと誤解させるという効果を生んだ。あるいは、その誤解のおかげで評価されたのかもしれない。
 まだまだコンピュータといえば、磁気テープのグルグル動いている場面や、せいぜい四角いランプが並んで点滅している、と思われているような時代だった。肩書で実態のない空想に信憑性を与えたわけだ。
 ともかく、変な自信だけはあったが、その自信に見合うだけの評価を受けられていないと考えていた世間知らずでそのくせ醒めた若造が、ちょっとした通行手形みたいなものを手に入れたことになる。
 なにぶん田舎者だ。作家を目指すような仲間は周囲にいなかった。いろんなコンプレックスがあったし、変なところに出て行ってペシャンコになるのも怖かった。
 それがこのことをきっかけに、表舞台に近づいてゆこうとする気力を得られたのだ。
 私にしてみれば、ここからすべてが始まった、のかもしれない。

 ところで、この新人賞の一次選考と、ほぼ同時期に行われた『SFマガジン』の新人賞に草上仁(艸上人)が残っていたことを覚えている。
 山田正紀、かんべむさしの次の世代のSF作家たちが、そろそろ待機していた、ということだろう。
 時代だってぐいぐい変わってゆく。
 まだ二十世紀、まだ昭和、であった。

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