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青鞜社に先駆ける神道人の女性運動──婦人神職の道を切り開いた宮本重胤(「神社新報」平成12年11月13日号から)


「女性と靴下が強くなった」といわれた「戦後」も今は昔、靴下の方は安い輸入物が増えたせいか、めっきり弱くなりました。一方、シドニー・オリンピック(2000年)での大活躍に見られるように、日本女性の強さはいよいよ衰えを知りません。

 たとえば、今年(平成12年)2月、大阪府に誕生した初の女性知事・太田房江氏は春場所の優勝力士に府知事賞を土俵上でみずから授与することに熱意を示し、「女人禁制」の伝統を固持してきた相撲協会をあわてさせました。

 結局、女性知事の「土俵入り」は水入りとなりましたが、9月には女性初の横綱審議委員に選ばれた脚本家の内舘牧子氏が「女性が土俵に上がることは大反対」と主張し、俄然、場外戦は女の戦いの様相を帯びてきました。「男女平等」の理念と伝統文化の衝突はどこまで行き着くのでしょうか。


 と、ここまで書いて、ふと気づくのは、「男女平等」という理念は近現代になって西欧のキリスト教文明から新たに移入されたものであり、日本の伝統的価値観とは対立する、というような「常識」が議論の暗黙の前提になっていることです。はたしてこの「常識」は正しいのでしょうか。

 一般には、日本の女性解放運動・婦人運動はヨーロッパの影響を受けて、平塚雷鳥(らいてう)らを先駆者として始まったといわれますが、じつはそうではありません。というのは、日本の伝統文化の典型である神社の神職たちが、平塚らよりも早く、しかも国境を越えて世界的に、女性運動を展開していたからです。まったく意外なことに、近代日本の女性運動は日本の伝統のなかから生まれたのです。


1、神社本庁の書庫に眠る資料。昭和初年に評議員会で激論


 全国各地に約8万社あるといわれる神社のほとんどは現在、宗教法人神社本庁に包括されていますが、その設立の歴史は案外、新しく、戦後まもなくのことでした。設立の母体となったうちの1つは神職団体である大日本神祇会(全国神職会[全神]が昭和16年に改称)です。

神社本庁@同HP


 その古い資料が東京・代々木にある神社本庁の書庫に、褐色に変色して眠っています。その資料のいくつかに、知られざる日本の女性運動史の断片が記録されていました。それまで男性に限られていた神職の資格を女性にも認めようという、いわゆる女子神職任用問題です。

 毎年5月に開かれる財団法人全国神職会の評議員会の「議案」にこのテーマが最初に登場するのは昭和5年のことのようです。A5変型、10数ページ、活版で印刷された「第七号議案 地方団体提出議案」の4ページに、「十五、神社用務に婦人任用の制度を設けられたき件」(原文は漢字カタカナ混じり)の1行があります。提案したのは、中国・四国地方の中州九県神職連合会です。

 翌6年にも提議されたようですが、残念ながら、いずれも議事録が見当たらず、具体的にどのような議論が交わされたのか、くわしいことは分かりません。

 昭和7年にも「中州九県神職連合会決議──広島県神職会提出」で議題に取り上げられました。「東京府渋谷町若木」に全国の神職たちが長年、待望した全国神職会館が竣工した年のことです。真新しい会館の講堂で熱い議論が交わされました。

「議事速記録」によると、評議員会第三日、議案はまず建議案第一部委員会に付されました。けれども、議論が沸騰して満場一致を見ることができず、採決の結果、「保留」のまま本会議に回されます。

 最初に宮本重胤(山口)が発言に立ちました。

@周南市

「他府県にもお願いし、年々歳々、提案してきたが、いずれも保留となったのは遺憾だ。議論の余地はないのであり、婦人神職任用を可決していただきたい」

 しかし、これに対して、「保留」を望む慎重論が呈示されます。

「清浄を尊ぶのが神社の根本義であり、穢(けが)れにあるものが仕えるのは神社の忌むところだ。女子は出産、月経などによって穢れがあると信じられている。女子の任用は根本の建前を損なうものと考える。また、神職の任用について、いま全神の神社制度調査会で研究中である。最大の論点は、将来の神職は中等学校程度の学力が必要だということで、女子神職任用は時代の議論を無視し、神職の統制を乱すことになるのではないか」

 きびしい発言に議場はやや騒然となったと記録されています。争点は「穢れ」と「学力」の2点です。

 宮本氏がすかさず反論します。

「穢れを忌むというのはまったく仏教思想の現れである。日本では美夜須比賣(ミヤスヒメ)の熱田神宮、倭比賣(ヤマトヒメ)の伊勢神宮の斎宮といい、ことごとく婦人であるのはいうまでもない。朝廷でも今日、内掌典の制度が認められているのはご存じの通りだ。婦人の学力を云々するのは男尊女卑の思想にとらわれている。女学校の卒業生を神職に認めるということにしても差し支えない」

「穢れ」は外来の仏教思想であり、日本の伝統思想ではない、という反論は注目されます。宮本の発言中、何度か拍手も聞かれました。しかし、多数の同意を得ることは簡単ではありませんでした。

「私は賛成だが、生理期間の穢れを忌むのは中国からの思想であるというような議論になると、神職の斎戒・服喪の規定はまったく無視しても良いという意見にならないか。生理期間は遠慮するとか、別則を設けるものと思っていたが、そうではないのか」

 宮本がふたたび説明します。

「婦人は月経があるから奉仕できないという意見があったので、月経は忌むべきものではない、と申し上げた。もとより月経を忌むという思想は古いものではないと思う。美夜須比賣のお歌を見れば分かる」

『古事記』の倭建命(ヤマトタケルノミコト)のくだりに、美夜須比賣との相聞歌が載っています。か弱い腕を枕に寝たいと思うがあなたの着物の裾に月が出てしまった、と命が歌うのに対して比賣は、あなたのお出でが待ちきれなくて月が出てしまった、と答え、2人は結ばれます。


「月が出た」とは生理のことで、初潮を見た女性が一人前と見なされ、結婚の能力を備えたものと考えられたようです。宮本はここには穢れの観念はない、と主張したのです。

 本会議での議論は賛成意見がむしろほとんどなのですが、採決の結果、女性神職任用はこの年も「保留」となります。その翌年も、そのまた翌年の議案にも女性神職任用問題は載っていません。けれども、この時代に神職たちが公的な場で何年も継続して、このような議論を行っていたことは確かであり、そのことは注目されるべきです。

2、明治38年に敬神婦人会設立。異端視されて苦難の40年


 女子神職実現運動の歴史は、もっと古く明治30年代にまでさかのぼることができます。

 運動の指導者こそ前述した宮本重胤その人でした。明治14年生まれ、山口県都濃郡鹿野町(現在の周南市)・二所山田神社の宮司で、戦後は山口県神社庁長にまで上り詰めました。

二所山田神社@同社HP


 宮本はなぜ女性神職問題と取り組むようになったのでしょうか?

 孫で現宮司の公胤氏がまとめた論攷「『女子道』にみる『大日本敬神婦人会』の教化活動について」によれば、宮本重胤ははじめ村内や近隣の郷村で教化活動を展開していたのですが、熱心な会員の増加と発展に自信を得て、県内はもとより日本全国さらに海外への教化活動を目指すようになります。そして明治38年に創設したのが「大日本敬神婦人会」でした。

 明治になって「四民平等」政策が推進されましたが、男尊女卑の因習は以前、残っていました。宗教界は女性への布教・教化を怠っていました。一方で欧米の近代思想が流入し、女性の就業・就学率も高まってきました。重胤は時代の気運を敏感に察知し、女性を対象とする教化活動の展開を決意したようです。「女性の信心第一なり。女性の信心があれば、おのずと家庭のなかに信仰の輪が広がる」というのが重胤の口癖でした。

 敬神婦人会は機関紙「女子道」を発刊するとともに、委嘱講師による講演活動を展開しました。目的は女性に対する神道教化のほかに、女性神職任用の実現、神職婦人の意識高揚と団結、さらに女性参政権獲得、神前結婚式の普及など多方面にわたり、時代の最先端を行く運動内容でした。会員は国内のほか、ハワイ、アメリカ本土、朝鮮、満州、台湾、樺太に広がりました。

 今日、各神社に置かれている赤い箱の「おみくじ」で知られる女子道社は、このような女性運動の資金作りが設立の契機だったといいます。


 一般には日本の婦人運動の草分けとして平塚雷鳥らの「青鞜社」が知られていますが、その結成は明治44年ですから、大日本敬神婦人会はそれより6年早いことになります。また青鞜社の活動はわずか数年ですが、重胤の運動は日米開戦時まで続きます。

 同じ女性運動とはいえ、その内容も異なり、重胤は青鞜社に批判的でした。インテリの青鞜社が「自由」を標榜したのに対して、全日本敬神婦人会は庶民層の「良妻賢母」を理想としました。

 しかし、ことに重胤が一貫して主張し続けた婦人神職問題について、山口県神職会、中州九県神職連合会で合意を得るまでが苦労の連続でした。異端視され、きびしい批判を浴びせられた重胤は、教学的研究を深めていきました。

 大正時代末期になってようやく賛同者も増え、山口県神職会、九州神職会、中州九県神職会、全国神職会に提案できるようになりましたが、大正14年に全国社司社掌大会が東京の国学院大学で開かれたとき、内務大臣、神社局長ほか500名を前に女性神職任用について数十分、熱弁を振るったものの、聴衆はけげんそうな表情で野次も消え、重胤は反応のむなしさに落胆しました。

 全国神職会の評議員会に出席するたび、「女神主さん」と声をかけられ、苦い思いもしたといいます。昭和7年の評議員会で女子神職問題が「保留」になったあとは、人々の頑迷さに嫌気がさしたのか、「やめる」という言葉まで吐いています。

 しかししばらくすると、重胤は新たに「神職婦人修養会」を結成します。神職婦人を結集し、女性による女性神職任用の実現を図ろうとふたたび立ち上がるのです。

 40年間にわたる重胤の活動は機関紙「女子道」に記録され、8冊に閉じられて、神社に保存されているそうです。

3、神社本庁創立時に公認される。いまや1割を超えた女性神職


 女性神職が実際に誕生するのは戦後です。神職の広報紙・月刊「若木」が一昨年(平成10年)、その経緯と現状について取り上げています。

 記事によると、神社本庁の庁規起草案ともいうべき「神祇庁(仮称)庁規大綱(案)」は戦前の制度を踏襲し、神職任用の資格を「二十歳以上の男子」(原文は漢字カタカナ混じり、以下同じ)と定め、女性を排除していました。ところが実際に昭和21年の神社本庁設立総会で可決された神社本庁庁規は、第79条で「宮司の任用資格は階位のほか、年齢二十歳以上の男子たることを要す」と規定し、宮司以外なら女子でもかまわない、という解釈が可能になりました。

 ここに宮本重胤らの長年の夢は実現したのです。

 この間、どのような議論があったのか、明らかではありませんが、神道学者の小野祖教はその背景に男女平等の思想精神のほかに、出征し戦死した神職の後継者問題という「切実な問題」があった、と指摘しています(『神道の基礎知識と基礎問題』)。戦時中あるいは戦後、正規の神職に代わって夫人が日々、神明奉仕していた現実を認めないわけにはいかなかったのだともいわれます。


 それから半世紀が過ぎ、環境は変わりました。昭和20年代は100人に1人ほどであった女性神職が、30年代には50人に1人となり、40年代には30人に1人、50年代には20人に1人、平成に入ると神職全体の1割を占めるようになっています。文字通りうなぎ登りです。

 神社本庁のデータによると、昨年(平成11年)12月末日現在で、全国の神職数は計2万1572人で、うち女性が2351人と全体の1割を超えます。宮司の数で見ても、1万753人のうち女性は460人。25人に1人は女性宮司という計算になります(「定例評議員会議案」)。

 また神社本庁研修所が発表した「平成11年度階位検定白書」によれば、昨年度(平成11年度)の全階位検定合格者1200名のうち女子は228名で、2割におよびます。いまや検定試験で資格を得る神職の卵の5人に1人は女性なのです。

 宮本重胤の時代とはまさに隔世の感があります。

 女性神職の草分け的存在で、全国に先駆けて昭和33年に設立された宮城県婦人神職協議会長を一貫して務め、平成9年に女子神職としてはじめて特級身分を授与された奥海睦・金華山黄金山神社宮司は、時代の移り変わりを次のように語ります。

奥海睦@金華山日誌


「私が女性の明階第1号と騒がれたのは40年前です。主人が亡くなって途方に暮れましたが、嫁の私に神社をついでほしいと氏子さんがいうので、子供を実家にあずけ、国大の3年に編入し、さらに夜学で文学や語学などを学びました。ニセ神主とマスコミに批判されたこともありますが、多くの人の理解と励ましに支えられました。いまは時代が変わりました」

 世界宗教と呼ばれる大宗教には女性聖職者の存在を認めないものもありますが、女子神職が当たり前になっている日本の伝統宗教ははるかに進んでいます。


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