朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 戦後期 第3回 新聞人の夢を葦津珍彦に託した緒方竹虎(月刊「正論」平成10年4月号)
(画像は靖国神社)
国家と神道が密接に結びついた「国家神道」が戦前・戦中の神社参拝の強制や宗教迫害を招き、「侵略戦争」の元凶となったというような俗流の歴史理解が一般社会に広く流布しています。「反ヤスクニ闘争」を展開してきた一部のキリスト者や知識人ならまだしも、驚いたことに、「津地鎮祭訴訟」「愛媛玉串料訴訟」の最高裁判決にまで明記され、「国家神道=戦犯」説は「判例」となっています。
戦後のジャーナリズムも同様の歴史認識を示していますが、「大本営発表」を垂れ流しにして真実を報道せず、戦争の狂気をあおり立てた、ほかならぬ大新聞こそ「戦争責任」の追及から逃れることはできないのではありませんか。大新聞は戦時体制下のきびしい言論統制の受難者だったことを強調しますが、むしろ戦争の時代の演出者ではなかったのでしょうか。
私はこれまで、通俗的「国家神道」理解とはまったく違って、在野土着の中心的神道人たちが日中戦争勃発以後、日本軍の暴走を必死で阻止しようとした事実、日米開戦後は東条内閣の宗教迫害に苦しみながらも、受難に立ち向かい、戦時体制と果敢に闘った歴史を描きました。
ここでは、敗戦後の新聞人と神道人の生きざまを、日本のメディアを代表する「朝日新聞」の主筆を長らくつとめた緒方竹虎(のちの自由党総裁)と、一般には無名に近い神道界の専門紙「神社新報」の事実上の主筆として社を代表した葦津珍彦(あしづ・うずひこ)を中心に振り返ってみます。同時に「新聞の戦争責任」について考えてみたいと思います。
◇1 不十分な大新聞の「責任」追及
▽「大改革」どころか体制を強化
昭和20年8月に、敗戦という未曾有の事態を迎えて、大新聞は存続が危ぶまれました。存続できるとしても、編集方針をどうするのか、大問題でした。
創刊111年を記念して刊行された『朝日新聞社史』全4巻の『昭和戦後編』(1994年)によると、東京本社では昭和20年8月15日の午後、編集局部長会が開かれました。細川隆元元編集局長(のちの政治評論家)はその席で、
「当面の新聞製作の仕事は平素の通りやっていこう」と語りました。
「それまで一億一心とか、醜敵撃滅などという最大級の言葉を使って書き、読者に訴えてきたものを、これからすっかり変えていかなければならないが、といって、昨日の醜敵が今日の救世主に変わったような、歯の浮くようなことも書けないから、まあ、だんだんに変えていくということにしようではないか、というのである」
けれども、
「(編集局幹部の)受け身の姿勢は、言論の自由を失い、戦争協力を続けてきた新聞に忸怩たる思いをしてきた社員の不満を募らせる原因にもなり、……『戦争責任の追及』をめぐる人事の紛糾に発展した」のでした。連合国による戦争責任の追及が進むと、朝日新聞社内で「急速に新聞の戦争責任を追及する論議が起こった」のです。やがてそれが「社内の大変革」へと展開します。
紆余曲折の末、同年11月5日、臨時株主総会が開催され、本社の運営に必要な数名を残して、村山長挙社長以下の全役員が辞任し、村山社長と上野精一会長は社主となります。編集総長、東京・大阪・西部三本社の編集局長、論説主幹は総退陣しました。『社史』はこれに
「創刊67年、空前の大改革」
「戦争責任を明らかにした、この朝日の大改革……」
と最大級の評価を与えています。
しかし、社主制度を新設する資本と経営の分離は、元主筆の緒方がかねてから主張していた論で、「改革」はかえって社内体制を強化することでもありました。朝日は戦争で発行部数を倍増させていますが、はからずも今度は敗戦で経営体制を近代化させるのです。しかも社主に退いたはずの上野、村山は日本が独立を回復した6年後には取締役に復帰します。まさかGHQ対策ではないでしょうが、
「戦争責任を明らかにした」
と自画自賛するほどのものでしょうか。
▽抽象的・観念的な「戦争責任」
問題は「新聞の戦争責任」の中身です。大新聞は何をもってみずからの「戦争責任」と認識してきたのでしょうか。
マッカーサーが東京に進駐する前の8月23日、朝日新聞に「自らを罪するの弁」という社説が掲載されました。
「邦家をこの難局に立ち至らしめた責任は、同胞全体のわかつべきものであり、とくに吾人言論人の罪たるや容易ならぬものがある。吾人は一面、過去における吾人の責任を痛感し、いかにかしてこれを償わんと苦慮しつつ、他面、明日の言論界の雄健なる発展を望んでやまないものである」
これが、日本の新聞が「新聞の戦争責任」に言及したはじめての記事だそうですが、表現が抽象的で、「責任」の具体的な中身は見えてきません。
次いで、「朝日新聞の戦争責任を明確ならしめる」ための「社長、会長以下、重役総辞職」が伝えられた10月24日の朝刊には、「新聞の戦争責任清算」なる社説が掲載されています。
「近衛新体制運動以後、政府といちいち歩調をともにするのやむなきにいたり、大戦直接の原因の一をなす三国同盟の成立に際してすら、一言の批判、一臂(いっぴ)の反撃をも試み得なかった事実は、もとより承詔必謹の精神に基づくものであったとはいえ、顧みて忸怩(じくじ)たるものあり、痛恨まさに骨に徹するものありといっても過言ではない」
厳正なる批判者としての新聞の使命を全うしなかったことを「責任」と認識しているようでもあり、戦争協力を問題にしているようでもあります。
「大改革」の2日後、終戦からほぼ3カ月を経た11月7日の朝日新聞には、「宣言 国民と共に立たん」が掲載されています。
「支那事変(日中戦争)勃発以来、大東亜戦争(太平洋戦争)終結にいたるまで、朝日新聞の果たしたる重要な役割にかんがみ、我らここに責任を国民の前に明らかにするとともに、新たなる機構と陣容をもって、新日本建設に全力を傾倒せんと期するものである」
『社史』によると、この新しい時代に向けたメッセージは、当時37歳、報道第一部次長の森恭三が起草しました。10月下旬の従業員大会で異議なしにそのまま認められ、のちに紙面化されたといいます。森はのちに論説主幹、論説顧問となり、戦後の朝日新聞の論説を、ひいては日本のジャーナリズムをリードします。
「宣言」には、
「開戦より戦時中を通じ、幾多の制約があったとはいえ、真実の報道、厳正なる批判の重責を果たし得ず、またこの制約打破に微力、ついに敗戦にいたり、国民をして事態の進展の無知なるまま、今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せん」
とあります。しかし、格調高い文章には違いないにしても、400字という分量の制約もあって、やはり追及は抽象的といわざるを得ません。何を具体的に問題にしているのでしょうか。
「宣言」がいう「責任」「罪」をあえて分析すると、
(1)真実の報道をしなかった、
(2)厳正なる批判者としての社会的使命を全うしなかった、
(3)戦前・戦中の「制約」の打破に微力であった、
(4)その結果として、国民に大きな惨禍をこうむらせた
──の4点になるでしょうか。「戦争責任」がおよぶ時代的範囲を「支那事変勃発以来、大東亜戦争終結にいたるまで」に限っていることも注目すべきでしょう。満州事変は無関係、といいたいのでしょうか。
こうしてみると、敗戦直後の「戦争責任」追及はどれも具体性がありません。「責任」を痛感せざるを得ない状況が実際、どのようにして発生したのか、がまったく説明されていません。
こうした敗戦後の朝日新聞を、昭和9年から18年末まで主筆をつとめ、社を代表した緒方竹虎はどう見ていたのでしょうか。本人が書き残したものは寡聞にして知りませんが、葦津珍彦によると、当時、東久邇内閣の国務大臣をつとめたあと、公職追放の立場にあった緒方は、
「大新聞が急激に時流に流されて、混乱した状況を呈していることに対して、非常に不満だった」(「故緒方竹虎大人の追想」)
といいます。
◇2 神社新報の「終戦始末記」
▽「神道の社会的防衛者」の誕生
一般には「侵略戦争」のもっとも狂信的推進者のようにみなされている神道人は、敗戦後、あの戦争とどのように向き合ったのでしょうか。
戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦は、評論家の鶴見俊輔によるインタビューで、終戦当時を次のように回顧しています(鶴見俊輔編・解説『語りつぐ戦後史?』1969年)。
「私は……ドイツ観念論で反訳解釈した官製のような国体神道論が嫌で、当時の権力には協力できなかった。しかし心の中では、国運を賭して戦っている日本帝国の臣民として、何とか心の底から闘えるような精神状況になりたいと思い続けていました。これは苦しかった。広島への原爆投下を知ったときはじめて、『よしっ、これならおれも本気で戦えるぞ』と思いました。そしたら、すぐ終戦で、がっかりしました」
「占領について何か予見をもっておられましたか」という質問には、こう答えています。
「徹底的にアメリカ化されて、日本らしいものはすべて亡びるだろうと思っていました(斎藤吉久注。このインタビューは昭和43年に行われています。ちょうど小笠原返還協定が調印された時期に当たります)。ですから私は、全力を尽くして日本らしいものを守る、とくにアメリカ人の敵視している『国家神道』を守ると決断したのです」
「神道の社会的防衛者」を自任する神道思想家・葦津珍彦は、こうして敗戦によって生まれたのです。葦津が戦後、神社本庁設立、紀元節復活、靖国神社国家護持、剣璽御動座復古、元号法制定などに、中心的な役割を果たしたことはよく知られています。それは一見すれば、「戦前の復活」ですが、「国家神道」の復活を単純に企図したわけではありません。
たとえば京都の上賀茂神社には江戸時代、300戸の社家、数百人の神職がいたといいます。それだけ広大な社領地などの経済基盤があり、盛大な葵祭は盤石な財政的裏づけと数多くの神領民の信仰に支えられていました。ところが、明治以後、神職は十数人に激減します。人材登用、門閥打破、旧弊一洗の旗印のもとに神官の世襲が廃止されるとともに、社領地が国有化され、各社の財政基盤は縮小されました。
近代になって「国教的な地位」が与えられ、優遇されたのではなく、神社は政府の圧迫を受けたのです。そして敗戦後は国家との関係が絶たれました(阪本是丸『国家と宗教の間』)。
翌21年2月、神宮奉斎会、大日本神祇会、皇典講究所の神社関係民間3団体が合併し、全国組織として宗教法人神社本庁が設立されます。機構づくりの中心には、葦津珍彦がいました。設立された神社本庁の初仕事は、国有境内地の払い下げ問題と神社新報の創刊でした。同年7月に「神社新報」が創刊され、葦津は編集主幹兼社長代行者となります。翌年には神社新報は株式会社として独立しました。
▽敗戦の謎に迫る
『神社新報五十年史 上』によると、葦津が率いる神社新報が最初に総力を挙げて取り組んだのは、敗戦という史上初めて経験する屈辱の歴史を解明することでした。
『葦津珍彦選集3』の「解説」によれば、先の大戦は「葦津が考えるもっともふさわしくない時期に、もっともふさわしくない形」で終わりました。愚かな政治を繰り返してはならないと痛感した葦津は、「今時大戦の経過と『愚かなる政治家の無定見』により、国体の基となる憲法の改訂までを経験せざるを得なくなった顛末(てんまつ)」を表そうと企図したといいます。
敗戦後の混乱期で、しかも発刊直後のミニ新聞にしては、かなり本格的な取材が慎重に展開されました。取材対象となったのは、終戦時の首相・鈴木貫太郎、内閣書記官長・迫水久常(さこみず・ひさつね)、情報局総裁・下村海南、宮内大臣・石渡荘太郎、それと緒方などです。
葦津が執筆責任者となり、22年10月にまとめられた「終戦始末記」には次のように記されています。
──日本の軍政府は終始、戦争目標を明確化せず、したがって終戦条件も確立されなかった。緒戦の戦果があまりに華々しかったため、東条内閣は幻惑され、戦争目標の限界を見失い、終戦への工作はまじめに考慮されなかった。
沖縄戦の敗勢を見て、鈴木内閣ははじめて現実的終戦を考慮するようになる。
「国体を護持して皇土を保衛する」
という終戦目標が決定されたのは、20年6月8日の最高戦争指導会議(御前会議)である。7月26日のポツダム宣言で無条件降伏が勧告されると、政府部内は動揺する。宣言は「国体護持」を必ずしも保障せず、領土の割譲を公然と要求していた。前月の御前会議の決定とは明らかに相容れなかったが、閣議では宣言受諾が主張された。重臣・閣僚は戦意を急速に失いつつあった。
2週間後、原爆が投下され、ソ連が参戦すると、6月の御前会議の決議に固執するものは一人もいない。もっとも強硬な陸相ですら、帝国領土の保全という条件を放棄していた。唯一、国体の護持、帝国の最小限度の独立保持だけが論議されるだけであった。もはや御前会議の決定は権威を失い、無制限無軌道に陥ろうとしていた。
8月15日、終戦の詔書が公布された。詔書には
「朕(ちん)は国体を護持し得て、爾(なんじ)臣民と共にあり」
と明記されており、占領されることになっても「国体の護持」が守られたことは唯一の光明と理解された。しかし、重臣と政府が終戦前に「国体護持」のために尽力することははなはだ不徹底であり、連合国からは「国体護持」のための何らの保障も与えられてはいなかった。
ポツダム宣言それ自体は国体の変革を要求するものではなかったが、政治の実際においては、宣言受諾と無条件降伏が「天皇の国家統治大権の変更」への道を開いた。
連合国には「国体護持」を否定する主張が満ち満ちていた。鈴木内閣総辞職のあとに組閣された東久邇宮殿下に、近衛公は宣言受諾を決めた以上、天皇の権限など一切ふれずにすべて受諾したらいい、と助言した。鈴木首相も同じ考えであった。
終戦の詔書の原案は、
「朕は神器を奉じて爾(なんじ)臣民と共にあり」
であったが、占領後に神器が奪われるおそれがあるという理由ですり替えられた。鈴木は降伏の条件すら明確にしないまま、いっさいを皇族に押しつけた──。
たとえば、鈴木は、葦津が
「閣下は終戦の日の最後の放送でいわれました。『帝国存立の根基たる──天皇の国家統治の大権には変更なきを確信するので、終戦を迎えた』と。その大権が新憲法においては根本的に変更されています」
と問いかけると、
「(きわめて当惑げに、当時の手帳をパラパラとめくりながら)私がそんなことを放送したかしらん。私は覚えがない。何か新聞が間違えたのではないか……」
ととぼけています。その談話にはご丁寧に、本人が内容を確認したことを示す署名まであるというのですが……。
▽助言を惜しまなかった緒方
古ぼけたタイプライターで作成され、活字はすりつぶされ、欠字だらけの「始末記」は公表されず、編集部の机に数十年間、眠り続けていました。
一部が公表されたのは、昭和61年、終戦40年(創刊40周年)を期に出版された『新しい時代に向けて』が最初で、その後、平成8年7月に刊行された『神社新報五十年史 上』に第一章と第二章が、同年11月発行の『葦津珍彦選集3』に全編が集録されました。「戦後50年」が封印を解かせたのです。
創刊間もない無名の新聞ながら、高度な取材を可能にしたのは、葦津の新聞人としての才能を育てた「恩師」緒方の協力です。緒方は「始末記」の編集を指導したばかりでなく、創刊当時の神社新報に忌憚(きたん)のない意見を語り、助言を惜しまなかったといいます。
葦津が毎号のように新聞を届けると、緒方は紙面を隅から隅まで眺め、新聞の価値、社説と一般記事の関係、編集と経営、新聞人の個性と社会的責任など、豊富な体験をまじえた新聞論をゆったりと語りました。青年時代の回顧談は孫文、頭山満、犬養木堂、荒木貞夫、大杉栄、片山潜にまでおよんだといわれます。
「私が新報社の性格についての構想を立てるに際しては、緒方さんの新聞論に教えられたところが大きい」「新聞人の見識と教養の大切さということを教えられた」と葦津は書いています(前掲「故緒方竹虎大人の追想」)。
葦津の神社新報が一つの主張を持ち、週刊紙という発行形態をとったのは、戦前・戦中の苦い経験を踏まえた緒方の勧めによるのでしょう。緒方は新聞人としての夢を葦津に託したのかもしれません。
敗戦から60年が過ぎ去ったいまでは、「始末記」の内容にそれほど新鮮味はないのかもしれません。現代史の専門家ではない私には判断ができませんが、重要なことは、終戦当時、産声を上げたばかりの小新聞が真正面から敗戦の謎に迫り、大新聞の追随を許さない大きな成果を上げていた、という事実でしょう。
◇3 50年後の「新聞の戦争責任」
▽社論転換の理由
朝日新聞は昭和11年に、アメリカのミズーリ大学から「反軍閥紙」として「新聞賞」の表彰を受けたことがあります。しかし、じつはすでに6年の満州事変勃発後、朝日新聞は社論を方向転換させていました。その背後には何があったのでしょうか。
元朝日新聞記者の後藤孝夫は、『辛亥革命から満州事変へ──大阪朝日新聞と近代中国』(1987年)で、軍部と全面対決していた大阪朝日の論説の「変節」の謎に迫っています。
南満州鉄道爆破事件を発端に、満州事変が勃発したのは9月18日の夜でした。リベラルな主張で論説をリードし、「普選と軍縮の高原」と呼ばれた編集局長の高原操は当初、「関東軍への疑惑をいだきながら、その拡大を最小限に食い止めるための苦心の論法を採りました。ところが、10日後の10月1日、「満蒙の独立 成功せば極東平和の新保障」という社説で「180度の転換が起こった」のです。
「吾人は……満州に独立国の生まれ出ることについては、歓迎こそすれ、反対すべき理由はないと信ずるものである」
とする論説は、「統一中国実現への支援や中国民族主義の肯定という基本理念と、満州は中国の一部だという事実認識とを、すべて捨て去る」もので、「転換の画期となった」のでした。
後藤は
「高原論説の豹変は、いかにも唐突である。……みずからの信念を情勢の急変で手もなくかなぐり捨てるほど、軽薄かつ無節操だったのであろうか」
と問いかけ、「変節」の背後に「右翼の恫喝」があったことを明らかにしました。
1991年に刊行された『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』は、この「社論転換の決断」について詳述しています。それによると、満鉄線爆破の翌日には笹川良一が、その5日後には右翼の巨頭・内田良平が大阪朝日を訪ねてきたというのです。笹川は翌年、国粋大衆党を組織して総裁となります。内田は黒龍会の主幹であり、大日本生産党を結党したばかりでした。
実態は不明ですが、
「内田の背後には軍部がいた」
「事変勃発後の参謀本部首脳会議が、クーデターを辞さぬ決意のもとに右翼へも総動員をかけた」
と後藤は見ています。
「大阪朝日を震駭させたのは、直接には軍部の威を借る内田の申し入れである。暴力に抗する方法なしというのが、村山社長変身の理由であろうが、いったん屈した以上、〈聖戦〉への協力を阻む歯止めはありようがなかった」というのです。
10月12日の重役会は、「現在の軍部および軍事行動に対しては絶対非難批判を下さず、極力これを支持すべきことに決定」し、「社論を統一して国論をつくる大方針」は社内に徹底されます。
その後、「32(昭和7)年12月19日に新聞・通信132社が発表した、『満州国』を正当化し、国際連盟の動きを批判する共同宣言」(連載「戦後50年 メディアの検証」)によって、朝日新聞ばかりではなく、日本の新聞会は戦争への坂道を転げ落ちていきます。
「言論逼迫の回想」(「中央公論」昭和27年1月号)に、緒方は、
「米国などと違い、暴力の直接行動にはじつに弱い。……暴力団とのバカげた取り引きは、いま思い出してもけっして愉快な思い出ではない。……狡猾な暴力団は、新聞社の弱点は広告にありと、しきりに広告主を脅かし、……重役会は、ここにいたってわけもなく『無条件降伏』である。……『国士』との間に衝立のかげの取り引きをせねばならぬことは、思い出しても手の汚れる仕事であった」
と書いています。
また、「自らを語る」(戦争裁判準備資料)では、
「新聞生活三十五年の間、ことに後半の十数年の間、僕の朝日新聞代表としての仕事は、黒龍会その他右翼との抗争であった」
と述べています。
▽扇動者としての大新聞
だとすると、大新聞はやむなく変節させられた時代の犠牲者なのでしょうか。逆に自発的変節ではなかったのでしょうか。
東京女子大学の塚本三夫は『実録侵略戦争と新聞』(1986年)に、
「それまでの幾多の戦争やそれを通じて強化された軍国主義とファシズムに対して、新聞がほとんど抵抗らしき抵抗をせず、批判らしい批判を展開しなかったばかりか、それにずるずると追従し、あるいは先回りしてそれに同調してきたことの結果として、『もの言えぬ』状況がつくり出されたのであるからには、そのような言論状況に関して、新聞自体が深く関わっていると見なければならない」
と書いています。
また、愛知大学の江口圭一は、『日本帝国主義史論──満州事変前後』(1975年)に、
「治安立法や公教育の問題に劣らぬ比重をもって、新聞による排外熱・戦争熱の鼓吹の問題がこれに付加されねばならないと考える。朝毎両大紙を先頭とする新聞こそ、戦争に対する批判的否定的意識の形成を、きわめて積極的に抑止した。……大新聞は、とうてい言論抑圧の結果とはいいえない積極性・自発性・能動性をもって、この戦争に協力し、侵略に荷担した」
と記しています。
新聞はジャーナリズムであると同時にビジネスです。言論であると同時に商品です。いまも昔も新聞の販売競争ほど激烈なものはありません。そして戦争はつねに販売拡張の好機でした。ところが、手強い競争相手が出現しました。ラジオです。満州事変勃発の第一報をもたらしたのは、新聞の号外ではなく、ラジオでした。
大新聞が圧倒的な資本力にものをいわせて大量の特派員を大陸に派遣し、自社機で原稿と写真を空輸する体制を編み出し、競争を激化させた背景には、商機を目前にして、速報性ではラジオに太刀打ちできない焦りがあったのでしょう。
後藤は「在郷軍人を表面に立てた不買運動、国粋大衆党による嫌がらせ、これに便乗した他紙の中傷攻撃など」が大阪朝日を苦しめたと指摘します。高原らが軍部と戦っていたとき、下村海南副社長は
「新聞経営の立場も考えてほしい」
と苦情をいったといいます(前掲『辛亥革命から満州事変へ』)が、まさに軍部は新聞ビジネスの弱点をつき、新聞は企業の論理で失墜したのでしょう。
新聞ジャーナリズムが外力によって曲筆を強いられるのは無念以外の何ものでもありませんが、新聞ビジネスには時の氏神となりました。
「事変発生とともに朝日新聞の部数は増え続け、7年2月29日には『事変以来、今日にて東朝20万、大朝27万余部増加……』と記録される増加ぶりだった」(『社史』)
のです。これが「無念の転針」の現実でした。
緒方が
「もし主張のための新聞を発行するのならば、週刊紙でなくては駄目だ……大新聞はまさにその反対である」(前掲「言論逼迫の回想」)
と振り返るのはそこでしょう。大新聞は軍部の圧力に屈したというより、言論をカネで売ったということではないでしょうか。
しかし、毎日新聞の前坂俊之が『言論死して国ついに亡ぶ──戦争と新聞、1936―1945』(1991年)で指摘しているように、戦後は
「被害者意識のあまり、一般市民に対する新聞ジャーナリズムの加害性を忘却し、責任を転嫁しており、なぜ言論統制に屈したのか、自らの弱点に目をつぶっている」のではありませんか。
敗戦からすでに半世紀以上が過ぎたいま、大新聞は自らの「戦争責任」をどのようにとらえているのでしょう。
1994年に刊行された『朝日新聞社史 昭和戦後編』は「戦争責任の追及」について19ページにわたって記述していますが、軍部への追及や戦後の「朝日新聞の社内改革」の経過説明は詳しいものの、肝心の「新聞の戦争責任」の中身については、昭和20年の「宣言」を越えるものが見あたりません。
また、長期連載「戦後50年 メディアの検証」は、最初に「新聞の戦争責任」を取り上げ、記者たちの苦悩、「宣言」が生まれた経緯について書きつづっていますが、何を「戦争責任」というのか、については必ずしも明確ではありません。
「戦争中、森自身はもちろん、朝日新聞を含む、すべての新聞が『赤裸々』に書いたり、戦争の情勢について事実を国民に伝えることはなかった。新聞は政府の言論統制にしばられていた。だが、それだけでなく、戦争への協力を読者に迫り、戦意をあおった。たとえば朝日新聞は『一億はすべて武装せよ』(43年3月)と書き、神風特攻隊を『身を捨て国を救う崇高極致の戦法』(44年10月)とたたえた」とあるばかりです。
『社史』や「メディアの検証」に共通するのは、「新聞の戦争責任」についての追及がどうしても抽象的で観念的なことです。「事実を国民に伝えることはなかった」という背景に何があるのか、どのような具体的事情があって、「戦争への協力を読者に迫り、戦意をあおった」のか、見えてきません。当時の報道統制をいくら説明しても理由にはならないでしょう。
森の『私の朝日新聞社史』や連載「メディアの検証」は開戦後の「戦争協力」を問題にしていますが、戦時体制下で新聞が政府の戦争政策に協力したことの責任ではなくて、ジャーナリズムよりもビジネスを優先させて開戦を防ぎ得ず、軍部の圧力に屈して戦争の時代を開いたことの「責任」を、なぜ問わないのでしょうか。
▽「むかし陸軍、いま朝日」
いまに至ってもなお、大新聞は本気であの戦争と向き合おうとしていないのではありませんか。そのことを実証するような「事件」さえ起きています。
平成7年のことです。ある小出版社が、昭和16年の日米開戦から終戦まで、朝日新聞が戦争とその時代をどう伝えていたか、当時の記事をスクラップした単行本を出版しました。切り抜きを並べたようなお手軽ともいえる編集ですが、当時の紙面をそのまま読者に提供し、歴史を検証し、教訓を導き出そうとする意図は十分に理解できます。けれども、わずか数カ月後に「絶版」になりました。何があったのでしょうか。
翌年、別の出版社から改訂・再編集のうえ「復刻」された単行本の「まえがき」によると、
「記事が発行日から50年を経ていないため、著作権侵害に当たる」
という朝日新聞の「抗議」に版元が折れ、「絶版」が決定されたといいます。
朝日新聞に確認すると、広報室は、「昭和19年から20年の紙面や記事の転載および現代語訳」について「複製権、翻訳権を侵害する部分が57ページ分あった」ため「申し入れ」をしたところ、出版社から「回答」があり、
(1)陳謝、
(2)増刷しない、
(3)在庫は出荷しない、
(4)返品は再出荷しない、
(5)返本部数の確認、
(6)賠償金の支払い
──などについて合意された、と説明しました。
納得しがたいのは、
「『大本営発表』や『読者欄』については、著作権はない」
とするのは当然としても、朝日新聞が「昭和19年から20年」の記事、つまり「発行日から50年を経ていない」記事のすべてについて、著作権を主張していることです。
当時は、17年2月に「日本新聞会」が設立されて、「日本新聞連盟」時代よりも情報統制はいちだんと強化され、新聞はいわば軍政府の宣伝機関と化していたのではないでしょうか。『朝日新聞社史』に記述されているように、19年7月に朝日新聞副社長を退き、小磯内閣の情報局総裁に就任した緒方の決断で、新聞会は翌20年3月に解散しますが、その後もなお「政府自ら全国の新聞を直接指導」し、「業界は業務面だけを管掌」する状況が続いたのではなかったでしょうか。
著作権法を文字通り解釈すれば、朝日側の言い分は正しいかもしれませんが、新聞の編集権が奪われていた屈辱の時代について、著作権を堂々と主張する感覚が私には信じられません。
出版者側はそこを追及すべきではなかったでしょうか。それとも、「申し入れ」を受け入れたのは、それほど確信的狙いのある出版ではなかったということでしょうか。ともに言論出版の世界に身を置きながら、言論で争うこともなく、すんなりと出版者側が「陳謝」し、賠償金を支払ったことは、じつに後味の悪い結果を招いたといえます。大新聞の暗い過去を隠蔽する格好になってしまったからです。
「小出版社は大新聞には太刀打ちできない。裁判で争うことなどとても無理」
という声も聞かれますが、かつて言論統制に苦しめられたはずの大新聞はいま、逆の立場を演じているのではありませんか。
「むかし陸軍、いま朝日」
という批判が聞こえてきそうです。
▽おわりに
政教分離裁判で最高裁がはじめて「違憲」判断を示した、平成9年4月の「愛媛玉串料訴訟」判決の翌日、朝日新聞は
「厳格な政教分離規定が設けられた原点は、戦前から戦中にかけて『国家神道』が軍国主義の精神的支柱となり、あるいは一部の宗教団体が迫害されたことへの反省だったことを思い起こしたい」
とする社説を掲げました。
しかし、朝日新聞自身の戦前・戦中はどうだったのでしょうか。日中戦争勃発の翌年、国民の多くが「南京陥落」に沸いていた昭和13年春、大阪朝日新聞は陸海軍省の後援で、阪急西宮球場とその外園を会場にして、「支那事変聖戦博覧会」を主催しました。『社史 資料編』(1995年)によると、来観者は2カ月間でのべ145万人にのぼりました。
縮刷版によると、4月1日の開会式に先立って、モーニング、軍服姿の約100名の名士が外園の杉木立のなかに謹設された靖国神社遥拝所の修祓式(しゅばつしき)に望みました。開会式後の祝宴野宴で、村山会長は
「開会式のはじめにあたり、皆さんに靖国神社にお詣り願った。聖戦博を貫く精神は一に社頭にぬかずく気持ちにあります」
と挨拶しています。
いったいこの落差は何でしょうか。「国家神道」が軍国主義の精神的支柱だったのか、それとも「軍国主義」を新聞ビジネスがあおったのか。かつては靖国神社の遥拝所まで建ててイベントを主催し、戦後はこの連載で見てきたように自らの「戦争責任」を十分に追及しないまま、まるで他人事のように、大新聞はいま「国家神道」批判を展開しています。無節操であると同時に、あまりにも無責任ではありませんか。
単行本化された『戦後50年 メディアの検証』(1996年)の「あとがき」で、前調査研究室長の柴田鉄治は
「報道には絶えず検証が必要であり、検証につぐ検証を永遠に続けていくべき宿命を負っている」
と書いていますが、同感です。
大新聞は、「国家神道」に「戦争責任」を転嫁するのではなく、「新聞の戦争責任」とは何か、をあらためてきびしく自ら問い直すべきでしょう。ふたたび戦争の悲劇が引き起こされないために、多くの無辜の民が戦争の惨禍に巻き込まれないために、敗戦という屈辱の歴史が繰り返されないために、そして揺るぎない平和の構築のために……。
蛇足ですが、単行本の『メディアの検証』はなぜ本社の出版局から刊行されなかったのでしょう。「売れない」という営業的判断があったとも伝え聞きますが、大赤字を覚悟してでも出版すべきではなかったでしょうか。意欲的企画だっただけにじつに残念に思うし、画竜点睛(がりょうてんせい)を欠くことになったのではありませんか。
さて、葦津珍彦は平成4年6月にこの世を去りました。
癌に冒され、外出が不自由になっていた最晩年のある日、葦津は人知れず靖国神社に参拝し、神門を背に記念の写真を撮りました。そして
「葬儀用の遺影にしてくれ」
と家族に頼んだといいます。若き日に父・耕次郎の命を受け、建築を手がけた堂々たる神門は生涯の誇りでした。
最後の上京となったこのとき、葦津は何を祈ったのでしょう。昭和30年暮れに「恩師」緒方と交わした最後の会話は靖国神社についてで、緒方は国家援助が当然であることを力説したといいます。
葦津は戦後、ほとんど半生をかけて「靖国神社国家護持」問題に取り組みました。青年時代に暴走する「皇軍」を激烈に批判し、日米開戦後、東条内閣の統制政策に徹底して抵抗した葦津にとって、それは「転向」ではありません。そのことは残された膨大な歴史研究、近代史批判が証明しています。慰霊と歴史の検証とは異なるのです。
しかしながら、「恩師」の緒方が当然視し、「子弟」の葦津が宿願とした靖国神社の「国家護持」はいまだ実現されていません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?