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神嘉殿新嘗祭の神饌は「米と粟」──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」3(2019年7月14日)

(画像は荷田在満『大嘗会便蒙』から。「御飯二杯」が米御飯と粟御飯である)


 歴代天皇は日々の祈りを欠かせられなかった。清涼殿での石灰壇御拝がそれだが、皇室第一の重儀とされてきたのは新嘗祭である。新穀を捧げて祈るとされているが、新穀とは稲ではない。稲だけではない。

清涼殿の石灰壇


 昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫・元宮内省掌典は、「この祭りにもっとも大切なのは神饌である」と指摘し、「なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊(かし)いだ、米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥と、新米をもって1か月余を費やして醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の新酒である」と解説している(前掲「皇室祭祀百年史」)。

八束清貫「皇室祭祀百年史」所収の『神道百年史』


 案外、知られていないが、宮中三殿での祭祀は米のみを神饌とする。宮中三殿での新嘗祭は米が供され、他方、神嘉殿の新嘗祭のみ米と粟である。神嘉殿での新嘗祭の特異性がうかがえる。それなら粟とは何であろうか。なぜ粟なのか。

 当然ながら、御代始に斎行される、天皇一世一度の大がかりな新嘗祭である大嘗祭も、同様である。ただ、祭式の詳細は公には伝わっていない。「大嘗会者、第一之大事也、秘事也」(卜部兼豊「宮主秘事口伝」、元治元年=1415年)だからだ。

 秘儀とか秘事とされるのは、密室の空間でオカルト的な宗教儀式を行うという意味ではない。新帝が神前で人知れず、ひとり行うのが秘事なのであり、もっとも中心的な儀礼は、「凡そ神国の大事ハ大嘗会也。大嘗会の大事ハ神膳に過ぎたることハなし」(一条経嗣「応永大嘗会記」、応永22年=1415年)といわれるように、大嘗宮での神人共食の儀礼、すなわち神饌御親供、御告文奏上、御直会にある。

 神道学者たちの多くは「稲の祭り」といいたがる。しかし神饌は稲だけではない。

 もっとも詳しいとされる『貞観儀式』には「亥の一刻(午後9時ごろ)、御膳(みけ)を供(たてまつ)り、四刻(10時半ごろ)これを撤(さ)げよ」と記しているだけだ。登極令附式は大嘗宮の儀の詳細な祭式を省略している。宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)には、秒刻みで祭儀の進行が記録されているが、「天皇陛下が神饌を御親供になった」などと記述するのみである。

登極令


 昔も今も秘儀であることに変わりはない。

 平成元年暮れ、政府は閣議で、概要、「大嘗祭は稲作中心社会に伝わる収穫儀礼に根ざしたもの」という理解を口頭了解したが、誤りであろう。

 天皇の祭祀は一子相伝とされ、詳細を知るのはごく一部の人たちだけである。一条兼良の「代始和抄」(室町後期)には、「秘事口伝さまざまなれば、たやすくかきのする事あたはず。主上のしろしめす外は、時の関白宮主などの外は、会てしる人なし」とある。


 いまも祭儀に携わる関係者は、実際の祭式や作法について、先輩から口伝えに教わり、備忘録を独自に作成し、「秘事」の継承に務めてきた。むろんこれらは公開されない。

 しかし実際には、研究者たちによって、秘儀の中身は存外、知られている。

「儀式」「延喜式」「後鳥羽院宸記」など、多くの文献は漢字だらけで簡単には読めないが、なかには仮名交じりで記録されたものもある。それによると、秘儀中の秘儀である大嘗宮の儀において、新帝が手ずから神前に供し、御告文奏上ののち、みずから御直会なさるのは米と粟の新穀であることが一目瞭然である。

 京都・鈴鹿家に伝わる「大嘗祭神饌供進仮名記」(宮地治邦「大嘗祭に於ける神饌に就いて」=『千家尊宣先生還暦記念神道論文集』昭和33年所収)には、

「次、陪膳、兩の手をもて、ひらて一まいをとりて、主上にまいらす。主上、御笏を右の御ひさの下におかれて、左の御手にとらせたまひて、右の御手にて御はん(筆者注。御飯。読みは「おんいい」が正しいか)のうへの御はしをとりて、御はん、いね、あわ(ママ)を三はしつゝ、ひらてにもらせたまひて、左の御手にてはいせんに返し給ふ......」

 などと、枚手と御箸を用いる米と粟の献饌の様子が、生々しく記述されている。

 とすれば、神嘉殿の宮中新嘗祭、大嘗祭の大嘗宮の儀は間違いなく、稲の祭りではなくて、米と粟の祭りである。それなら、なぜ米だけではないのか。

 天孫降臨神話および斎庭の稲穂の神勅に基づき、稲の新穀を捧げて、皇祖神に祈るのなら、粟は不要である。なぜ粟が必要なのか。おそらく皇祖神のみならず、天神地祇を祀るからであろうが、それなら、なぜ天神地祇なのか。

 最古の地誌とされる「風土記」には粟の新嘗が記録されている(『常陸国風土記』)。とすれば、粟を神聖視する民が古代の日本列島にいたことが分かる。いや、話は逆であって、柳田国男が繰り返し書いているように、日本列島はけっして米作適地ではないし、したがって日本人すべてが稲作民族ではない。柳田は「稲作願望民族」と表現している。


 むしろ粟こそ、古代日本人たちの命をつなぐ聖なる作物ではなかったか。

 わが祖先ばかりではない。文化人類学の知見によれば、畑作農耕民である台湾の先住民には粟はとくに重要な作物で、粟の神霊を最重視し、粟の餅と粟の酒を神々に捧げたという(松澤員子「台湾原住民の酒」=『酒づくりの民族誌』所収、1995年)。


 台湾では粟の酒はいまもふつうに売られている。民俗学者に聞いたところでは、日本でも大正のころまで、粟や稗の酒がごくふつうに自家醸造されていたという。各地の神社では粟の神事が行われていたに違いない。だが、いずれもいまは聞かない。いつの間にか消えたのである。そして大嘗祭が米と粟の儀礼であることも忘れられている。(つづく)


補注 この記事を書いたあと、日吉大社(滋賀県)の「粟津の御供」のことを知りました。詳細は先般、当メルマガに書いたとおりです。


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