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鎌倉のセンセの思い出 2 最後の「背広の神道人」が作った海の森(令和6年4月11日)


センセは筥崎宮の神職の血を引く社家の家系に生まれた。親族には神社関係者が多い。だが、センセ自身は神職になる道を選ばず、大学卒業後はビジネスの世界に飛び込んだ。「外の空気を吸うことが大切」と考える父君の影響とも聞いた。父君と同様、センセも「背広の神道人」の人生を歩んだ。

お付き合いするようになったころ、センセは神社関係の専門紙の経営に関わっていた。総合情報誌の編集記者と取材先の神社関係者という間柄だったが、やがて私はセンセのもとで働くことになった。

◇お前がやれ


ちょうど平成の御代替わりのころだった。神社界では当然、お祝いムード一色だったが、門外漢の私には強い違和感があった。神社関係の御即位記念事業といえば境内に記念碑を建てたり、記念植樹をするといった、内向きの事業がほとんどだったからだ。

「もっと社会的に広がりのある事業は出来ないのか?」「たとえば、大嘗祭が『稲の祭り』(正確にいえば『米と粟の祭り』)なら、米をテーマにした援助活動が出来ないか?」とセンセに問題提起してみた。するとセンセは強い関心を示し、そして「お前がやれ」と命じた。

センセの「背広の神道人」人脈が動き出した。伊勢の神宮の社家に連なる元外交官、元駐韓大使に相談すると、友人の元インド駐在大使を紹介され、「バングラデシュの孤児院に神社の奉納米を届ける」というアイデアを得た。同国は日本と同じく米が主食だが、「世界最貧国」と呼ばれていた。貧しさの象徴が孤児院だった。

方向は定まったが、ボランティア活動のノウハウがない。神様への奉納米を活用するなら失敗は1ミリたりとも許されなかった。助け舟を出してくれたのは「背広の神道人」たる元駐韓大使で、日本のNGOの草分けの団体を紹介してくれた。代表者とは昵懇の仲だという。

すぐにバングラデシュに飛んだ。そのNGOはダッカ郊外に農業研修センターを建て、農業青年の育成に取り組んでいた。当方の物資援助とは方法論が異なるのだが、全面的協力を約束してくれた。活動は3年間、続いた。

できればコンテナいっぱいの援助米を孤児院に届けたかった。だが出来なかった。いまでこそ神社関係者のボランティア活動は当たり前になっているが、当時はまったく違った。いまなら青年神職たちが事業を引き継いでくれたかもしれないが、それも出来なかった。時代を先取りし過ぎたのかもしれない。

◇自慢することもなく


しかし、小さな一粒の活動は、思いがけず、現地に大きな森を作る事業へと発展していった。失われたマングローブ林の復活である。

最初に現地を訪問したのは、巨大サイクロンがチッタゴン、コックスバザールを襲い、十数万人の人命が奪われた1週間後だった。「被災地にはいま種籾がない」と聞いて、急遽、10トンの種籾購入の資金を提供することになった。

後日、NGOのスタッフが現地に届けに行くと、被災者は「昔はこんな被害はなかった」と口々に訴えた。大災害はマングローブ林がエビ養殖場などに変わり、失われた結果だった。天然の防波堤を奪われた村々は、荒れ狂う高潮の前に無防備だった。「それじゃあ、みんなで植えようよ」。

マングローブ植林はNGOが主導し、郵政省の国際ボランティア貯金や日本の学生たちのボランティア活動など多くの協力を得て、10年越しで完成した。幅100メートル、距離にして60キロ。

「背広の神道人」の連携が予想もしない海の森の復活を実現させた。センセの人脈無くしてはあり得ないことだったが、センセは結果には関心も示さなかった。当然、自慢することもなかった。「背広の神道人」の所以である。

私は思う。センセのような「背広の神道人」はこれから先、現れることはないだろう。最後の「背広の神道人」だった。


追記 NGOのサイトに、マングローブ 植林の記事が載っています。画像を拝借しました。ありがとうございます。〈https://oisca.org/projects/%e3%83%9e%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%96%e6%a4%8d%e6%9e%97%e3%83%97%e3%83%ad%e3%82%b8%e3%82%a7%e3%82%af%e3%83%88%ef%bc%88%e3%83%81%e3%83%83%e3%82%bf%e3%82%b4%e3%83%b3%ef%bc%89/〉

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