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ふたたび岡田東京大司教様へ──なぜそんなに日本批判に血道を上げるのですか?(「正論」平成19年6日号から)


 岡田武夫東京大司教様、前回の手紙はお読みいただけたでしょうか? 近年の教会指導者の政治的言動には見過ごせない疑問点が多々あり、杞憂(きゆう)であればと願いつつ書簡をしたためた次第です。けれども懸念はけっして私だけではないようで、ある信者の方から届いたお便りにはこう書かれていました。

「拉致(らち)被害者の家族を支援するならまだしも、主権を侵している北朝鮮の側に立った発言を繰り返す司教様もおられます。責任あるお立場の宗教者の発言とは思えません」

 なるほど

「教会に『憲法九条を世界に』の幟(のぼり)が立ち、信者の大学教授は拉致実行犯とつながっている」

「共産党員の司祭が誕生した」

「毛沢東礼賛の講演が行われる」

 などの噂を聞けば、

「受洗するんじゃなかった」

 と信者が怒り出すのも不思議ではありません。

 ましてカトリックの教義では、

「政治に直接介入することは聖職者ではなく、信徒の任務である(『カトリック教会のカテキズム』日本カトリック司教協議会教理委員会訳・監修、カトリック中央協議会発行、2002年)

 とされていますから、司教様方の政治運動は教義に反することになります。

 なぜ政治に走るのかという疑問は当然です。


▢1 東京教区から始まった

 教会指導者の政治的暴走は、昭和40年代に東京大司教区が靖国神社国家護持反対を大会決議したのが最初でしょう。戦前から東京教区長の地位にあった日本初の枢機卿・土井辰夫師が45(1970)年に亡くなり、後任に昭和生まれの白柳誠一大司教(現枢機卿)が就任します。そして翌46年暮れ、第一回東京教区大会が開かれ、靖国法案について論議されたのでした。

 靖国神社を宗教団体から国の管理に移す靖国法案は、この年、国会に3度目の提出が行われたものの、初夏には廃案となっていましたが、教区大会の代議員会は

「法案は憲法に違反」

 とする反対決議案を採択します。こうして憲法を盾に靖国反対を訴える政治運動は新世代の大司教のもとで始まりました。

 48年春には衆参両院に反対署名が提出されました。5度目となる法案提出のあと、教区内に靖国問題委員会が設けられ、白柳大司教は自民党総裁に法案反対の文書を送付しました。翌年には東京カテドラルで教区公認の反対集会が開かれます。わずか数年で教会は圧力団体と化したのです。

 かつてない事態に矛盾を感じる信者は少なくなく、大司教に代わって濱尾文郎補佐司教(現枢機卿)が見解を発表しました。

「戦後、宗教法人になった靖国神社の国家管理がふたたび取り上げられているが、教会は過去の苦い体験をもとに、国家と宗教の問題を深めている。第二バチカン公会議は信教の自由を宣言し、宗教が国家と結びつくことを否定した」

 などという説明でしたが、ここに今日の教会指導者による日本批判の問題点がすべて出揃っていることは注目されます。

 項目的にいえば、

①不正確な近代史理解に基づく戦前批判、

②とくに教会の戦争体験を迫害と信じて疑わない硬直的な歴史理解、

③信者の靖国参拝を認めたバチカンの指針の曲解、

④バチカンも採用しない絶対的平和主義の発想、

⑤他者を厳しく批判する一方で教会の世界宣教史の誤りを省みない独善性、

⑥緩やかな政教分離の受益者でありながら完全分離主義を主張し、他者を追及する言行不一致、

⑦信仰より憲法を重視する非宗教的発想

 です。

 専門委員会を設置し、政治メッセージを為政者宛に発表する運動の手法もこのとき産声を上げたようです。


▢2 間違いだらけの説明

 濱尾補佐司教の説明を、もう少しくわしく見てみます。

 濱尾氏は、白柳大司教の依頼を受け、過去の資料を調査し、その結果を「靖国神社に対する教会の態度は変化か?」と題して、74年4月の教区ニュースに発表しました。〈http://www.tokyo.catholic.jp/text/diocese/kyoukunews.htm〉

 論点は次の4つです。

 第1点(戦前・戦中の靖国参拝に関する教会の姿勢)。昭和の初期に、高校の生徒が靖国神社参拝を国家によって強制され、信者はもちろん、ミッションスクール全体が苦境に陥った。弾圧から救うため、教区長は文部省およびバチカンの意見をたずね、靖国参拝は宗教行事ではないというバチカンの返答を得て、信者の靖国参拝を許可した──。

 濱尾氏の説明はこのあと、参拝を許可した1936年のバチカンの指針を引用していますから、ここでは昭和7年の上智大学生参拝拒否事件について説明しているものと理解されますが、そうだとすれば、まったく事実関係が間違っています。大学の資料によって明らかですが、事件の当事者は「高校生」ではないし、「国家による参拝強制」事件でも、まして「弾圧」でもありません。

 第2点(当時の教会)。明治維新後、宗教的神道の特定の神社が国営化され、次第にその儀式が国家行事となり、軍国主義の政権に利用された。当時の東京教区長シャンボン大司教らは参拝が信仰上の良心に反しない道を見出そうと努力した。軍国主義国家の迫害が避けられない事態にあって最大限の努力だった──。

 この説明も、靖国神社の歴史を語っているのだとすれば、間違いです。靖国神社は一般の神社とは起源も性格も異なります。バチカンはそこをよく理解し、国家神道神社(靖国神社)での国家的な儀礼と宗教としての神道の礼拝との区別を認めています。靖国神社は軍の管理下にあり、一般神社は内務省の管轄です。靖国神社の儀礼は、非宗教的な国民的儀礼だからこそ、バチカンは参加を許したのです。

 第3点(今日の教会の姿勢)。戦後、宗教法人になった靖国神社の国家管理がふたたび取り上げられているが、教会は過去の苦い体験をもとに、国家と宗教の問題を深めている。第二バチカン公会議は信教の自由を宣言し、宗教が国家と結びつくことを否定した──。

 前回の手紙でくわしく書きましたが、戦前・戦中の「苦い体験」=「迫害」というなら、これも間違いでしょう。また、信教の自由、政教分離の原則はカトリックの教えから生まれたのではなく、逆にヨーロッパのカトリック批判から生まれたものであり、論理が逆さまです。異教の宗教儀礼を排除しない1936年の指針は第2バチカン公会議の精神を先取りしたものと理解されます。

 第4点(昭和戦前期と現在の教会)。教会は靖国法案が信仰の自由への脅かしを内蔵していることを予見し、過去の苦い経験を繰り返さないことを求めている。宗教が国家権力からまったく自由であることなしには真の平和はあり得ない。だからこの法案に反対していこうとしている──。

 あとで書きますが、日本の教会は緩やかな政教分離主義の受益者であり、国家の宗教的無色中立性を求める絶対分離主義は自分の首を絞めることになります。いずれの国であれ、それぞれの宗教伝統を大切にしています。厳格な政教分離主義の本家本元と考えられているアメリカには、「全国民のための教会」と位置づけられる聖堂さえあります。国家に絶対的非宗教性を要求することは革命国家の発想であり、宗教者のすることではないでしょう。

 以上のように、濱尾氏の靖国論は間違いだらけに見えます。誤りだらけの歴史認識や他宗教理解に基づいて、正しい結論が導かれるはずはありません。

 はじめて日本にキリスト教を伝えたイエズス会は、学問を武器とする「神の軍隊」でした。学問を禁じた修道会もありましたから、じつに画期的な考えです。ところが濱尾司教の説明には、このイエズス会の学問的伝統がうかがえません。

 しかし、この非学問的反ヤスクニ論こそが教会指導者による反ヤスクニ運動の理論的出発点でした。


▢3 反天皇への転換点

 それから20年後の御代替わりに、政治運動はピークを迎えました。標的は天皇・皇室です。年号の変わり目に、司教たちは天皇観を一変させたのですが、転機を導いたのは、約1年前の昭和62年秋に鳴り物入りで開かれた第1回福音宣教推進全国大会でした。

 実行委員の一人として準備段階から参加された大司教様の論攷によると、

「生活と信仰の遊離」

「社会と教会の遊離」

 を克服するため、

「開かれた教会づくり」

 を目指すことが会議の目的でした(「『遊離』はあるのか?」=雑誌「福音宣教」昭和62年11月号、オリエンス宗教研究所など)。

 第2バチカン公会議(1962〜65)を受けて、信仰と宣教のあり方が見直されたのでしたが、注目すべきは会議の手法です。

 司教団の呼びかけに応じて各教区から刷新のための提案が寄せられ、課題が決定され、聖職者、修道者、一般信者代表が同じテーブルで討議し、司教団への答申がまとめられました。聖職者と信者の垣根が取り払われ、教会は「民主化」されたのでした。

 しかし第2バチカン公会議の文書に「民主化」を示唆するものはなく、明らかな逸脱でした。その象徴は若者によるフォーク・ミサで、どんちゃん騒ぎのなか、一般信者が司祭に聖体を授けました。

「開かれた教会づくり」

 はいわゆる解放の神学の影響を受け、俗を聖化する「刷新」ではなくて、神聖なる典礼を俗化し、教会に革命的変革をもたらす転換点となったのです(澤田昭夫『革新的保守主義のすすめ─進歩史観の終焉』PHP研究所、1990年)。

 そして「民主化」された教会が最初に攻撃したのが天皇でした。昭和天皇が崩御になり、多くの国民が悲しみに暮れた64年1月7日の当日、司教たちは耳を疑うような内容の談話と文書を発表しています。

 司教といえば、全国を16に区分する、教皇と直結した司教区の最高責任者ですが、司教たちの組織である司教団から信者宛の談話は、冒頭にたった一行の弔意を表したあと、掌を返すように、昭和が「相次ぐ戦争」の時代で、

「アジア太平洋地域で二千数百万人が犠牲になった」

「戦争は天皇の名において行われた」

 と批判し、さらに「昭和の過ち」に対する神の裁きを予告し、諸行事において天皇の神格化、絶対化などが行われることを戒めています。

 一方、司教たちの常設機関である司教協議会による聖職者宛の文書には弔意の表明すらなく、冒頭から

「明治以降の天皇制と結びついた国家神道」

 を批判し、要するに

「教会としては関わるな」

 と呼びかけています。

 2日後には司教協議会がきわめて直截(ちょくさい)に、諸儀式に信教の自由と政教分離の原則が厳守されることを首相に要望し、さらにこの年の秋には、「天皇の即位の儀式」に国費の支出はまかり成らん、と主張しています。

 ここには2つの問題があります。

 まず天皇・皇室に対する姿勢です。教会の教義は、人間は指導者を尊敬する義務がある、共同体には権威が必要である、と教えています。天皇こそは有史以来の日本の統治者であり、最高の権威ですが、「憲法教」の宣教師さながらに憲法擁護に熱心なはずの教会指導者は、憲法第1章に定める天皇の権威を認めようともしません。

 雑誌「福音宣教」掲載の論攷(「『天皇制』について」=「福音宣教」平成元年3月号)で大司教様は

「天皇制に代表される日本文化の欠点は閉鎖性、排他性、独善性にある」

 と指摘し、

「教会としては偶像崇拝に通じる天皇・天皇制の絶対化に反対する。侵略されたアジアへの償いと関係を深める過程で天皇・天皇制の意味と役割は相対化される。日本の福音化の最大の課題は天皇制の福音化である。そのとき神の国は完成する」

 と表明しています。

 大胆にも宮中祭祀のキリスト教化さえ主張されています。

 しかし皇室は排他性どころか、漢字、仏教、雅楽、そしてキリスト教など海外文化受容の中心でした。日米開戦後、東条内閣は皇祖神を絶対化するような合理主義的神道論を正統としましたが、これに在野の神道人が猛然と反対したという知られざる歴史もあります。

 歴史の一時期に見られた天皇の絶対化は日本の文化的伝統ではなく、欧米のキリスト教文化の影響と理解されます。司教たちの天皇批判は教義的にも歴史論としても間違っています。

 もう1点は政教分離ですが、教会は緩やかな政教分離主義の受益者であって、絶対分離主義の主張は自分の首を絞めることになるでしょう。

 たとえば、岩手県奥州市(旧水沢市)にあるキリシタン領主・後藤寿庵の館跡はいまでは市有地ですが、ここには昭和初年に建てられた寿庵の廟堂があり、毎年、キリスト教式の大祈願祭が地元教会の主催で行われます。市長は交際費からご祝儀を支出します(市公式サイトなど)。

 また、今年2月に焼失した長崎・五島の江袋教会は官民の協力で明治の創建時の姿が復元されることになったと伝えられます。〈http://www.city.oshu.iwate.jp/icity/browser?ActionCode=genlist&GenreID=1147308219906〉

 公機関が文化財保護などの観点から支援するのは望ましいことですが、司教たちが主張する絶対的分離主義に立てば、これらは完全な違憲行為です。つまり、日本の教会指導者はみずからの行為には蓋をし、二枚舌で「裁き主」を演じています。

 そもそも国家に無色中立性を要求するのは宗教の否定につながる自殺的行為でしょう。

 自己矛盾の政治的態度が従来といかに異なるかは、古いカトリック新聞をひもとけば明らかです。

 たとえば昭和2年元日号は、大正天皇の崩御に際して、一面トップに

「忠誠なる精神をもって皇室および国家のために祈願、黙祷するのみ」

 という哀悼の辞と祈祷文を載せています。翌年の昭和天皇の即位大嘗祭当日にはシャンボン東京大司教奉献の大ミサが挙行され、奉祝行事が行われました。

 戦後、「迫害」のくびきを脱した教会が反天皇に豹変(ひょうへん)したわけではありません。それどころか、教会こそ天皇制存続のキーマンでした。焼却が噂されていた靖国神社を救ったことで知られる上智大学のビッテル神父(教皇使節代行)は、昭和天皇の戦争責任追及に執念を燃やすキーナン検事とたびたび面談し、天皇制存続および訴追断念を認めさせたといわれます(『マッカーサーの涙──ブルノー・ビッテル神父にきく』朝日ソノラマ編集部編、1973年)。

 司教たちの天皇批判は戦前のみならず、教会の戦後史をも否定します。

 歴史の区切り目にビッテル神父が大きな役割を果たせた背景には、皇室と教会との密接な関係がありました。

 明治以来、キリスト教会を陰に陽に支えたのが皇室です。社会事業の最大のパトロンだったし、司教たちが戦前の「迫害」の象徴と考える昭和7年の上智大学生事件を解決させたのも皇室の権威でした。

 お側に仕える信者もいます。

「軍服の修道士」と呼ばれた山本信次郎海軍少将は、昭和天皇の皇太子時代に御用掛となり、御外遊に随行し、即位後にわたって近侍しました。各地で講演し、御日常と御盛徳を語っています(山本正『父・山本信次郎伝』中央出版社、1993年)。皇室の藩塀であり、随一の広報マンでした。

 しかし、今日の指導者は敬意や感謝のかけらもなく、一面的な歴史理解で皇室を攻撃しています。一方、教皇ヨハネ・パウロ2世の追悼ミサには天皇の名代として皇太子殿下が参列されました。

 無遠慮に難癖をつけながら利用する。愚弄行為は神に仕える者のすることとは思えません。


▢4 白柳大司教の戦争責任告白

 平成の時代になると、日本の教会指導者たちは反戦平和運動に傾斜していきます。先駆けとして顔を出すのはやはり白柳大司教でした。

 昭和61年のアジア司教協議会連盟総会に際する東京カテドラルでのミサ説教で、白柳・日本司教協議会会長は

「戦争責任の告白」

 を行いました。

「日本の司教は、日本が大戦中にもたらした悲劇について、神とアジア太平洋地域の兄弟たちに赦しを願う。戦争に関わったものとして、この地域の二千万を超える人々の死に責任をもっています。いまも痛々しい傷を残していることについて深く反省します」

 大司教の本心はどこにあるのでしょうか。カトリックの教義は

「人を殺すな」

 と戒める一方で、正当防衛は義務だとも教え、条件つきで防衛戦争を容認しています。

 歴史を振り返れば、日中戦争の発端となった盧溝橋事件は中国軍による挑発があったことが知られています。真珠湾攻撃に始まる日米戦争を連合国は侵略戦争と認定しましたが、日本政府には経済的挑発に対する自衛戦という大義名分がありました。マッカーサーは戦後、日本の戦争目的が防衛のためだったとアメリカ議会で証言しています。

 侵略か自衛か、大司教の告白は判断を避け、日本がもたらした戦争ではなく悲劇について反省したのですが、それなら

「戦争責任」

 とはいえません。戦争は相互殺戮、相互破壊ですから、

「日本がもたらした悲劇」

 だけの告白は不公正です。

 すでに戦争は講和条約と賠償によって半世紀も前に終わっているのに、根拠も不明な

「2000万を超える死」

 についての責任をなぜ一方的に表明しなければならないのですか。

 けれども司教たちは、この大司教の告白を継承発展させ、戦後50年という節目に、公式に過去の歴史を反省し、平和への決意を宣言したのでした。

 平成7(1995)年2月、その名も

「平和への決意」

 と題する司教団教書は、絶対的平和主義の立場に立ち、日本人と教会の戦争責任をそれぞれ指摘し、

「日本軍は朝鮮半島や中国、フィリピンなどで、人々の生活を踏みにじった」

「残虐な破壊行為で無数の民間人を殺した」

「強制的に連行されてきた朝鮮人や元従軍慰安婦は、日本が加害者だったことを示す生き証人だ」

 などと追及しています。

 この教書が発表されることになった理由を、教書は、教皇ヨハネ・パウロ2世が

「教会は過去の誤りなどを悔い改めて、みずからを清めるよう、その子らに勧めることなくして、新しい千年の敷居をまたぐことはできない」

 と語った使徒的書簡「紀元2000年の到来」に求めています。

 しかし教皇は信仰の完成を呼びかけたのであって、悔い改めに名を借りた戦争責任追及とは無縁です。

 また、歴史の真実を見極めるというなら、

「強制連行された朝鮮人や従軍慰安婦」

 は削除されるべきでしょう。

「朝鮮人の強制連行」説は北朝鮮系の研究者による政治的プロパガンダが典拠であり、史実でないことが研究者の間では常識となっています。数年前、在日韓国人組織が日本人の歴史認識を正すことを目的に発行した小冊子などは強制連行への言及がありません。まして強制連行が立証された慰安婦が一人でもいるのでしょうか。

 しかし歴史を見極めるどころか逆に歪める司教団教書は政治運動本格化のジャンプ台でした。教書にはその後の慰安婦問題の謝罪要求、原発反対、自衛隊海外「派兵」反対などを予感させる7つの実現項目が並んでいます。


▢5 本格化する日本批判

 先兵は左傾化の本丸とされる正義と平和協議会(正平協)です。司教協議会、社会司教協議会のもとで社会問題に取り組んでいる正平協は、司教団教書の2カ月後、

「新しい出発のために」

 という声明を発表します。

「天皇制国家主義が支配した日本がアジア太平洋地域で侵略戦争を推し進め、2000万人以上の兄弟姉妹を殺し、労働と性労働に強制連行した。日本は日清戦争以来、侵略を行った。日本の教会は侵略戦争に手を貸した」

 これが宗教家の文章かと思うほど、露骨な表現で、天皇批判、侵略戦争批判が始まりました。

 前年に枢機卿となった白柳師は、教皇が昭和56年に広島で語った

「過去を振り返ることは将来に対する責任を負うことです」

 を引用し、戦争協力の歴史の反省が教皇の意向であるかのように説明していますが(『歴史から何を学ぶか──カトリック教会の戦争協力・神社参拝』カトリック中央協議会福音宣教研究室編著、1999年)、教皇がアピールしたのは核兵器廃絶であって、

「日本による侵略戦争」

 の告発ではありません。

 しかし正平協は、なぜ戦争が引き起こされたのか、というもっとも基本的な歴史検証を欠落させたまま、観念的で非実証的な日本批判を展開し、さらに戦後の「経済侵略」、自衛隊の「海外派兵」にまで矛先を向けています。

 悲しいかな、人類の歴史は戦争の歴史です。日本人が「戦後」と呼ぶ60年間にも世界では殺戮と破壊が続いたし、中国の軍備増強や北朝鮮の核開発は世界的関心事です。

 60年前の戦争を特別視するのは、目の前の事象から目をそらすことになりますが、もしやそれが司教たちの目的でしょうか。

 正平協は、戦後日本のアジア進出を「搾取」「経済侵略」と決めつけていますが、それならコロンブスの新大陸発見以来、カトリック信者による身の毛もよだつような殺戮と破壊が行われ、植民地支配の続いた中南米地域で、日本が「侵略」した地域以上に発展した国があるでしょうか。正平協の批判は客観性に欠け、偽善的です。

 けれども、司教たちの日本批判はさらに具体的にエスカレートします。たとえば慰安婦問題です。平成8年、司教協議会社会司教委員会は、

「日本帝国陸軍が作った慰安所制度は国際法に違反する。政府は法的責任を認めよ」

「被害者に補償せよ」

「謝罪せよ」

 と迫る国連人権委員会クマラスワミ勧告の受け入れを首相に要望しました。

 しかしこの勧告は挺身隊と慰安婦を混同し、総数を20万とし、大部分は殺された、とリポートするなど、ずさんな部分があることが指摘されています(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社、1999年など)。類似の制度はドイツやイタリア、アメリカ、イギリス、ソ連などにもあったことが知られており、日本だけが謝罪し、賠償することは公正を欠きます。

 しかも戦争中、朝鮮および朝鮮人はもっとも協力的な戦友であり、慰安婦も同様でした。慰安婦出身の女兵伝説さえあるといいます。けっして

「性の奴隷」

 ではありません。

 また、個人補償問題は国交正常化によって日韓間では解決済みです。日本が補償を拒んだ事実もありません。正常化交渉で日本は個人補償を繰り返し提案しましたが、韓国政府が同意しなかったのです(高崎宗司『検証・日韓会談』岩波書店、1996年)。

 日本が謝罪していないわけでもありません。宮沢首相も村山首相もお詫びを述べています。

 最初に慰安婦問題が火を噴いた15年前、宮沢首相は抗議デモが荒れ狂う韓国で

「謝罪」

 を迫られました。首相訪韓は以前から予定され、北朝鮮の核武装や南北統一問題を協議するはずでしたが、本題はすっかりかすんでしまいました。

 日韓が連携するアジア外交の完全な失敗で、誰が漁夫の利を得たのかは明らかです。

 国連人権委のあるジュネーブでは日本人修道女が長期間、組織的にロビー活動をしたといわれます。

 慰安婦問題を断罪した「2000年女性国際戦犯法廷」の主催団体は発足当初、カトリック中央協議会や正平協と同じ住所に連絡先があった、団体の発起人の一人は正平協のメンバーで、「戦犯法廷」は人脈的に北朝鮮の中枢につながっている、とも指摘されますが、日本の教会は神の館を隠れ蓑にした北朝鮮の工作機関なのでしょうか。


▢6 侵略戦争史観にこり固まる

 教会指導者の日本批判は国旗・国歌にも向けられました。国旗・国歌法が成立、施行されたのは平成11年夏ですが、正平協はその約半年前、法制化反対を表明し、同法成立後はカトリック学校に対して国旗掲揚・国歌斉唱の再考を促しています。

 正平協は、日の丸に関しては

「アジア太平洋地域の人々にとって軍事的侵略のシンボルとして位置づけられている。日本は侵略・植民地化の責任を認めず、戦後補償もしていない」と非難し、君が代に関しては「歌詞そのものが天皇を日本の統治者として讃美するもので、主権在民の原則に反する」

 と主張しています。これほどまでに「侵略」戦争史観、反天皇にこり固まっているとは驚きです。

 キリストは罪の追及ではなく、赦しを教えています。

 平和条約締結後、フィリピンが真っ先に日本人戦犯の赦免・減刑に動き出したのはこの精神からでした。キリノ大統領はある日本人が戦犯赦免を願い出たとき、

「多くの国民は日本人を赦せないと思っている。しかしキリスト教精神で何とか赦そうとしている」

 と涙ながらに答えたといいます。大統領は戦争で妻子を失っていました。

 崇高な赦しの精神を正平協はなぜ語ろうとしないのでしょう。

「侵略」のシンボルとしての日の丸がどうしても認められないなら、同じ論理で異教文明破壊のシンボルとしての十字架も認められないことになります。

 かつて新大陸で展開されたキリスト教徒による先住民殺戮がどれほど残虐を極めたかは、ラス・カサス神父が『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波書店、1976年)に詳細に記録しています。

 救われるのは信者の良識です。

 昭和天皇が戦後の地方巡幸で訪れたカトリック系社会施設では公然と国旗が掲揚されていました(大金益次郎『巡幸余芳』新小説社、1955年)。20年前の教皇来日のとき、広島、長崎の信者は日の丸の小旗を振って、歓迎しました。今年2月、バチカンに詣でた日本人信者たちが日の丸を手に教皇に謁見したことは外国プレスも報道しています。

「君が代」についての正平協の理解は単純すぎます。

 君が代の歌は古今集に「詠み人知らず」として収められているほど古く、広く知れ渡っていた賀の歌です。君が代の「君」は天皇とは限らず、朝廷に用いれば聖寿万歳をことほぐ意味になり、民衆に用いれば年長者の長寿を祝う歌ともなりました。神事や仏事、宴席で盛んに歌われ、歌い継がれ、それゆえ近代において国歌の地位を自然に獲得したのでした(山田孝雄『君が代の歴史』宝文館、1956年など)。

 司教たちは近年、ますます過去への執着を深め、日本批判を募らせています。一昨年、司教団は

「戦後60年平和メッセージ、非暴力による平和への道」

 を発表しました。

 メッセージはこの年春に中国や韓国で高まった反日運動を取り上げ、その背景に日本の歴史認識や首相の靖国参拝、憲法改正論議などの問題があると指摘し、さらに政教分離原則を緩和する憲法改正の動きを戦前の復活になりかねないと牽制しています。

 司教たちの批判はつねに日本にだけ向けられています。このメッセージも、中韓両国の反日の原因は日本だと理解するばかりで、中国国内の権力闘争の道具として靖国問題が利用されてきた側面を見落としています。

 中曽根内閣時代、首相の公式参拝に中国が批判したのは、改革派の胡耀邦に反発する保守派が靖国参拝をたたくことで胡耀邦の追い落としをはかったからだといわれます。

「反日」江沢民と異なり、対日重視政策をとる胡錦涛は政権成立後、歴史問題を後景化させる方針でしたが、対日強硬派は小泉参拝をきびしく批判し、胡錦涛政権を弱腰と攻め立てました(清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文藝春秋、2003年など)。

 つまり中国の靖国問題は中国の内政問題としての側面をもっています。

 となると、この年秋の小泉首相の靖国参拝、昨年の終戦記念日の小泉参拝に対する司教たちの抗議文は中国の対日強硬派を元気づけるものです。

 ビッテル神父が

「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う義務がある」

 とマッカーサーに進言したように、国家が殉国者を慰霊するのは当然です。現教皇ベネディクト16世はイラクで落命したイタリア人兵士を

「わが息子」

 と称え、追悼しました。

 バチカンの方針と一致しない異端化した靖国参拝批判は日本の国益のみならず、アジア地域の平和に反します。


▢7 平和とは正義の実現である

 過去40年近く、司教たちは教会が戦争に協力した過去を反省するのに熱心ですが、あってはならない戦争とはいえ、ひとたび戦端が開かれれば、祖国防衛のため国民は立ち上がらざるを得ません。

 教会が反省すべきは開戦後の戦争協力ではなく、それ以前の戦争回避への努力不足でしょう。

 ビッテル神父は昭和12年秋、近衛首相の要請を受けて渡米し、アメリカ人に日本人の武士道という道徳観を説き、戦争回避を訴えました。

 日米開戦前夜、来日したアメリカ・メリノール宣教会のウォルシュ司祭とドラウト神父は

「戦争は何としてでも阻止しなければならない」

 と真剣に論じたといいます(前掲『マッカーサーの涙』)。二人の来日こそ、日米交渉の幕開けでしたが、交渉は成功しませんでした(須藤眞志『日米開戦外交の研究─日米交渉の発端からハル・ノートまで』慶応通信、1986年など)。

 当時、日米の経済関係は親密でした。サイデンステッカー・コロンビア大学名誉教授によれば、アメリカ人の対日観はけっして悪いものではなく、大正末期の排日法もカリフォルニア・ロビーの議会工作がなければ成立しなかったといわれます(「アメリカ人は日本をどう見てきたか」=『日米の昭和』アステイオン、ディダラス国際共同編集、TBSブリタニカ、1990年)。

 日米関係が急速に悪化した一因は、蒋介石の巧みな政治工作でした。

 日中戦争で劣勢に立つ蒋介石は宋美齢夫人の長兄、キリスト者でハーバード大卒の親米派・宋子文をワシントンに派遣して、援助獲得交渉に乗り出し、夫人も流暢な英語でアメリカの孤立主義的世論を中国支援へと変えたのです。

 今日の慰安婦をめぐるアメリカ議会工作を彷彿させます。

 さて、最後になりました。岡田大司教様、平和とは何でしょう。

 教皇ベネディクト16世は

「平和は単なる武力紛争の不在ではなく、正義の実現である。神の恵み、賜物であり、その実現を妨げているのは偽りである」

 と訴えています(2006年新年メッセージ)。

「20世紀には常軌を逸したイデオロギーと政治体制が計画的に真理を歪曲し、夥しい人々を搾取、殺害し、家族や共同体を抹殺した」

 とも述べていますが、司教様方はその前世紀を引きずり、意図的に歴史を歪め、常軌を逸した日本批判を繰り返していませんか。偽りの政治運動が平和どころか、危機をもたらすことは明らかでしょうに。

 それとも危機をお望みなのですか。

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