魔法物語 メイリ8
だがルシフスはまだそこにいた。
ィロウチの小さな目から投影された映像に、暗い空に浮かぶ青い竜の姿があった。飛行艇と連動するように飛翔していた小さな目は、竜の姿を捉えることを優先したように静止している。
飛行艇は高度を下げ、すでにルシフスの後方に飛行している。それなのにルシフスは、まるで小さな目があることに気づいているように、その存在を面白がるかのように、同じ場所に留まっている。
どちらも、重なり合うかのようなふたつの世界の、メイリたちが属さぬ方にいる。
けれど小さな目は、ただ見るばかりで、ルシフスに対してなにも伝えることができない。ルシフスも同様に、小さな目に、言葉も意思も伝えられない。どれほど重要なことを伝えたくても、どれほどもどかしく感じようとも、どうすることもできない。
ただし、なにも伝えるべきことがなくても同じだ。
しばしこの膠着状態が続いた。
飛行艇は墜落をまぬがれて体勢を立て直していた。そうと承知しているのかさだかではないが、ふいにルシフスは頭部を動かす。顎で誘うような仕草をする。
小さい目はその様子を確かに捉えた。
するとルシフスは、顔を向けた方に姿勢を整え、小さな目に背を向けて飛翔する。
まるで「来い」と言っているように。
「追え!」
叫んだのはィセグロだった。この世界に現れたィルシフスは、飛び去るのを見送ることしかできなかった。だが今、この竜なら追うことが出来るのだ。
「わかりました」
ィロウチが応じる。そうしてすぐに、ルシフスの後ろ姿を追い始める。
ィオクライが、冷静に現状を把握しようとしている。それは、魔法によって空間というものの性質を検討してきた魔導師にとって、思いがけない好機だった。
現状において、ルシフスは想定外の世界にいる。そもそも自分たちがいた世界と重なりあっているようだが、どうやら別の世界なのだ。その一方だけにルシフスがいて、ィオクライの魔法感覚でだけ感知できている。
錯覚、という言葉がよぎるが、ィオクライたちがいるこの世界に複製が出現し、さらにあの奔流のごとき心象を送り込まれた今となっては、簡単に切り捨てることなどできるはずもない。
そうしてィロウチは、青い竜を見ている世界において、それを追っているのだ。ただし、ィロウチもィオクライも、自ら移動しているわけではない。この場合、追うという行為の意味はどこにあるだろう。つまり、ルシフスと魔法の小さい目は、遠ざかっていると言えるだろうか、という問題が生じるのだ。遠ざかっていないのだとしたら、ルシフスと小さい目の運動、移動に、どのような意味があると言えるだろう。
移動しているという認識だけは、間違いなく存在しているはずなのに。
たとえば小さな目から投影され、この場にもたらしてくれている情景の移り変わり。その認識。ただ映像を見るだけで、移動していると感じてしまうそのこと。
さらには、現実であると感じていた世界、オクライのいた世界において、移動は飛行艇の運動として、別の方向に発生しているのだ。
なにか大切な概念がそこにあると感じる。だが、具体的にどこがどう大切であるかを把握できていないもどかしさもあった。
ルシフスが海を越えてゆく。その悠々たる姿は、美しくあった。暗い空と暗い海に、晴れ晴れとした青い身体を持つ輪郭が強く浮かぶ。見る者を引きつける。
「きれい」
とィメイリがささやいた。
ィセグロが小さく頷く。
ィセグロもまた、自分なりの思索を続けていた。考える対象は、自分自身、とりわけその肉体だった。そもそも、肉体があるとはどういうことなのか。なにがどう「ある」のか。だいたいにおいて、人はその肉体の存在を意識することは少ない。なにか特別なことが起こった時にだけ、たとえば痛みや痒みによって、あるいは触覚によって意識させられるのだ。
だから今、自分の肉体をほとんど意識していない状況について、さほどの違和感を感じないのだろう。けれど、ならば自分に今、肉体があると言えるだろうか。
いや、もし肉体がないのだとしたら、いったい自分はどうやって、見たり感じたりしているのだろうか。
そこに本質的な問題がありそうだとィセグロは感じている。けれど、事態はのんびり考えていられない方向に進んでゆく。
ただ見ているだけで。
青い竜が誘うように飛んで行く。海の上を、波なども静止した板のように見せている。時間が止まっているようにも見える。あるいは、それほどに速く飛んでいるのか。
空は暗く、夜の手前か、それとも明けてゆこうとしているのか。濁った雲が揺らぐ。海と溶け合う。
ふいに境界が生じた。空と海を白い光の線が分ける。それが夜明けであるのか定かでない。あまりにその境界線は平板だった。広がる光に、太陽という核があるようでさえなかった。
竜は光に近づいてゆく。
海と空の境界であったはずなのに、そうした意味さえ失われる。くるりと竜が一回転したら、もうどちらがどちらなのかも分からなくなるだろう。
そもそも、そこは世界なのか。
世界が世界であるとはどういうことなのか。ただ当たり前に見えている。それだけで、そこは世界であると言えるのだろうか。
竜の飛ぶ様子はただ、投影された映像にすぎない。小さな魔法の目が見ているらしき映像を、そういうものを見ているという前提で映し出されて、それを見る。
いや、見るとはどういうことだ。
その映像は、メイリの作り出した魔法の世界に存在する、あるいは存在すらしないかもしれない者たちが、見ていると感じているそのこと。
ならば世界は、感じていることによってのみ存在を許容されているのかもしれない。
そんな概念的なことなどまるでかまわず、ルシフスは飛んで行く。世界を切り裂き、その先に行こうとしているかのようだ。
光の線は進むにつれ太くなる。近づいているという感じに沿うように。
そうして呆気なく到着してしまう。
竜は光の向こうに抜ける。それを追って、小さな目も光の中に飛び込む。
一瞬、強い輝きによって視界は失われる。
だがたちまちのうちにすべての形が甦る。そこは、山と森と湖、川の流れるおだやかな情景。
「振り返れ!」
だれかが叫ぶ。
反射的に小さな目は回転する。
そこに暗い線があった。あらゆる情景を真っ直ぐに分断するような暗い空と海の境界があった。
しかし徐々に線は細くなり、消えてしまうのだ。
その瞬間、ィロウチはひどく心細くなった。
立っていた地面がふいに消えてしまったように、なにもかもが心細く、不確かに変わってしまったようだった。
小さな目が、どこにいるのか分からなくなったから。
けれど、見知らぬ世界の様子は見えていた。なにかがつながっていなければ見えなくなるはずだった。
自分の翼を広げる。
そうすることで、オクライは少し落ち着ける。
ようやく安定してきた意識を、そうやって確認した。
リーラのおかげで飛行艇も墜落をまぬがれて、すぐに対応する必要はなくなっている。
メイリの内側の世界で、面倒なことが起こっているらしいのはおぼろげに察している。だが、全部分かっているわけではない。そこまでの余裕もない。
そちらは、もうひとりの自分に任せることにする。そう割り切った。この場であたふたしたところで出来ることは高が知れている。
ならばどうするのか。
「どうするんだ?」
ふいにホーサグに訊かれた。苦笑が浮かぶ。
「出来ることは限られている。なにもかもが出来るわけではない」
「それで?」
「だが、それを出来るのが自分だけかもしれないなら、無駄に嘆く必要はない。出来ることがある、と考えておく方がいい」
「おれもそう思うが、ならば何ができる」
オクライは翼を閉じる。
「この世界だ。われわれはこの世界にいる。そうして、この世界にしかいないんだ」
「ああ」
「そうなれば、出来ることは限られてくるね」
リーラが会話に参加する。
「そうだ。ひとまずわれわれは、最初の計画を続行するべきだろう。すなわち、仲間を選び、仲間を増やす」
「そうね」
「で、どうする。誰を連れて行く」
「まずは、この世界について知る者を」
「当てはあるかい?」
ホーサグに尋ねられて、オクライは言葉を失った。リーラも含めて、魔導師は横のつながりを苦手とする。即座に思い出す名前もなかった。
とはいえホーサグも、今はいないセグロも、そうした人間関係を持っている感じではない。
ホーサグが、この微妙な沈黙に対して苦笑する。それから、
「おれは、ひとりだけ心当たりがある。実は、セグロからも言われている」
「ああ」
なにかが脳裏にささやいている。
「思い出したようだな」
正確には思い出したわけではないだろうが、ィセグロとィオクライから伝わってくる。
「そんなところだ」
浮かんでいた。ロブロウという、船に乗る者の名前だ。
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