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第4話 300万円 | Saito Daichi

 空手を辞めた後。

 様々なジャンルの映画やゲームのシナリオにできるだけ触れることを意識しました。

 今の内にインプットしなければ、原体験として記憶できない——そんな焦りもあったからです。

 自分にとって参考にするべき作品は、後でそこから選別すれば良い。

 まずは世界中のクリエイターが心血を注いだ、膨大な作品群に目を通す義務がある。

 ただでさえ毎年、毎月、下手をすれば毎日新しい作品が創られています。

 特にプレイステーション2が発売され、グラフィックやシナリオ、音楽までも映画に引けを取らなくなりました。

 世はまさにサブカル黎明期でした。

 既存の作品——特に「良い」と言われているものは早く観なければならない。

 当時は謎の使命感のようなものに燃えていました。

 絵も描いたことはありましたが、あくまで模写であり、時間が掛かることもあって熱中できませんでした。

 その内、DVDやBDも開発され、映画にもIMAXが導入されます。

 IMAX技術は、最近では『インセプション』、『TENET』、『ダークナイト』で有名なクリストファー・ノーラン監督が多用していることで有名です。

 映画は基本的に35mmフィルムでした。

 70mmフィルムの巨大高性能高品質カメラでスクリーンに映像革命を起こしたのがIMAXです。

 ゲームにも本格的にモーションキャプチャー(役者に特殊なスーツを着用させ、身体の動きを映像に直接取り込む技法)が取り入られていき、追い付くのに必死でした。

 映画やゲームは、なるべく製作過程が知れる特典映像付きのソフトを買ったり、借りたりしました。

 今のようにネット上の記事や動画で深く解説しているサイトやページはなく、専門用語はそこで覚えるしかありません。

 そんな姿を見かねた父に、夏休みは図書館で勉強するように軟禁されます。

 その環境を生かし、隙を見ては、休憩と称して図書館にある手塚治虫氏の作品を無料で読み漁りました。

『どろろ』などを見て、「五体満足で親もいるのだから、頑張ろう」と思いました。

 特に『ブラック・ジャック』は印象に残っています。

 医学的に正しい、正しくないかは分からなかったし、どうでも良かったのです。

 漫画の中のリアルな人間模様に惹かれました。

 周囲は遊び惚けているだけだと考え、私を何とか社会のレールに乗せようとしました。

 私は夜中に窓から抜け出したり、二階の屋根から飛んで、着地して受け身をとり、友人宅に遊びに行ったりして、自分の知らないコンテンツを教えてもらいました。

 当たり前ですが、私を縛る環境は余計に悪化しました。

 私はついに家を飛び出しました。

 当時、学校でバク宙の練習をしていた際、足の腓骨を痛めてギプスを付けていました。

 が、それを自力で外してしまいました。

 そして、ブックオフであらゆる本を読み込んでいる最中に、捕獲されました。

 両親も息子の執念のインプット作業に謎の信念を感じたのか、それとも諦めの境地に達したのか、それ以来、縛り付けを緩めました。

 その生活の流れは、高校生になると少し落ち着きました。

 ガソリンスタンドや郵便局などでバイトし、デスクトップPCを購入します。

 動作を軽くするために、Windows XPに関する本を読んで、いらないアプリを徹底的に削除、機能停止させ、古い格安メモリを買って増設しました。

 しかし、安いパソコンだったので大して高速化はしません。

 そしてWordソフトを導入し、小説執筆を始めました。

 中高の義務的な勉強には興味が湧かず、資格取得に精を出します。

 機械科に入り、酸素とアセチレンの混合ガスで行うガス溶接、危険物、計算技術検定、普通自動車免許などを取得していました。

 授業は製図や基本的なパソコン操作、機械加工や旋盤などがメインです。

 部活は所属が絶対だったので、中高一貫してテニス部に籍を置いていました。

 電車通学の帰りに英語の塾に通い、家では小説を書く生活です。

 とある出版社の新人賞募集ページで、「小説大賞にノミネートされれば300万円を進呈」という謳い文句に目が釘付けになります。

 早く大人になりたかった。

 そして、お金が欲しかった。

 お金があれば、もっと大きな作品が創れるから。

 お小遣いというものをほとんど貰ったことがなかったのも原因の一つかもしれません。

 学校から駅まで毎日走りました。

 田舎だったので、電車は1時間に1本しかありません。

 次を逃せば、その分、小説が書けなくなるからです。

 帰りのHRの後、電車に飛び乗りました。

 今考えれば、頭の上から「300万円」というニンジンをぶら下げられた馬のようになっていました。

 人に切符を見せて乗る駅なので、suicaどころか切符の投入口もありません。

 そもそも改札口もありません。

 切符を買う時間も計算に入れなければいけません。

 iphoneは出ていましたが、まだスマホは普及していませんでした。

 私はまだガラケーであり、調べものはパソコン派でした。

 なぜならキーボードの方が速いからです。

 大賞に応募する前、文体をわざと変えて、いくつかの別の作品をインターネット上に投稿していました。

 評価が良かった作品の文体を採用するためです。

 当時は今のように、小説投稿サイトから映像作品に繋がるようなシステムは確立されていませんでした。

 それどころか、出版社に拾われるという話もありませんでした。

 しかし、ビジネスのチャンスを感じていました。

 そのため様々な投稿サイトにアクセスし、投稿していました。

 そんな中、プレイステーション3が発表されます。

 あまりの映像美に、全身が固まりました。

 これなら映画よりゲームを創った方が早いのではないか。

 そんな思いすら抱きました。

 その原因の一つに、洋画や邦画の過渡期が落ち着いたのもあります。

 私自身も、一時的に映画離れしてしまいました。

 2000年前後はCGやカメラの性能が飛躍的に進化し、挑戦的な作品が乱立します。

「マトリックス」三部作
「ターミネーター2」
「ロード・オブ・ザ・リング」三部作
「トイ・ストーリー」
「トゥルー・ライズ」
「ハムナプトラ」
「メイ・イン・ブラック」
「少林サッカー」
「パイレーツ・オブ・カリビアン」
「ハリー・ポッター」
「デイ・アフター・トゥモロー」
「アイ・ロボット」
「ヴァン・ヘルシング」
「ブレイド」
「チャーリーとチョコレート工場」
「スターウォーズ」EP1~3
「トランスフォーマー」
「リターナー」
「ジュブナイル」
「閉ざされた森」
「ラッキーナンバーセブン」
「妖怪大戦争」
「学校の怪談」

 今挙げられるタイトルだけでもこれだけあります。

 それに加えて、PS3の『メタルギアソリッド4』、『ニーア・レプリカント』、『バイオハザード5』、『デビルメイクライ4』、『レジスタンス』など、初期にも関わらず印象に残るタイトルも増えていきました。

 そんな時、「GoPro」と呼ばれる小型ビデオカメラの存在に気付きます。

 ――これは一人で映画が撮れるぞ!

 最初は興奮しましたが、やはり撮りたい題材の規模が大き過ぎて、実写は諦めます。

 うっすらと、映像化はCGかアニメーションしかないと思い始めました。

 しかし、アニメは観ないし、製作過程の勉強もしていませんでした。

 また、当時は動画編集ソフトも高額でした。

 Windows ムービーメーカーでは効率は悪すぎます(YouTube『B/J 空挺基本降下課程』はムービーメーカーで編集。他の動画はFimoraで製作)

 ただ、そうした技術革新や新進気鋭の作品に後押しされる形で、将来に希望を抱いていました。

 私自身もそれらに良い刺激をもらい、字数を規定通りに調整し、推敲を繰り返し、原稿をプリンターで出力し、ドキドキしながら出版社に作品を送りました。

 内容はワームホール理論に基づいたSFものでした。

 物理学に詳しいわけではありません。

 ただ宇宙や並行世界という存在にはロマンを感じました。

 とにかく、「エキゾチック物質」が確保できればワームホールが作れる、という内容だったと思います。

 理論物理学者ポール・デイヴィス著『タイムマシンをつくろう!』に影響を受けていました。

 一次選考をネットで発表するらしい――

 数カ月待った発表日が迫り、高校の視聴覚室で「プロジェクトX」を観ている時もワクワクしていました。

 その日は2011年3月11日。

 私の高校は福島県から50km圏内の位置にありました。

 その日、私は携帯電話を実家に忘れていました。

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