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"まさかの市民への責任転嫁!?" 「表現の不自由展・その後」の問題点④ ~あいちトリエンナーレ~

「『表現の不自由展・その後』に関する調査報告書」に関して、問題点や疑問に思った事等を述べたいと思います。
愛知県が組織したあいちトリエンナーレあり方検討委員会が作成している所為か、やけに「表現の不自由展・その後」を擁護しようとし、無理が出ている様に思われます。

なお、出典は基本的に「『表現の不自由展・その後』に関する調査報告書」に依り、同報告書から引用する際は「(報告書p〇)」と表記します。

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あいちトリエンナーレのあり方検討委員会とは…
あいちトリエンナーレについて、県及び実行委員会等の関係団体における企画、準備、実行の体制、公金を使った芸術作品の展示、芸術活動への支援、開催時の危機管理体制、対外コミュニケーション等のあり方を、客観的・専門的見地から総合的に検証するとともに、今後の類似イベントの充実・改善に向けた意見を聴取し、あいちトリエンナーレ及び今後の類似イベントの開催に関する改善策をとりまとめ、その結果を知事に提言するために設置されたものです。(愛知県HPより)


これまでのまとめ

前回、前々回で、"「表現の不自由展・その後」に関する調査報告書" の全体所見1.及び2.の検証を行いました。

その結果、
全体所見2.に於いて、アンケート結果が「表現の不自由展・その後」の再開に係る肯定的根拠とされているにも関わらず、一切言及されていない他の設問の結果を分析すると、


〇「表現の不自由展・その後」は、その悪評価が直接あいちトリエンナーレ全体の悪評価に繋がってしまったと言える。
そのため、あいちトリエンナーレ2019の評価は、あいちトリエンナーレ2016、2013と比べ、突出して悪い結果となったと言える。

という結論が導出され、結果的に

〇全体所見1.及び2.が矛盾、又は無意味化してしまう


ことが判明しました。
アンケート結果が「表現の不自由展・その後」を肯定する結果のみを抽出するという恣意的な利用がされており、
"「表現の不自由展・その後」に関する調査報告書" の不誠実さが明らかになる結果となってしまいましたね。

報告書は "「表現の不自由展・その後」の肯定的意見だけを利用している" という大変不誠実かつ非論理的な姿勢であることが明らかになったため、
アンケート結果の分析については一旦休止して、次の全体所見3.  1)~4)について、順に述べていきたいと思います。

1.全体所見3. の 1)に関して(アリガタイオコトバ)

まず全体所見3. の趣旨として、

「表現の不自由展・その後」の中止・再開をめぐる一連の事態を通して、―いわゆる「怪我の功名」的な側面ではあるが― 現在の芸術文化の社会的状況が露わになり、関連して、活発な議論が引き起こされた。これは (中略) 国内の今後の芸術祭運営において認識・共有されるべきものであり、以下にそれを記す。(報告書p5)

と述べられています。「怪我の功名」等と言いつつ、実質最初から自己正当化宣言ですね。
先程も述べましたが報告書の "全体所見" は、「表現の不自由展・その後」を自己正当化することに大変腐心しているきらいがあります。
中立ではない "調査報告" に果たして意味はあるのか大いに疑問ですが、
とりあえず 1)について見ていきたいと思います。


1)拡大するネット環境によって社会の二極化や分断の進行が露わになるとともに、いわゆる「反知性主義」の存在が可視化されたのではないか。(報告書p5)

ここで述べられている「反知性主義」の意味が、ネガティブな用法が多い一般用語としてなのか、多様な意味合いも含む学術用語としてのものなのか判然としませんが、
・わざわざ鍵括弧を使用している
・『いわゆる』という表現を使用している
・『二極化や分断』を述べる文脈で使用されている
という点に鑑みると、ネガティブな一般用語的用法、即ち「非理性的≒(感情論者)」という意味合いが強いように思われます。


その証左として、全体所見3. 1)の本文に於いて

来場者が写真を投稿することで作品が企画者の意図とは切り離されて注目を集める結果を招いた(中略)。こうした個人の解釈によるSNS投稿は、さらに作品の意図とは無関係な、美術に関心のない人々を巻き込み、彼ら個人の思想・心情を訴えるために利用され、いわゆる「炎上」を招くことにつながったと言えよう。(報告書p5)

「表現の不自由展・その後」に係る問題は
・作品の意図、企画者の意図と無関係であり
・美術に関心のない人々によるものであり
・個人の思想・心情を訴えるために利用された結果である
と述べられています。


要約すれば
「表現の不自由展・その後」は一切問題が無かったが、「表現の不自由展・その後」の鑑賞者及び批判者問題があり、その結果として一連の騒動が引き起こされた
その原因は、
「反知性主義者」(≒感情論者、蒙昧な大衆)と、それ以外(≒理知的にして高邁な民衆)とに社会が二極化分断されたからに他ならない。
(だから「表現の不自由展・その後」は悪くない。)
と述べているということですね。

大変露悪的な表現をするならば
「表現の不自由展・その後」は全く悪くない。
だが、愚かな大衆が高邁な思想を理解できずに騒いだがために問題化した。
社会に愚かな大衆が増えたことは大変嘆かわしいことである。

と大変 "アリガタイオコトバ" を宣っておられる模様ですね。


…………まさか仮にも公が公表している報告書で

自己正当化を遥か通り越して、芸術鑑賞者や批判者(=市民)にここまでの責任転嫁を行ったものが未だ嘗て存在したのか

と言いたくなるほどに大変不誠実且つ無責任な放言だと思います。

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私が愛知県(知事)の批判を行っているのは、こうした不誠実且つ無責任な姿勢が言動から垣間見える(この『報告書』も恥ずかしげもなく公表し、自己正当化している)から、という点が非常に大きな比重を占めています。
この報告書についても、
あいちトリエンナーレのあり方検討委員会が作成したものであって、愛知県とは完全に無関係である。
公表しなければ『憲法違反表現の自由の侵害になる』等と「表現の不自由展・その後」に係る問題の説明の際同様に妥当しない不誠実なことを宣う可能性は低くないように思われます。

2.アリガタイオコトバ に対する検証①

さて、私のような愚昧なる大衆に対し、報告書は "大変アリガタイオコトバ" を投げかけてくださったのですが、その内容を『愚昧な大衆』なりに大きく3つに分けて検証したいと思います。

①「表現の不自由展・その後」自体に本当に問題はなかったのか?
②批判したのは本当に「美術に関心のない人々」なのか?
③「個人の思想・心情を訴えるために利用した」のは誰か?

では、①から述べていきます。


①「表現の不自由展・その後」自体に本当に問題はなかったのか?

本件については様々な角度から問題を指摘する声があり、枚挙に暇がありませんが、最大の問題の一つであろう芸術監督(津田氏)について述べたいと思います。

私が不誠実無責任と断じた、"「表現の不自由展・その後」に関する調査報告書" ですが、他でもない当該報告書の "6 検証結果" に於いて津田芸術監督の問題点は数多く指摘されています。
なお、あいちトリエンナーレ2019に於ける芸術監督の位置付けは、「学芸業務の最高責任者」です。芸術部門の最高責任者(権力者)といった意味合いですね。
(問題点があまりにも大量なため、一部を引用します。因みに、”6 検証結果" では、検証結果の各論で指摘した津田芸術監督の問題点を最終的にまとめています。そうしないと整理できないほどの問題があったことがわかります。)

〇津田芸術監督に係る問題(一部抜粋)
※「("  ")」は引用ではなく、私個人による注釈です

<本来業務に関する判断、組織運営上の問題点>
・不自由展実行委員会("作者達")のかたくなな姿勢に対し、妥協を続け、結果的に展示会を一時中止せざるを得ない事態を招いたこと。
・その結果、関係各方面に多大な損害を与えるとともにあいちトリエンナーレ及び、愛知県庁に対する県民や協賛企業からの信頼を損なう事態を招いたこと。
(以上、報告書p83 42-(1)①)
・不自由展実行委員会に展覧会のキュレーションを委ねてしまい、結果としてあいちトリエンナーレの期待水準に達しない、また作品選定の妥当性とキュレーションの不足により多方面から「公的資金を使い、公的な場所芸術の名を借りた政治プロパガンダを行った」と一部が批判される展示を認めてしまったこと。
(報告書p83 42-(1)②)
・展示に加えてパネル討議やディスカッションなどの併催企画が必要な難易度の高い企画と認識していたにもかかわらず、時間不足と資金不足に陥り、結果的にその準備に至らなかったこと。
(報告書p83 42-(1)④)

背信とのそしりを免れない行為>
・芸術監督はインターネットに精通した専門家であり、展示作品の断片映像がSNS上で拡散される事態とそれがもたらす激しい抗議をある程度、予見し得たはずである。(中略)その危険性を事務局や会長に強く警告しなかったこと。さらに展示開始後、一部の作家から写真映像のSNS拡散の禁止はおかしいと抗議を受け、当該作家だけに対し「作家発ならよい」と回答してしまい、結果として他の2作家の追随を招き、ひいてはルールの不徹底に対して来場者からの抗議混乱を招いてしまったこと。
(報告書p84 42-(2)⑦)
・本来は不自由展実行委員会が自ら用意すべき展示作品の詳細説明を無償でかって出て、自らが経営する会社のサーバーに用意したこと、また不自由展実行委員会が本来、負担すべき訴訟となった場合に発生する費用等の経費を個人で負担する覚書を出していたことは、業務委託先との不適切な関係(いわゆる公私混同)に値する。また、私益を追求した訳ではないが、芸術監督に求められる業務委託先や出品者の公平な扱いの原則から逸脱し、最終的にはあいちトリエンナーレの公正かつ透明な運営に対する県民や協賛企業からの信頼を失わせた
(報告書p84,85 42-(2)⑧)
・大浦氏の新作映像("『遠近を抱えて PartⅡ』(昭和天皇の写真が燃えているシーンの入った映像作品)")の内容を知り、またその出品を5月27日に正式決定したにもかかわらず、作品リストに掲載せず、またその事実とそれがもたらす混乱の可能性やリスクを事務局やキュレーターチーム、会長に伝えないまま展覧会の開催日を迎えたこと(「善管注意義務違反」との批判は免れえないであろう)。
(報告書p85 42-(2)⑨)

<ジャーナリストとしての個人的野心を芸術監督としての責務より優先させた可能性>
・2015年の不自由展の拡大版を「あえて今回公立美術館で開くことに意義がある」と不自由展実行委員会と当初から合意していたが、これは人々が元々公的機関に期待する役割から離れたものであり、いくら芸術祭であるといっても、県民からの理解がたちどころにえられるとは考えられない。また、この状況は元々ジャーナリストとして想定し得たと思われるにもかかわらず、展示に至る一連のプロセスは、税金でまかなわれる県の施設を使用する公的立場の芸術監督に求められる分別に対する疑問を抱かせる行為であり、たちどころに県民の理解を得ることは難しい
(報告書p85,86 42-(3)⑩)
・2019年4月には芸術監督の地位にあるにもかかわらずインターネットの番組("4月8日ニコニコ動画 東浩紀氏との対談「『あいちトリエンナーレ2019が始まってもないのに話題沸騰してるけどその裏側を語るならやっぱりニコ生しかないっしょ』SP」")内で天皇に関し「2代前だから燃やしてもよい」と受け止められても仕方がない発言を行い、その映像が広く流布された。この発言は後の大浦氏の新映像作品("『遠近を抱えて PartⅡ』(昭和天皇の写真が燃えているシーンの入った映像作品)")の出品をあらかじめ知ったうえでしたものではないとの弁明があったものの芸術監督としては軽率かつ不適切であり、のちにSNS上で同作品の映像が流された際に想定以上の激しい抗議を誘発する一つの原因ともなった。また、この事実に照らすと芸術監督はのちに大浦氏の映像を展示すると決めた際にも激しい抗議が起きることを予見できた可能性が高いと考えられる。それにもかかわらず会長や事務局にその存在やその展示がもたらす様々なリスクを予め知らせなかったことは不適切のそしりを免れない。
(報告書p86 42-(3)⑪)

…問題だらけ、もとい、問題ではない部分は一体どこでしょうか?
予見できていたのに対応もしていない、しようともしない、むしろ問題を増大させるような行いしかないように思われますね。

当然、上記以外にも問題点はありますので、"問題になるべくして問題になった" 以外の評価をする方が大変困難でしょう。


大村愛知県知事は津田芸術監督を厳重注意処分としています。

また、以下のように苦言を呈してもいます。

https://smart-flash.jp/sociopolitics/88841
「昭和天皇の映像作品については(中略)我々に知らせず勝手に持ち込んだに等しいので、津田監督には大いに反省してもらわんといかんと思います。」
「本来ならば、作品の中身については、事務局とキュレーター、アーティストと芸術監督の4者で詰めていくはずなのに、事務局の担当者が入る余地がなかった。津田さんが意図的にそうされたと言われても仕方がない。そこは津田さんに反省してもらわないと」
(2019.12.24 00:00 SmartFLASH より)

「報告書」にもあるように、津田芸術監督は、「キュレーションの自立性の尊重」どころか、むしろ独断専行が行き過ぎていたという批判は免れないでしょう。

そして、注意すべきは『芸術部門は社会に対して説明責任を負う』という点です。(報告書 別冊資料2 「憲法その他法的問題について」p13)

公金を使用する以上、社会の理解を得ることが大前提です。特定の『個人の思想・心情を訴えるために利用され』(報告書 p5)てはならないのは、その性質上至極当然のことです。

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「報告書」の記載を見る限り、
"個人の思想・心情に訴えるために利用" したのは、むしろ説明責任を果たせていない津田芸術監督であるように思われます。
そしてその独断専行を許したのは運営側(愛知県)です。

しかし、津田芸術監督がその責任を十分に全うしているかというと、私にはそうは思われません。むしろ妥当しない表現で責任転嫁している印象が強いですね。

「芸術」と銘打てば、公金支出による如何なる活動も認められる、などということはあり得ず、むしろ
 "公的資金を使い、公的な場所芸術の名を借りた政治プロパガンダを行った" (報告書p83 42-(1)②)
と批判されることのないよう、慎重に行動すべきであることは言うまでもありません。

そしてこれは津田芸術監督だけの責任ではなく
・そういった問題のある運営体制を作ってしまったこと
・津田芸術監督の権限に対し、判断ミス等を抑制する仕組みをつくらなかったこと
・問題点の把握に努めなかったこと
・問題を把握する機会はあったのに対策を講じなかったこと
・津田芸術監督に十分な説明責任を果たさせることができていないこと
等の点で、運営側、つまり愛知県の責任でもあるということを忘れてはなりません。

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「調査報告書」では、かなりの分量を津田芸術監督の問題指摘にあてています。当然それだけ問題があったということでもありますが、津田芸術監督にも責任を転嫁しようとしているようにも見え、やはり誠実さを欠く印象が拭えません(津田芸術監督に責任がないという意味では断じてありません)。

実際、津田芸術監督からは
「僕だけを責任追及することに終始している」(2019.12.24 00:00 SmartFLASH より)
といった発言が出ています。

3.今回の結論(「表現の不自由展・その後」には問題しかない)

さて、「表現の不自由展・その後」に係る津田芸術監督(及び愛知県(知事))の諸問題を見てきましたが、"問題がない" どころか "問題しかない" ように思われます。

"作品の意図、企画者の意図と無関係" で ?
"社会の二極化と分断が進行" していて ?
"いわゆる「反知性主義」" の存在が可視化した ? 

…これらの発言は一体何の根拠の下に発せられたのか、私には全く理解できません。根拠となる資料も一切示されてはいません。

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内容が重複しますが、「報告書」の記載を見る限り、
"個人の思想・心情に訴えるために利用" (報告書p5) したのは、むしろ説明責任を果たせていない津田芸術監督であるように思われます。

"作品選定の妥当性とキュレーションの不足により多方面から「公的資金を使い、公的な場所芸術の名を借りた政治プロパガンダを行った」と一部が批判される展示を認めてしまった" (報告書p83 42-(1)②) とあるように、
批判は断じて "作品の意図及び企画者の意図と無関係" ではないでしょう。

では、"いわゆる「反知性主義」の存在が可視化" とは、一体何を指して述べられているのでしょうか?
個人的には、「表現の不自由展・その後」に係る芸術監督及び愛知県(知事)の責任転嫁の言動について述べているのであれば大変納得できます。

全体所見1.及び2.に於いては、かなり強引で不誠実ですが
事業全体の参加者数や収入、アンケート結果
という多少なりとも一見客観的なように見えるデータを元に、「表現の不自由展・その後」の自己正当化が図られていましたが、

全体所見3. 1)に及んではその根拠データすらなく、事実関係すら無視して「表現の不自由展・その後」の自己正当化が図られているように思われます。何しろ、津田芸術監督の問題点はまさに全体所見3. 1)が記されている「報告書」に記載されているのですから、自己矛盾が甚だしいですね。

しかも、無根拠に芸術鑑賞者及び批判者(=市民)に責任転嫁しているのですから、あきれ果ててしまいます。


内容が重複しますが、
「表現の不自由展・その後」自体にあたかも問題がないかのように述べること及び市民に責任転嫁することは、本当に不誠実且つ無責任な放言である
と断じざるを得ないかと思います。

よって、
〇「表現の不自由展・その後」自体に数えきれない問題があり、まさに問題になるべくして問題になったと言うべきである。
市民に責任転嫁するが如き発言は、本当に不誠実且つ無責任な放言でしかない。
と言う他ありません。


また時間のある時に、続きの記事を作っていきたいと思います。
事実誤認、誤り、不足等ございましたら、ご指摘いただければ幸甚です。追加、修正させていただきたく思います。