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25歳ゲイ、思い出すことなど

§1

——それは、「プルースト効果」というらしい。

ある匂いを嗅ぐと、その匂いに関連した記憶を思い出すことがある。それをプルースト効果と呼ぶのだそうだ。

プルーストといえば『失われた時を求めて (À la recherche du temps perdu)』である。ただ、「プルーストといえば」なんて偉そうに言っておきながら、実はまともにこの作品に向き合ったことがない(学生時代、図書館で手にとって読みはじめたはいいものの、読みさして隠すように書架に戻した)。何しろ気が遠くなるほど長いのだ。光文社古典新訳文庫だと全14巻組だそうである。うーん。

学生時代、平安文学を講じていた教員が(どういう文脈だったかは最早記憶にないが)『失われた時を求めて』に言及し、曰く「今の時代、あんな長い作品を読んでいる学生なんているんですかね。もしいたとしたら社会不適合者ですよ。」とのこと。

「社会不適合者」とは、文字で書くとはなはだ語弊があるように見えるけれど、現に階段状の教室で講義を聴いていた自分には、その言葉の奥底にはどこか賞賛のかけらが見えたものである(「社会に適合しない」という状態は、場合によっては「迎合しない」という積極的な主義・主張の帰結でもありうる)。残念ながら、自分はその賛辞を得るだけの胆力もなかった。

ともあれ、そんな超・長編小説の冒頭部に、紅茶にマドレーヌを浸して食べた時に鼻に抜ける香りから、昔の思い出が蘇る、という話が出てくるそうだ。この話から、作者プルーストの名を冠して、件の<嗅覚—記憶>効果に「プルースト効果」なる名前がついているとのことである。

§2

翻って、自分の周りには「プルースト効果」が溢れている。

先日、実家に帰ることがあった。実家に帰ると、自分が今よりも少しだけ若かった時代に自分の身の回りにあったもので溢れている。そういった懐かしい品の数々は、否が応でも当時の記憶を呼び覚ましてくるのである。

例えば、実家の自分の部屋にある木机の、左の引き出しを開けると、高校時代に買ったハンドクリームが出てくる。その香りは、学校祭準備で教室の段ボールに塗料を塗りたくっていた、高校時代あの時のまま。石鹸のような、甘く馥郁ふくいくとした香りとともにバチバチと火花を散らしながら記憶同士が繋がっていく。

脳内に立ち現れるのは、白くて陶器みたいなぴかぴかした肌に、それとは対照的に真っ黒な直毛の髪をしていたN君。——N君いま何をしているんだろう。可愛かったなあ。

あるいは、実家のボディソープもそうだ。これまた無神経にもヒトの記憶をズルズル引っ張り出してくる。

実家のボディーソープは、やけにフローラルな香りがする。お世辞にもフローラルな香りが似合うようなイデタチでもない自分が、なぜそんなものを使っていたのか。理由は単純。自分が大学生だったときに妹のボディーソープを勝手に拝借していたためだ。

実家にまだあるということは、今も妹が使い続けているのだろう。ブレない妹が誇らしい。そういうわけで、社会人になった自分のほうでも負けじと、学生時代と同じようにボディソープを無断でちょろまかす。うん、やっぱり同じ香りだ。身体を洗っていると、気になる男と遊びに行く前の、どこかくすぐったい期待感を思い出す。

風呂を出たところにある洗面所の棚には、リステリンのボトルがあった。これで口を漱ぐと、独特のケミカルなにおいが鼻腔を充たすとともに、なんとなく後ろめたい気持ちになる。ほら、やっぱり香りは記憶と結びついているのだ。

§3

ところで、最近アクエリアスを飲むと、一風変わった「プルースト効果」に見舞われるようになってしまった。

件のプルースト効果で思い出すのは、ある男と過ごした夜のことである。

——第一印象として、随分と端正な造形をした男だなという印象をもった。ガラス玉のような両目は大きく綺麗に開き、色白の肌はさらりと肌理きめが整っている。笑うと甘い顔をしているのがよくわかる。背も結構高い。それこそ、アクエリアスみたいに淡白で清潔な男だった。ここでは、彼をQ君とする(当然ながら、QはAquariusアクエリアスのQから採っている)。

「何歳でしたっけ?」
 Q君の敬語が初リアルのムズムズした他所よそしさを形にしている。
「25歳です。今年で26になります。」
「あ、歳近い。俺は26で今年が27。——」
 敬語をつけてビジネスライクに話してみたり、あるいは敬語を外して互いの距離を詰めてみたり。ゲイのリアルも結構忙しい。でも、こうすることで互いの距離感を測っているのだ。
 敬語は別に相手への「敬意」を表しているわけではない。相手との心理的距離感を示しているのだ(だからこそ、「慇懃無礼いんぎんぶれい」なんていうヒトの機微をよく言い表した言葉もある)。武術のように間合いを探りながら、会話を続ける。
「もっと若く見える。」
 ゲイ業界では最頻出の社交辞令である。これだけ使い古されたクリシェなど、もはや何も言っていないのと変わらない。
「そんなことないです。結構いってるんですよ。」
 そして、それに乗っかる己の浅薄さ。
「年上の人間の前でそんなこと言わないでよ」
 ああ、この人は目を閉じながら笑うんだな。

「キスの味はレモンの味」なんていう言葉がある。小生、キスにハマった時期もあり(今はそんなに好きではない)、いっぱしのゲイとして年相応にそれなりの人数の男とのキスを愉しんだが、レモン味の男なんてついぞいなかった。自分に言わせれば、あれは嘘だと思う。本当のところよくいるのは海苔の味がする男である。唾液の甘さと、ちょっとの苦味。

Q君のキスは何故だか妙に甘かった。気になって尋ねてみると、「アクエリアス飲んでたからかな」とのこと。いま思い返せば、この発言こそがプルースト効果の誘因だった。

§4

——もう少しだけ、歳について話したい。自分の歳を実感する場面は枚挙にいとまがないが、ここではその中でも「毛が気になる」ということを挙げてみたい。人は歳を重ねていくと、あちこち余計なところに毛が生えるのだ。例えば、このごろ自分が気になっているのは髭だ。学生時代よりも明らかに増えた。それも顔の余白に。髭が似合う顔ではないので、できれば髭は増やしたくない。

Q君は自分の一個上だったので、実質「タメ」みたいなもんである。しかし、Q君に一日の長を認めた点が一つだけあった。それは、とりもなおさず「毛」——それも「乳毛ちちげ」である。

顔と同じく、つやつやした素肌に、行儀良く居並んだ乳首がふたつ。その左乳首に一本のひょろ長い「毛」が生えていたのだ。濡れた絹のような肌になじまないヒョロ毛が、どうにも気になって気になって仕方がない。

そんな自分は一体何を思ったのか、ぴろぴろ主張している一本の乳毛を、上下の前歯で噛んでひと思いにひっこ抜いたのだ

滑らかな肌に野放図に伸びる無駄毛が許せなかったのかもしれない。否、無駄かどうかなんてわからない。もしかしたらQ君は波平のごとく後生大事にその一本桜を育て上げていたかもしれないのだ。

さて、目があった。一瞬の沈黙。彼の顔に浮かぶのは「困惑」そのもの。

ただ見逃せばいいものを、自分でもなんでそんなことをしたのか分からない。「マナー違反を指摘する者が最も不躾だ」なんて見方もあるが、だとしたら自分以上の無礼者などいない。毛を引っこ抜くというのは、逆説的に毛の存在を明示することであるから。

ともすれば傷害罪が成立しちゃうかもしれない。どうしよう。現行犯だったらパンツ一丁でお縄。頭がくらくらするほどの己の愚かさ。

第二十七章 傷害の罪
(傷害)
第二百四条 人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。

「刑法」e-Gov法令検索

ああ、手づから2回目リアルの芽を摘んでしまった。あたかも乳毛を摘むかのごとく。もうやけっぱちである。


そういうわけで、最近自分はアクエリアスを口に含むと、鼻に通る香りから、亭々と空を指す一本の乳毛を思い出すのだ。パブロフの犬も閉口の頭脳回路である。

この記事は懺悔として書かれたものです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

さいとう


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