「翌年元日」改元か、それとも「践祚の翌月」改元か──30年で一変した所功先生「改元論」の不思議(2018年10月7日)
平安時代以降、代始改元は践祚の翌年に行われる踰年(ゆねん)改元が習わしでした。「同じ年に、臣下が二君に仕えるのは忍びがたい」(『日本後紀』)とされたからです。ところが、明治維新期に一世一元の制が採用され、さらに明治42年の登極令では「践祚ののちは直ちに元号を改む」(第2条)と明文化され、践祚同日改元に改められることとなりました。
千年以上続いてきた踰年改元の制度が、どのような経緯で践祚同日改元に改められたのか、年号の歴史に詳しい所功先生の『年号の歴史』(増補版。平成元年)や共著『元号』(平成30年)を読んでみましたが、一世一元の制はともかく、践祚同日改元については説明が見当たりません。明治の皇室制度制定に「伊東巳代治が熱心に取り組んだ」と書いてあるだけです。
所先生ともあろう方が、一世一元の制はまだしも、践祚同日改元には関心がないということなのでしょうか。そんなことはないだろうと思って、さらに調べていくと、意外な事実が判明しました。
▽1 井田敦彦論考が説明する「践祚同日改元」の歴史
国会図書館調査及び立法考査局憲法課に井田敦彦さんという方がおられ、「改元をめぐる制度と歴史」(「レファレンス」2018年8月。国会図書館)や「天皇の退位をめぐる主な議論」(「調査と情報」2017年2月。同)などを書いています。
国会議員の調査研究に資するのが国会図書館の設立目的ですが、菅官房長官が次の御代替わりに伴う改元を「5月1日を軸に検討」と表明したのが昨年暮れですから、改元制度の歴史に関する井田さんの論考は政府の表明のかなりあとにまとめられたことになります。
政府の政策を調査面で基礎づけたいなら先後関係が完全に逆で、泥縄的ですが、たぶん調査の目的は別なのでしょう。
今年5月になって、政府は来年4月1日に新元号を事前公表することを決め、これに対して保守系国民運動団体の日本会議関係者が強硬に異議を申し立てました。そのため政府は遅まきながら理論武装の必要に迫られたということではないでしょうか。
それなら改元の時期はどのように決められてきたのか、明治の践祚同日改元は誰がどう決めたのか、井田さんはどう説明しているのでしょうか。
井田さんの論考では、登極令に基づき、大正、昭和の改元は皇位継承の当日に行われたが、その理由としては、登極令は「すべて(践祚という)事実に従うものとなし」、践祚後直ちに元号を改めることとしたということ(上杉慎吉「登極令謹解」大正6年)、「天皇の御在位年間の記号となす趣旨を徹底せしめられた」(井原頼明『皇室事典』昭和13年)ということがいわれていると記されています。
また、解釈として、「古例におけるごとく時日を稽(とど)め延ばすことを得ず」(登極令制定関係者である多田好問の『登極令義解』草稿)とされ、「天皇崩御の瞬間は、すなわち旧元号の終わりて、同時に新元号の始まる瞬間」であるので、「改元の詔書はつねに先帝崩御の瞬間にまで遡りてその効力を生ずべきもの」(美濃部達吉『憲法撮要 改訂版』1946年)とも解されていたというのです。
目下、政府が進める践祚同日改元の理論的根拠となり得る分析といえます。
▽2 国会図書館で検索されない所先生の論文
注目されるのは、古来の踰年改元を否定する新しい考え方が多田好問の『登極令義解』草稿に示されているということ、そして井田さんによると、驚いたことに、ほかならぬ所先生がそのことについて以前、雑誌論考に書いていると説明していることです。
井田さんによると、多田好問の資料に言及した所先生の論考「昭和の践祚式と改元」が『別冊歴史読本』(1988年11月)に載っているということでしたので、国会図書館の検索エンジンで確認してみることにしました。
ところが、おかしいのです。国会図書館オンラインで所先生の論考を検索しても、「データは見つかりません」という素っ気ない返事しか返ってきません。そんなことがあるんでしょうか。1988(昭和63)年11月に発行された同誌13巻20号が存在することは確かなのにです。
巻号タイトルが「図説天皇の即位礼と大嘗祭」であることは突き止めました。ないはずの論考はこれに載っていそうです。さっそく雑誌を手に入れました。はたせるかな、所先生の論考は182ページから6ページにわたって掲載されています。なぜ国会図書館オンラインでは検索できないのでしょうか。
さて、所先生の論考は、まさに明治の改革について説明しています。
多田好問は御用掛の1人で、『岩倉公実記』の編纂者です。登極令制定に寝食を忘れて尽力し、『登極令義解』をまとめ上げました。その草稿(原本。大正3年)が宮内庁書陵部に伝存しており、最近、全文の複写を頒けていただいた、と所先生は解説しています。
登極令制定者たちは、上古以来の所伝などを十分に調査したうえで、本義を活かしながら、近代国家に相応しい儀式次第を作り上げたといえるというのが先生の評価です。
それなら、践祚同日改元について、先生はどうお考えなのかといえば、意外や意外なのでした。
▽3 登極令の「践祚同日改元」を杓子定規と酷評
登極令第2条は践祚同日改元を定めていますが、所先生によれば、多田の『登極令義解』草稿には、「元号は天皇の一世を表示せらるるものたるを以て、よろしく践祚の後直ちにこれを改むべし。古例におけるごとく時日を稽延することを得ず」と説明しているのでした。
これについて、所先生は、このような規定の仕方は、明治改元の際も、『皇室典範』制定時にもなかった考え方であって、天皇の在位期間イコール年号の実施期間とする杓子定規な解釈といわざるを得ないと厳しく批判しています。
そして、登極令に基づく大正、昭和の改元をふり返り、践祚同日改元には無理が重なりやすく、慎重なるべき代始改元のあり方としては、必ずしも適当とはいえない。平安以来の伝統と国民の現実的便宜を考慮すれば、新年号は践祚後慎重に案を選び、審議を尽くして決定公布し、施行は翌年元旦からとする方がよいのではないか、と提案されています。
所先生がこの論考を執筆されたのは昭和63年8月でした。いまから30年前は、先生は踰年元日改元を主張されていたわけです。だとすると、いま政府が新元号の事前公表、践祚同日改元を進めていることについて非難されてもいいはずですが、そうはなさらず、むしろ最近では、践祚日に新元号公表、1か月後施行に、お考えを一変されたように報道されています。
先帝の御代に事前準備することは「不穏当」だと強く否定された先生としては、まさに君子は豹変す、です。むろん考えが変わるのが悪いことではありませんが、なぜ改めるのか、釈明されてしかるべきでしょう。みずからは政府批判を回避し、逆に政府攻撃に突き走る日本会議たたきに役割を見いだし、営業方針を転換したというようなレベルではないことを祈ります。
最後に蛇足ながら付け加えると、多田好問の『登極令義解』草稿について、所先生は、平成元年に発行された『続・大嘗祭の研究』(皇学館大学出版部)で、約70ページにわたって詳しく紹介しています。これによると、多田は践祚同日改元について、正確には次のように記述しています。
「元号は天皇の一世を表示せらるるものたるを以て、宜しく践祚の後直ちにこれを改むべし。古例における即位の礼訖(お)わりたる後に元号を改められたるがごとく、時日を稽延することを得ず。これ一世一元の制を立てられたるの故を以てなり」
少なくとも多田は、一世一元の制と践祚同日改元を表裏一体のものとして考えていたことが分かります。いずれも近代主義の産物なのでしょうが、所先生が仰せのように、杓子定規で無理が重なりやすい、この践祚同日改元が現代のIT社会に相応しいのか、がいま問われていると思います。
歴史に埋もれていた資料を発掘し、紹介された所先生のご努力には心から敬意を表しますが、それならばなおのこと、践祚同日改元について、近著『元号』で、史的検証を加えるべきだったのではありませんか。