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3段階で進められた御譲位の儀式?──所功「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」を読む(2017年8月17日)


 敬愛する所功先生(京都産業大学名誉教授)が、「〈資料紹介〉光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」と題して、光格天皇の御譲位の儀式の具体的な中身について、「藝林」4月号(財団法人日本学協会藝林会)に執筆されていますので、ご紹介します。

 いうまでもなく、光格天皇は200年前に譲位された歴史上最後の天皇です。報道によれば、今上天皇の御譲位が来年末もしくは来年度末に予定され、政府・宮内庁は譲位の儀式の内容について検討を進めているとのことですから、光格天皇の御譲位の儀式に関心が集まるのは当然でしょう。

 タイムリーな〈資料紹介〉を書かれた所先生に、心から敬意を表したいと思います。


▽1 『貞観儀式』と『光格天皇実録』

 リポートの冒頭、所先生は、史上、譲位された天皇は皇極天皇から光格天皇まで64代(全90代の7割)に上ると指摘したうえで、平安初期以降になって、その詳しい儀式次第や実施記録が見られると解説しています。

 所先生がまず取り上げるのは、『貞観儀式』(9世紀)の「譲国の儀」です。リポートをなぞってみます。

 ──まず譲位予定の3日前、平安京から関所の置かれていた伊勢・近江・美濃の3国に、関契などを持った勅使を遣わし、万一に備えて警備を堅固にする「固関(こげん)」が行われる。
 ついで、譲位される天皇が、内裏を去って仙洞御所に遷られる。
 そのうえで当日、天皇が紫宸殿に出御され、皇太子が春宮坊を出て、紫宸殿の殿上の座に就き、親王以下文武官人が南庭に列立する。
 そして「宣命使」が「譲位の宣命」を読み上げると、皇太子は皇位を譲り受け、「新帝」となられたことになる。
 そこで「新帝」は紫宸殿の南階を下りて、いったん春宮坊に戻られる。その際、内侍(女官)が「節剣」を、また少納言(男官)が「伝国璽の櫃」と「鈴印・鑰等」を、さらに近衛少将が「供御の雑器」を、「今上の御所」へ持参する。
 ただ10世紀以降は節剣ではなく、「神璽」と「宝剣」を内侍が持参するようになったものとみられる。

 以上のようにまずは説明し、「固関」「行幸」「宣命」「節剣などの持参」という儀式の流れが「中世から近世までほとんど変わりがない」と指摘して、さらに先生は、光格天皇の事例を「詳しく検討」しようと試みるのでした。

 その場合、先生が取り上げるのは、『光格天皇実録』(宮内省編)です。

 すでにこのメルマガでご紹介したように、『光格天皇実録』は「禁裏執次詰所日記」「山科忠言卿伝奏記」「御系譜」「日次案」の資料が引用されています。先生は漢文で書かれた資料を読み下し、突き合わせて、儀式の展開を詳しく説明したうえで、次のように、3段階の儀式があったと結論づけています。

 ──「譲位・受禅」の儀式は、
 まず午前(辰の刻)、光格天皇が内裏から剣璽などとともに桜町殿(仙洞御所)へ行幸された。
 ついで午後(未の刻)、剣璽が下御所(桜町殿)から清涼殿に渡御すると、新主の仁孝天皇が御帳の椅子に着かれ、宣命使が宣命を読み上げ、剣璽が新主の御所へ運ばれた。
 さらに真夜中(子半刻)、内裏で「折紙」を給わった院司が、祝意を表して退出し(桜町殿へ参向)、関白以下が新主に祝賀を申し上げた
 というだいたい3段階があった。


▽2 『代始和抄』に言及がない

 3つのことを、指摘させていただきます。

 まず1点目。

 所先生は素人の私などとは比較にならないほど古今の資料に通じているでしょうが、どういうわけか、少なくともこのリポートでは、室町時代の古典学者で、「博洽第一の人」「日本無双の才人」(福井久蔵『一条兼良』昭和18年)と評されたらしい一条兼良の『代始和抄』への言及がありません。

 当メルマガの読者ならご存じのように、赤堀又次郎は『御即位及大嘗祭』(大正3年)の巻末に、「御即位および大嘗祭の儀を記したる古書のなか、その詳らかなることは貞観儀式に超えたるものなく、簡にして要を得たるはこの代始和抄におよぶものなし」として『代始和抄』の全文を引用しているほどです。

 その『代始和抄』の冒頭に記されているのが、「御譲位の事」であり、次のように記述されています。

「父子にあらずして受禅のときは、皇太子参上して、椅子(いし)につきて上表の礼あり」

「父子譲国のときは、義譲のこと、なし」

「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」

 所先生は、譲位の儀式には、(1)天皇行幸、(2)宣命、(3)御所の儀式、の3段階があると解説していますが、一条兼良は、(1)警固、固関、(2)節会、(3)宣制、(4)剣璽渡御、(5)新主の御所の儀式、の5段階と説明しています。

 指摘したい2点目は、依拠すべき資料です。

 すでに『代始和抄』のことは申しましたが、所先生はもっぱら『光格天皇実録』に引用された資料を参照し、『光仁天皇実録』が引用する資料については、「寛宮(ゆたのみや)御用雑記」のみを「注」で言及しているだけで、「野宮定祥日記」「公卿補任」に関しては取り上げていません。

 なお、「寛宮」は、所先生によれば、仁孝天皇の幼名ではなく、光格天皇の「同母兄妹」と説明されています。

 先生のリポートには、『国書総目録』(第3巻)によると、光格天皇御譲位に関して、『光格天皇御譲位一会』『光格天皇御譲位一会文書』『光格天皇御譲位一会催方願書留』など、全部で25種の記録と絵図があることが知られていると記述されています。

 それならば、それらを「資料紹介」しても良さそうなものですが、先生は『光格天皇実録』が引用する資料を「紹介」するばかりで、しかもリポートの後半のほとんどは、『国書総目録』には記載がない、国立公文書館が所蔵する『桜町殿行幸図』2巻の「紹介」に費やされています。

 できれば、『国書総目録』の資料もくわしくリポートしていただけないでしょうか。


▽3 光格天皇を描いた『桜町殿行幸図』!?

 3点目は、ほかならぬ、この『桜町殿行幸図』です。ご指摘のように国立公文書館デジタルアーカイブで、いつでも誰でも見られます。
〈 https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2010020818324946818 〉

 2巻とも20メートルを超える大作で、色彩鮮やかに、光格天皇が乗っておられるとおぼしき鳳輦ほか、色彩鮮やかに描かれ、役名・人名まで書き込まれた絵図に、所先生がいたくこだわっているらしいのは、この行幸図が御譲位と関連があるとお考えだからです。

 先生によれば、『光格天皇御譲位行列図』(5巻。尊経閣文庫)のうち「行幸図」上下2巻は『桜町殿行幸図』とほぼ完全に一致するそうです。しかも『行列図』には「行啓図」「剣璽渡御節会図」「武家警衛供奉図」までそろっている。

 そうしたことから類推すると、『桜町殿行幸図』は、「光格天皇が(文化14年3月22日の御譲位のとき)、内裏から仙洞御所に行幸された行列を丁寧に描いた絵巻」に違いない。御用絵師の原在明が描き写し、幕府に進呈された、と所先生は解釈するのです。

 公文書館のサイトには「作成年月日 文化14年3月」「写本」とありますが、「光格天皇」との説明はとくにありません。

 ついでながら、アメリカのボストン美術館には明治のお雇い教師フェノロサが収集した吉村周圭筆「行幸図」が秘蔵されています(藤田覚『幕末の天皇』)。

 藤田東大名誉教授はこう解説しています。

「(光格天皇が)寛政2年の仮御所から新御所に移る遷幸の行列を描いたものとされ、人物の表情や装束などがきわめて精密に描かれた盛大な行幸図はたいへんに貴重で、歴史資料としても価値が高いとの解説があった」

 ボストン美術館の説明では、「Emperor Kokaku Returning to the Capital over the Sanjo Bridge, Japanese, Edo period, late 18th?early 19th century, Yoshimura Sh!)kei (Japanese, 1736 - 1795)」とされています。
〈 http://www.mfa.org/collections/object/emperor-kokaku-returning-to-the-capital-over-the-sanjo-bridge-24991 〉

 さて、御譲位の儀式の中身についても触れるつもりでしたが、長くなりましたので、次回にします。

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