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"責任転嫁の連続!?" 「表現の不自由展・その後」の問題点⑥ ~あいちトリエンナーレ~

「『表現の不自由展・その後』に関する調査報告書」に関して、問題点や疑問に思った事等を述べたいと思います。
愛知県が組織したあいちトリエンナーレあり方検討委員会が作成している所為か、やけに「表現の不自由展・その後」を擁護しようとし、かなりの無理が出ている様に思われます。

なお、出典は基本的に「『表現の不自由展・その後』に関する調査報告書」に依り、同報告書から引用する際は「(報告書p〇)」と表記します。

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あいちトリエンナーレのあり方検討委員会とは…
あいちトリエンナーレについて、県及び実行委員会等の関係団体における企画、準備、実行の体制、公金を使った芸術作品の展示、芸術活動への支援、開催時の危機管理体制、対外コミュニケーション等のあり方を、客観的・専門的見地から総合的に検証するとともに、今後の類似イベントの充実・改善に向けた意見を聴取し、あいちトリエンナーレ及び今後の類似イベントの開催に関する改善策をとりまとめ、その結果を知事に提言するために設置されたものです。(愛知県HPより)



前回 ("問題点④" "問題点⑤") のまとめ

「報告書」の全体所見3. 1)について以下の観点から検証しています。

①「表現の不自由展・その後」自体に本当に問題はなかったのか?
②批判したのは本当に「美術に関心のない人々」なのか?
③「個人の思想・心情を訴えるために利用した」のは誰か?

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<「報告書」の全体所見3. 1)の趣旨>
「表現の不自由展・その後」に係る問題は
・作品の意図、企画者の意図と無関係であり
・美術に関心のない人々によるものであり
・個人の思想・心情を訴えるために利用された結果である

「表現の不自由展・その後」は全く悪くない
だが、愚かな大衆(=「反知性主義」≒非理性的、感情論者)が高邁な思想を理解できずに騒いだがために問題化した。
社会に愚かな大衆が増えたことは大変嘆かわしいことである。



…………大変 アリガタイオコトバ だと思います。

前々回 ("問題点④") 、
" ①「表現の不自由展・その後」自体に本当に問題はなかったのか? "
について検証し、その結果、

「表現の不自由展・その後」自体に数えきれない問題があり、まさに問題になるべくして問題になったと言うべきである。
市民に責任転嫁するが如き発言は、本当に不誠実且つ無責任な放言でしかない。

という結論に至りました。

続いて前回 ("問題点⑤") 、
" ②批判したのは本当に「美術に関心のない人々」なのか? "
について検証し、その結果、

「表現の不自由展・その後」を批判していたのは決して「美術に関心のない人々」ではなかったが、「表現の不自由展・その後」正当化のために、
批判する人々に対して、こともあろうに「反知性的」というレッテルを貼り、責任転嫁を行ったと言う他ない。
こうした姿勢は、最低且つ不誠実且つ無責任且つ恥知らずでしかない。

という結論に至りました。

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検証内容の詳細は "問題点④" 及び "問題点⑤" をご覧ください。
(クリックで当該記事にジャンプします)


引き続き、③の検証を行っていこうと思います。


1.アリガタイオコトバ に関する検証③

③「個人の思想・心情を訴えるために利用した」のは誰か?

前回と内容が重複しますが、
全体所見3. 1)は根拠データすらなく、事実関係すら無視して「表現の不自由展・その後」の自己正当化を図っているように見受けられます。

当然、これまで同様に「個人の思想・心情を訴えるために利用した」という客観的データも一切示されていません。

何度でも主張しますが、
無根拠に芸術鑑賞者及び批判者(=市民)に責任転嫁するという最低且つ非常識且つ不誠実且つ無責任な姿勢であると言わざるを得ません。

今回は "「思想・心情を訴えるために利用した」のは誰か? " について、
"「誰」「何」「利用」し、それは「誰の責任」なのか" 事実を整理しながら検証したいと思います。


1.-(1) 「誰」が「何」を利用したのか?

〇利用したのは「誰」か?

「報告書」全体所見3. 1)では、"彼ら個人の思想・心情を訴えるために利用され" という表現が使用されており、
指示代名詞 (『彼ら』) を辿ると、"美術に関心のない人々" に至ることがわかります。

<全体所見3. 1)の一部抜粋>
来場者が写真を投稿することで作品が企画者の意図とは切り離されて注目を集める結果を招いた(中略)。こうした個人の解釈によるSNS投稿は、さらに作品の意図とは無関係な、美術に関心のない人々を巻き込み、彼ら個人の思想・心情を訴えるために利用され、いわゆる「炎上」を招くことにつながったと言えよう。(報告書p5)


直前の内容と重複してしまいますが、
"美術に関心のない人々" や "いわゆる「反知性主義」" に関しては、既に ”問題点④” 及び ”問題点⑤” で考察し、

あいちトリエンナーレに参加した人々も含めた「美術に関心のある人々」のうち、「表現の不自由展・その後」を批判している人々に対して、
「表現の不自由展・その後」を正当化するために、無根拠且つ一方的に「美術に関心がない」、「反知性的」というレッテルを貼り、
不誠実且つ無責任且つ恥知らずにも責任転嫁を行った

結果であると述べております。

**
詳細は "問題点④" 及び "問題点⑤" をご覧ください。
(クリックで当該記事にジャンプします)


つまり、「利用した者」とは、
県が「報告書」で「表現の不自由展・その後」を正当化するために用意した "虚像*" であるということですね。

*県の最低且つ不誠実且つ無責任且つ恥知らずな姿勢によって、責任を押し付けられた芸術鑑賞者達(=市民) ということでもあります。

よって、これまで考察してきた通り、
「利用した(とされている)者」(≒市民、参加者、批判者) には、問題も責任もありません。
責任があるのは、あいちトリエンナーレ実行委員会(愛知県)です。


そのため本節の主題、"利用したのは「誰」か?" については、

「報告書」が用意した責任転嫁用の "虚像" であり、特定者を指すものではない。
そして当然、問題の原因でも責任を負うべき存在でもない。

という結論が導出されますね。


従って、次に "利用された「もの」" に問題や責任があるのかどうか検討したいと思います。


〇利用されたのは「何」か?

「報告書」全体所見3. 1)では、 "思想・心情を訴えるために利用され" という表現が使用されており、

その主語は、"『こうした』個人の解釈によるSNS投稿" であり、
指示代名詞 (『こうした』) を辿ると、"来場者が投稿した写真" に至ることがわかります。
即ち、両者はイコール関係だと考えられます。

<全体所見3. 1)の一部抜粋>
来場者が写真を投稿することで作品が企画者の意図とは切り離されて注目を集める結果を招いた(中略)。こうした個人の解釈によるSNS投稿は、さらに作品の意図とは無関係な、美術に関心のない人々を巻き込み、彼ら個人の思想・心情を訴えるために利用され、いわゆる「炎上」を招くことにつながったと言えよう。(報告書p5)

つまり、
"『個人の思想・心情を訴えるために』利用された" のは、"来場者が自身の解釈によりSNSに投稿した写真" である
と「報告書」では述べられていることになります。


従って、
"利用されたのは「何」か? " という本節の主題に対して、「報告書」は、
"来場者が自身の解釈によりSNSに投稿した写真" であると結論しています。


では、責任関係を明確にするために、"利用された「もの」"、
つまり "来場者が自身の解釈によりSNSに投稿した写真" には、なにがしかの問題があるのか、あるとしたら誰の責任なのかについて検証してみましょう。

**
"来場者が自身の解釈によりSNSに投稿した写真" に何か問題があるかのように扱っているのは、他でもない「報告書」が原因です。

全体所見3. 1)にて、わざわざ
〇"目的が明確な「展示」を一般の人々から隔離することが不可能となった"
原因は "来場者の解釈によるSNS写真投稿"
〇"来場者が写真を投稿することで作品が企画者の意図とは切り離されて注目を集める結果を招いた"
原因は "来場者の解釈によるSNS写真投稿"
〇”いうなれば「美術館の壁が崩壊」する結果
原因は "来場者の解釈によるSNS写真投稿"
と記しており、

社会の二極化」とやらにより、「反知性主義」(≒非理性的。感情論者)が蔓延った結果として、
"来場者の解釈によるSNS写真投稿" によって、問題が引き起こされた ("問題を予期できなかった" 又は "拡大(「炎上」)を許してしまった") と述べています。

つまり、問題の原因 "来場者の解釈によるSNS写真投稿" であると結論しているのです。
その時点で、「報告書」は "来場者の解釈によるSNS写真投稿には問題がなかった" という趣旨ではないことは明白です。
<全体所見3. 1)の一部抜粋>
〇拡大するネット環境によって社会の二極化分断の進行が露わになるとともに、いわゆる「反知性主義」の存在が可視化されたのではないか。

 あいちトリエンナーレが発足した当時とは比べものにならないほどにインターネットとSNSが普及した。これによって、目的が明確な「展示」を一般の人々から隔離することが不可能となったと言えよう。即ち、来場者が写真を投稿することで作品が企画者の意図とは切り離されて注目を集める結果を招いた(いうなれば「美術館の壁が崩壊」する結果)。こうした個人の解釈によるSNS投稿は、さらに作品の意図とは無関係な、美術に関心のない人々を巻き込み、彼ら個人の思想・心情を訴えるために利用され、いわゆる「炎上」を招くことにつながったと言えよう。
(中略) はからずも、日本社会の分断格差が進行した結果とも言え、その可視化につながったと言える。(報告書p5)


先ず第一に、
至極当然のことですが「写真」は、それ自身は「解釈」を持ちません
基本的に「景色を切り取ったもの」 でしかないからです(「解釈」するのは、それを見る人間です)。

そして第二に、
これも極めて当然のことですが、「」を「どのように」「感じる」か、「解釈する」かは、個人の自由です。

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"思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。" (所謂、「思想信条の自由」) (日本国憲法第19条) を仰々しく引き合いに出さずとも、

「モナ・リザを見た人間は、感動しなくてはならない」とか、「コロンブスの銅像を見た人間は、必ずや『黒人差別』の歴史に怒りを覚えねばならない(そして、その銅像を引きずり倒さねばならない (BLM運動))」などと、
「感想」や「解釈」を強制されることはあってはならないということは当然でしょう。
強制があれば、それこそ「個人の精神的自由の侵害」です。

「表現の不自由展・その後」に係る問題を、よく "「表現の自由」の問題である" と主張なされる方を拝見しますが、
"基本的に憲法上の「表現の自由」の問題ではない" ということは、「報告書 別冊資料2p1、10」でも述べられています
(しかし、愛知県知事は "憲法違反" 、"「表現の自由」の侵害になる"、等の妥当しない表現で責任転嫁しておられました。大変不誠実な姿勢であると考えます。)

一方、万一「感想」や「解釈」の強制があれば、憲法上の「思想信条の自由」の問題となるでしょう。


つまり、
「表現の不自由展・その後」来場者が、作品群に対して何を感じどのように解釈するかは完全に個人の自由であり、
その自由の下に写真を撮り、SNSに投稿したとしても、基本的には* 問題になるはずがないのです。

* "写真を撮り、SNSに投稿する" といった「行動」を伴う場合には、「『内心』の自由」の範疇を超えますので、
何らかの違反行為になったり、他者の権利を侵害したりする恐れがある場合(例:肖像権・著作権の侵害)等には、規制を受ける余地はあります
**
即ち、"「内心」でどう思っていようと" 行動に現せば、それは批判の対象になりうるということでもあります。
"『芸術』であり、『表現の自由』であるから、どのような行為も自由" ということはなく
発表物に対して「批判する自由」もありますし、公的な性質を帯びているのであれば「説明責任」も生じます。
作品の外形として、誤解、問題を招く解釈がありうる場合に、
"「作者の意図(=内心)は○○だった」から作品の展示は問題ない" と主張するのは、"説明責任を果たした" とは言いません(単なる自己正当化です)。
(『侮辱する意図はなかった』と本人が主張すれば如何なる表現、発言も認められるならば、そもそも名誉棄損罪、侮辱罪等は存在しません。内心がどうである(と主張している)か、ではなく、外形的にどうであるかが問われているのです)

必要なのは、"どう解釈され得たか" ”予期し得る事柄ではなかったのか” という視点、そして、"如何に誤解を防いだか(防ごうとしたか) " です。
その点で、 「表現の不自由展・その後」には大きな問題と責任があると言わざるを得ないでしょう。


ここまでの検証で、
〇「写真」そのものに問題はない(写真自体には解釈が存在しないから)
〇来場者個人の「感想」や「解釈」にも問題はない(内心の自由があるから)ことは明らかとなりました。


では、他に何か問題が存在する余地はあるでしょうか?
考えられる可能性は、以下の2つです。
① 来場者の写真の撮り方に問題があった
② 
来場者が "写真を撮る"、"SNSに投稿する" こと自体に問題があった

「誰」の責任であったかも含め、順に検証していきたいと思います。


1.-(2) 「誰」の責任なのか?

① "来場者の写真の撮り方に問題があった" のか?

繰り返しになってしまいますが、
"写真そのもの" は基本的に「景色の切り取り」であり、それ自身には解釈は存在せず、問題とはなり得ません。

しかし、
"写真が「切り取る範囲」によっては、見る側に「解釈」が生まれる余地があった" という可能性は考えられます

"切り取り報道" などと批判される事例があるように、「切り取り方」によっては、問題を生む可能性は存在します。
『芸術作品』も全体で一つの作品ですから、一部のみを切り取る「写真」というものは馴染まないのでしょうか?

実は
本来、原則的に国際芸術展というものは、写真撮影及びSNS投稿は自由なものなのです。

国際芸術展は原則として写真撮影とSNS投稿は自由という国際慣習がある(報告書p72  6検証結果 (1)-29)

よって、"来場者がどのように写真を撮り、SNSに投稿しようとも" 本来的には問題はない筈なのです。


故に、
写真撮影とSNS投稿は自由であるという国際慣習に鑑みて、"来場者の写真の撮り方に問題があった" ということはない
と結論できます。



② 
来場者が "写真を撮る"、"SNSに投稿する" こと自体に問題があった?

「写真」そのものにも問題はなく、来場者個人の「感想」や「解釈」にも問題はなく、来場者個人の写真の撮り方にも問題はない
のであれば、

何故、
"来場者が自身の解釈によりSNSに投稿した写真" が「報告書」全体所見3. 1)に於いて、
あたかも「表現の不自由展・その後」に係る問題の原因と思われるような記載のされ方をしているのでしょうか?


実は
、「表現の不自由展・その後」に於いては、国際慣習に反しSNSへの写真投稿が禁止されていました。
(写真撮影は禁止なし。禁止の理由は、『安全上の危惧』とされています)

今回は安全上の危惧から、(中略) 写真撮影は認めSNS写真投稿禁止の掲示を行うこととした(報告書p72  6検証結果 (1) Ⅳ-29)


そもそもSNS投稿を禁止されていたのであれば、
"来場者が自身の解釈によりSNSに投稿した写真" が、批判や問題の原因として指摘されることも、多少* は理解できなくはありません。

*
但し、禁止を示すパネルがわかりにくい、目に止まりにくいといった致命的な問題がありました。
そのことにより、「展示を見たくない人」にまで「展示を見させてしまう」という問題まで生じています。

知事擁護派からは、「見たくなければ見なければよかった」という主張も聞こえてきますが、
運営上の怠慢により「見たくもない人に見させた」ことの責任についてはどのようにお考えなのか、興味深いところです。

ブース設営の不備や、
「表現の不自由展・その後」に大変デリケートなテーマを扱った作品も多い中で、鑑賞に対する工夫を凝らす必要があり、予めそのことを自覚していたにも関わらず、予算的、人員的、時間的要因等の理由でそれを怠った
という
偏に、運営側の問題でしかありません
※「(" ")」は引用ではなく、私個人による注釈です

<「報告書」 6検証結果 に於ける問題点の指摘等の一部抜粋>
・("注意書きの") パネルが5枚もあり、注意書きがL字型のパネル2枚のそれぞれに分散しており、わかりにくかった
・また、パネルの文字はあまり大きくなかった。(中略) 展示の趣旨が一定、(”パネルによって”) 説明されているものの、来場者が必ず立ち止まって、それをじっくり読むとは考えにくい状況にあった。
・結果的に来場者の中には、展示の趣旨について十分に理解しないまま、いきなり("『表現の不自由展・その後』のブースに") 入って作品を見て驚き、そして批判された方々が一定数いた(来場者アンケートより)。

・表現の自由についてのパネル討論やセミナー、ディスカッション等の企画、イベントの併催も不可欠
なお、ガイドツアーによる鑑賞を前提とする等の工夫若干予定されていたが、それを大前提とし予算人員を配置することはされなかった
(報告書p61 6検証結果 (1) Ⅲ-19)


しかし、ここで注意しなければならないのは
SNS写真投稿禁止の規定は、他ならぬ津田芸術監督自らの手で破られているという事実です。

※「(" ")」は引用ではなく、私個人による注釈です

<「報告書」 6検証結果 に於ける問題点の指摘等の一部抜粋>
・(前略) 会場には作品や資料の画像・動画をSNSに投稿することを禁止する表示を出した。
・しかし、結果的に出品作家全員に徹底されなかった。例えば、Chim↑Pom ("東日本大震災後をテーマとした映像作品『気合い100連発』作者") は、芸術監督 ("津田芸術監督") に掛け合ったうえで、「作家発ならよい」という承認を得た。そこで Chim↑Pom は、7月30日に「SNS推奨」のマークを自身の作品のキャプションに貼付した。
それを見て安世鴻 ("所謂『従軍慰安婦』の写真展示者") 、キム・ソギョン/キム・ウンソン夫妻 ("『平和の少女像』(所謂『慰安婦像』)作者") も7月31日に「SNS推奨」のマークを自身の作品のキャプションに貼付した。
(報告書p62  6検証結果 (1) Ⅲ-20)

当たり前の話ですが、
「SNS推奨」とされているのですから、来場者が写真を撮り、それをSNSに投稿することは、何ら問題はありません

"問題意識が運営内部及び作家全員に徹底されていなかったこと" も
"津田芸術監督独断で、トラブル防止のための禁止事項を解除したこと" も
来場者には何ら責任のないことです。


故に、
SNS投稿禁止という決まりは、偏に運営側の不備と問題行動によって自ら無効化していたという事実に鑑みて、
来場者が "写真を撮る"、"SNSに投稿する" ことに問題はなかった
と結論できます。



③ 「表現の不自由展・その後」に係る問題は、「誰」の責任だったのか?

上記①及び②より、
"「来場者の行動に問題や責任がある」ということはない" という結論が導出されました。

しかし、
本稿 1.-(1) にて検証したように、「報告書」全体所見3. 1)は、
"来場者が自身の解釈によりSNSに投稿した写真" こそが、「表現の不自由展・その後」に係る問題の原因であったと述べています。


―来場者に責任はない。では一体誰の責任なのか?

当然、
問題を予見していながら、十分な対策を怠り、
また現場に於いて、僅かに存在した対策を自ら無効化し、"来場者が自身の解釈によりSNSに写真を投稿すること" を許した
という
運営側(愛知県)の責任以外の何物でもありません。

**
SNS禁止を独断で解除したのは津田芸術監督ですが、その津田芸術監督の独断専行を認める形の運営体制をとり、補助や監視の役割を果たす者の配置を怠ったのはあいちトリエンナーレ実行委員会(愛知県)です。
結局、運営側(愛知県)の責任でしかないのです(津田芸術監督個人に全く責任がないと考えているという意味では断じてありません)。


「報告書」全体所見3. 1)に於いて、「表現の不自由展・その後」に係る問題は
一見、 "来場者" に責任があるかのように記載されているものの、

問題の事実関係を整理し、責任の所在を確認すれば、上記の通り、
運営側(愛知県)の責任でしかなかったということは明白です


つまり、ここでもまた、「報告書」は
来場者(≒市民) に対し、最低且つ不誠実且つ無責任且つ恥知らず且つ厚顔無恥にも、責任転嫁を行っていると言う他ありません。


2.今回の結論(問題の "本当の原因" とは)

さて、私はこれまでの検証、分析(問題点①~⑤)でも、
「報告書」の随所に見られる、最低且つ不誠実且つ無責任且つ恥知らず且つ厚顔無恥な姿勢について批判してきました。

そして、今回、またしても「報告書」の不誠実さが明らかとなりました。


つまり、「報告書」全体所見3. 1)について検証した "問題点④"、"問題点⑤" 及び本稿により、

〇「報告書」全体所見3. 1)に述べられている事柄は、
その悉くが、県の責任を参加者(≒市民) に責任転嫁し、「表現の不自由展・その後」に係る問題について、自己正当化を図っているに過ぎないと言わざるを得ない。

しかも、自己正当化に際し、批判者(≒参加者、市民)に対して、無根拠に「美術に関心がない人々」、「反知性主義」等と大変下劣なレッテルを貼り、著しく冒涜している。

そうした責任転嫁と自己正当化を繰り返す「報告書」の姿勢は、最低且つ不誠実且つ無責任且つ恥知らず且つ厚顔無恥である

と言う他ない
という結論が導出されるに至りました。


**
私は今回、「報告書」のこの内容を読むに至り、愛知県(トリエンナーレ実行委員会)への信頼を失いました

客観的データも根拠も論理性も無く、ただ只管、責任転嫁と自己正当化を繰り返し、詭弁 (以下のナニカ) しか述べていないからです。
しかも言うに事欠いて、市民に下劣なレッテル貼りまでして貶めています。

この「報告書」を読んで、
「県は立派に説明責任を果たした」と思う方が果たしておられるのか、私にはわかりません。



また時間のある時に、続きの記事を作っていきたいと思います。
事実誤認、誤り、不足等ございましたら、ご指摘いただければ幸甚です。追加、修正させていただきたく思います。