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祭祀破壊を知りつつ沈黙する人たち(2009年3月10日)


 拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』を読んでくださったある読者が、「入江日記を相当、読み込んだね」と感想をおっしゃってくれました。

 私が入江日記を何度も読み直したのは事実ですが、そのことはなんの自慢にもなりません。むしろ、日記の公刊から20年になろうとする今ごろになってという思いを、私自身は強く持っています。

▽1 知っている人は知っていた


 私が入江日記の存在を知ったのは、平成3(1991)年に朝日新聞社から発刊された直後だったと思います。ときどきお会いしていた皇室ジャーナリストが「いま読み込んでいる」としばしば話してくれたものです。

 けれども、その記者によると、「『たっぷり寝たので気分がいい』と繰り返し書いている」ということだったので、さぞかし退屈な日記なのだろうと思いこみ、読む気にもなりませんでした。私だけでなく、おそらくその人も、宮中祭祀の簡略化に関する一級資料である、とは夢にも思わなかったのでしょう。

 しかし、この入江日記公刊のはるか以前から、祭祀破壊の事実を、知っている人は知っていたのです。

 拙著に書いたように、昭和天皇の側近中の側近である入江侍従長によって旬祭が年2回に削減されたのは昭和43(1968)年、新嘗祭が簡略化されたのは45年からです。ご在位50年を翌年に迎えようとする昭和50年には簡略化が本格化します。

 側近の日記には、新嘗祭の夕(よい)の儀が終わったあと、午後9時ごろ、関係者がこっそりと家路についたことが記録されています。「こっそり」という態度にやましさが見え隠れしています。暁の儀まで行えば翌日の午前1時までかかりますから、9時で帰れるはずはないのです。

 いくら秘密裏に行われたとしても、天網恢々、見ている人がいなかったわけではありません。それでも表面化することはなかったのでした。

 拙著は、57年の暮れ、現役の掌典補が学会で問題提起したのち、表沙汰になったと書いていますが、じつはそれ以前に新嘗祭の簡素化を指摘したジャーナリストがいました。

 読売新聞の社会部記者だった星野甲子久さんの『天皇陛下の三六五日─ものがたり皇室事典』(東京ブレインズ、昭和57年)には、まさに新嘗祭の簡略化のことがずばり書かれています。

 しかしこの本が多くの人の目にとまることはなかったようです。

 祭祀の簡略化が一般に知られるようになったのは58年の正月です。43年の簡素化開始から15年もたって、祭祀問題は一気に浮上したのです。疑問を感じながらも、口をつぐんでいる者たちがいかに多かったか、それに乗じて、祭祀改変は敢行されたのでしょう。入江の高笑いが聞こえるというものです。

▽2 ご負担軽減は名ばかり


 そしていま、奇しくもご在位20年の佳節の本年、入江の忠実なる後継者たちは、昭和の悪しき前例を踏襲し、陛下のご健康への配慮と称して、ご負担の軽減とは名ばかりで、天皇第一のお務めである祭祀の破壊に血道を上げています。

 そればかりか、今夏、今上陛下は皇后陛下とともにカナダを公式訪問され、さらにはハワイへのお立ち寄りが検討されていると伝えられます。

 昭和の時代にはご高齢に配慮と称して、祭祀の簡略化が行われる一方で、ヨーロッパ歴訪(46年)やアメリカ公式訪問(50年)が行われています。国境を越えた長旅に耐えられるのはご高齢ではないし、ご高齢に配慮が必要なら海外旅行をお勧めすべきではありません。まったくの矛盾でした。

 しかしいま、宮内官僚たちは昭和の先例を錦の御旗に、悪しき先例であることには口をつぐみつつ、何食わぬ顔で、皇室伝統の祭祀を改変する一方、喜寿を迎えようとする、そして療養中の陛下に、海外でのご公務をアレンジするという本末転倒を行っています。

 昭和天皇の側近たちに見られた「やましさ」さえ、いまは感じられないのです。

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