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帝国憲法発布を記念する讃美歌づくり?──完全な礼拝の自由を得る(平成19年12月5日水曜日)


 ブログの読者のお一人である佐藤雉鳴さんが、2冊目の著書を出されました。前回の本は『本居宣長の古道論』、今回は『繙読「教育勅語」』で、勅語に記されている「中外」の解釈が1世紀以上にもわたって、「国の内外」と誤読されている、戦前の日本が誤解された一因がここにある、と指摘しています。

 そのエッセンスは勅語衍義批判という形で人形町サロンに掲載されていますので、ご興味のある方はどうぞお読みください。
http://www.japancm.com/sekitei/note/2007/note39.html

◇議事堂で感謝会

 著書の方は、まえがきの冒頭、築地界隈を散策しながら、明治維新の時代風景を描き出し、憲法発布、教育勅語渙発へと話を進めています。

 私が興味を持ったのは、明治22年2月の帝国憲法発布、とりわけ信教の自由の明記を大いに喜んだ、というくだりです。というのも、今日のキリスト教指導者たちは、旧憲法の信教の自由は条件付きであって、不十分であった、という批判がもっぱらだからです(「信教の自由と政教分離」日本カトリック司教協議会ら編、2007年など)。

 当時の新聞に載っている、ということなので、佐藤さんの助言にしたがって、さっそく調べてみると、ありました。まずは「時事新報」、2月7日付、2面、「憲法発布式における市中の賑わい」と題して、次のように書かれています。

 「キリスト教信者は今度の盛典を祝せんとて、当日、午前8時を期し、各町部の会堂に参集して、讃美歌を唱え、祈祷をなし、皇帝の万歳を祝したてまつらんとの手はずなるが、前代未聞の大典なればとて、さらに新詠の讃美歌をつくらんとの計画もありという」

 新しい讃美歌までつくるというのですから、喜びはひとしおだったのでしょう。

 発布当日はどうだったか、というと、翌12日付の4面に「名古屋の11日」という記事があり、「耶蘇教信徒は議事堂に会して感謝会を開き、委員を選び、電信によりて宮内大臣に祝詞を呈し……」と伝えています。

◇聖体行列を警察も敵視せず

 キリスト教徒らはいったい何をそんなに喜んだのでしょう。

 小崎弘道というプロテスタントの牧師がいます。東京・霊南坂教会の設立者、同志社の総長です。昭和13年に出た『日本基督教史』(小崎全集2)を読むと、とくに信教の自由のことが最大の関心事であったことが分かります。

 「思想、集会、信教の自由を保障せられたことは、大いに慶賀すべく、ことに信教の自由においては、枢密院においてすこぶる強硬なる反対論があったにもかかわらず、伊藤公らの尽力により、この一項の掲げられたことは、吾人キリスト信徒の大いに感謝せねばならぬところである」

 なぜ信教の自由について、それほどに感謝すべきこととされたのか。その解説をしているのは、ヨハネス・ラウレスの『日本カトリック教会史』(中央出版社、昭和31年)です。


 第11〜13章では、幕末・明治維新期の宣教師の再来日、潜伏キリシタンの発見、迫害、追放がつづられています。禁教が解かれた後も、キリスト教は黙許されただけでした。

 そして明治憲法の発布により、完全な礼拝の自由が認められ、キリスト教の布教に対する障害が取り除かれたのです。その最初の果実は、翌年3月、日本・朝鮮両管区長による宗教会議で、浦上のキリスト教徒発見第25回記念祭とともに長崎で開かれました。

 会議に先立って、浦上から大浦教会まで聖体行列が行われましたが、警察も「わずかの敵意さえ示さなかった」のでした。

◇鰻登りに増える信者

 ラウレスの史論には興味深い数字が載っています。カトリック信者の数の推移です。今日のカトリック指導者は昭和7年の上智大学生靖国参拝拒否事件をきっかけに、軍部と世論による迫害、教会の存亡に関わる気危機に陥った、などと主張していますから(「非暴力による平和への道」司教協議会ら編、2005年)、さぞかし信者数が減ったのだと思いきや、まったく逆です。

 1891年  44,505人
 1900年  55,091人
 1910年  65,107人
 1931年  96,323人
 1941年 121,128人

 憲法発布から50年で3倍近くにまで信者数はうなぎ登りに増えています。これでもなお「迫害」を主張しなければならないのは、何か別な理由があるのではないでしょうか。

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