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「平成皇室論」などあり得ない──ご即位20年記者会見を読む(2009年12月01日)


 今日から12月です。

 このメルマガの読者の皆さんならご承知の通り、歴代天皇が第一のお務めと考えてきた宮中祭祀は、寒さがつのるこの時期に集中しています。先月は新嘗祭があり、今月中旬からは賢所御神楽、天長祭、大正天皇例祭と続きます。

 宮内庁当局は昨年暮れのご不例以降、陛下のご健康に配慮するため、ご公務ご負担軽減策に着手しましたが、じつのところご公務ご日程は少なくとも件数では減らず、その一方で祭祀のお出ましが激減しています。

 この祭祀簡略化がご負担の軽減になるかといえば、そんなことはあり得ないでしょう。陛下はご代拝のあいだ、御座所でお慎みになり、敬虔な祈りのときを過ごされているはずだからです。

 今上陛下は歴代天皇と同様に、祭祀王としてのご自覚を強く持たれているのでしょう。ご即位以来20年、皇后陛下とともに、祭祀について学ばれ、正常化に務められたことが側近の記録などからうかがえます。

 たとえば、紀元節祭です。昭和20年の神道指令との関連で廃止され、その20年後に建国記念の日が法制化されましたが、宮中の祭祀としては復活されていません。しかし陛下は毎年2月11日に欠かさず三殿をお参りされています。当局にとっては祭祀の位置づけはないのでしょうが、陛下には御拝の日なのです。

 昨年の年末から今年1月にかけて、元旦の四方拝以外、陛下のお出ましはなかったようです。ご不例直後ですから、致し方なかったでしょうし、陛下としてもご無念に違いなかったでしょうが、一年を経たいまはいかがなのでしょう。先週号で申し上げましたように、1日の旬祭をはじめ、今年のお出ましはめっきりと減りました。

 さて、今週は、以上のこととも関連しますが、ご即位20年に際しての両陛下の会見について書こうと思います。

会見に臨まれる陛下@宮内庁

▽1 戦後の憲法か、悠久の天皇史か


 会見の質問は、宮内記者会の代表質問が2つ、外国プレスが1つ、関連質問が1つ、の計4問ですが、「ご即位20年」の会見で当然ではあるにしても、「20年」にこだわりすぎているように見えます。

 つまり、記者からは昭和もしくは戦前との相違が暗に強調され、これに対して、陛下はむしろ悠久なる歴史の連続性を述べられています。

 たとえば、記者会の質問の第1問は「平成の時代に作り上げてこられた『象徴』とは、どのようなものでしょうか」「平成の時代を振り返っての気持ち、お考えをお聞かせください」というものです。

 この質問はむろん現行憲法が大前提に置かれています。ちょうど橋本明・元共同通信記者の『平成皇室論』がそうであったように、です。戦後の現行憲法が天皇を「象徴」と規定したことを議論の出発点とし、そのうえで両陛下が「象徴」天皇像を模索し、実践されてきた、という理解です。

 この発想に抜けているのは、なぜ現行憲法は天皇を「象徴」と規定したのか、という憲法制定史の観点です。なぜ占領軍は「象徴」という概念を持ち出したのか、です。ともすれば占領軍の発案でのように思われがちですが、そうではないでしょう。

▽2 天皇の地位と憲法の規定が逆転


 小堀桂一郎先生が雑誌「正論」12月号への寄稿文に書いているように、旧憲法下においても、「象徴」概念が通用していたのでした。新渡戸稲造や和辻哲三の文章に「象徴」が登場することを小堀先生は指摘しています。

 新渡戸は英語圏の友人たちに日本の立場を理解させるために、「象徴」という概念を用いた。それが逆に、現行憲法に反映されたことは十分にあり得ます。

 小堀先生によれば、新渡戸は「天皇は国民の代表者であり、国民統合の象徴である」と満州事変の前夜に英文で書いているようですが、この「象徴」概念は当然、神代にまでさかのぼる天皇の歴史が前提となります。

 つまり、天皇の地位と憲法の規定との前後関係が逆転しているのです。記者たちは、現行憲法を前提とし、憲法上、「象徴」と規定される天皇のあり方を陛下に質問しているのですが、古来の天皇のあり方を前提として、憲法に「象徴」と定められたのだとすれば、記者たちの質問はまったく意味をなしません。

 実際、陛下は、記者の質問に、「平成の象徴像というものをとくに考えたことはありません」と答えられています。当然でしょう。

「平成流」という表現をマスメディアはしばしば使用しています。今上陛下が皇后陛下とともに新しい皇室像を作り上げてこられた、という見方で、橋本さんもそのような理解をする1人ですが、陛下は「級友」の理解を否定されたことになります。

 もとより、皇位を継承した天皇個人によって皇室像が変わる、などというようなことはあるべきことではありません。陛下は会見のなかで、苦難の時代を生きられた昭和天皇に思いを馳せ、歴史を引き継ぐことの重要性を指摘しています。

「平成流」も「平成皇室論」もあり得ないのです。

▽3 争わずに受け入れる帝王学


 もう1つ気になるのは、記者会の質問のなかに、陛下の言葉を言質に取っているかのような姿勢が見えることです。

 質問は憲法の条文をひいたあと、陛下がご結婚50年会見で述べられた「象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましい在り方を求めて今日に至っています」という言葉を続けて引用していますが、いかにも天皇を憲法の枠内に押し込めようという意図さえ感じられます。

 そこで私が思い出すのは、後水尾天皇と徳川三代との関係です。

 後水尾天皇の前半生は、戦国の世、武の覇者となり、下克上の最終段階で朝廷をも従えようとした家康らと熾烈なつばぜり合いを強いられました。たとえば、「禁中並公家諸法度」は第一条で、天皇のお勤めは学問である、と規定し、天皇の政治不関与を、有無をいわさずに迫っています。


 古来、日本では天皇の意向が法律だったのですが、「諸法度」は皇位を武家が制定する法の下位に置くもので、天地が逆転したのも同じことでした。

 若き日には怒りを隠さなかった後水尾天皇ですが、後年は円熟され、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践され、皇室の尊厳を守られました。「広大無辺な大詩人」と形容する批評家もいるほど、後水尾院は和歌の道に励み、多くの著述を残されました。幕府が制定した「禁中並公家諸法度」をもっともよく守られたのが後水尾天皇でした。

 至難の帝王学を示された結果、やがて武の覇王である徳川氏が逆に、朝廷に屈服します。もっとも象徴的なのは、徳川光圀が『大日本史』を編纂するに当たって、後水尾天皇の許しをたまわったことです。そして、その意思は明治維新の源流となったといわれます。

 今日のジャーナリズムは天皇ご自身の言葉を盾に、国民主権が大原則だとされる憲法の遵守を天皇に迫り、陛下は争わずに受け入れる帝王学を実践しておられる。しかしその結果はどうなるのか、です。

 次回は、この会見にも取り上げられている皇位継承問題について書きます。


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