見出し画像

男女平等を説く神道講師「賀屋鎌子」──数千の聴衆を酔わしむ熱誠(「神社新報」平成12年11月13日号)

朝ドラ「虎の翼」が高視聴率を稼いでいるらしい。
モデルは日本ではじめての女性弁護士。女性の社会進出、男女雇用機会均等がテーマなら、いまの視聴者にウケると踏んだのだろうか?
同じ発想から女性天皇待望論も高まっているので、時流に乗り、さらにこれを後押ししようとの深謀遠慮かとも邪推する。だとすると、あまりいい気分ではない。
女性解放といえば、教科書には平塚らいてうの青鞜社しか載っていないが、じつはまったく別の、知られざる先駆的運動が神社界のなかにあった。
それが以下、転載する賀屋鎌子ら神道講師たちの活動である。
ぜひNHKさまにはドラマ化をお願いしたい
🙇


 手元にある1冊の遺稿集の口絵に古びた家族写真が載っています。撮影は明治38(1905)年4月、向かって左のイスに腰掛けたまじめ顔の少年はのちに東条内閣の蔵相を務めることになる賀屋興宣で、中央に一人悠然と立っているのが兄の就宣、右の椅子に座っているのが2人の母親ですが、丸髷に留め袖というような、いかにも母親らしい身なりではなく、兄弟と同様、羽織袴なのが目をひきます。

 化粧っけのない顔、引き締まった唇、カメラに向けられた目は、慈愛に満ちているというよりはどこか厳しさが漂っています。けっしてふつうの家庭婦人ではないことが見てとれます。

 明治時代、神職のなかに日本の女性運動の先駆けがあり、その中心が山口県・二所山田神社の宮本重胤宮司であった、という知られざる歴史を以前、書いたことがありますが、その後、読者から宮本と同時期に神道講演講師として活躍した複数の女性がいたことを知らされました。

 その1人が、この賀屋興宣の母・鎌子です。


▢ 藤井稜威の妻で賀屋興宣の母
▢ 日露戦争では出征兵士を激励


 戦前は神社の神主といえば男性に限られ、女子神職は認められませんでした。しかし終戦直後の神社本庁設立と同時に女子神職の任用は制度化されました。電撃的転換の背景には何があったのでしょうか。

 元山口県神社庁長の宮崎義敬氏は、宮本重胤が明治後期に設立した大日本敬神婦人会が婦人を対象とした神道教化や婦人神職任用の実現、婦人参政権獲得、神前結婚式の普及などに大きな役割を果たしたこと以外に、

「山口県には神道講演講師として県内外で広く活躍した女性がかつて何人もいた。また、戦争末期には国のレベルでも、神職夫人などに3日間ほどの講習を受けさせ、代務者として神明奉仕を認めた時代があった。そうした神道夫人の実績が相まって、戦後まもなく女子神職任用が認められることになったのではないか」とおっしゃるのでした。

 山口県には「女性を登用する伝統的気風があった」ともいいます。「私自身、病身の父に代わって、小学校3年の時から出征兵士祈願祭などを奉仕できたのは、母のおかげだ。母は父の手ほどきを受け、祝詞作文から祭壇の鋪設(ほせつ)など自在にこなした」と宮崎氏は語ります。

 宮崎氏の子息で、神功皇后(じんぐんこうごう)神社禰宜(ねぎ)の宮崎宏視氏によれば、明治15年に神官と教導職の兼務が廃止され、次第に神道界が官僚化していったとき、山口県の神職たちはこれに満足しなかった。
 教化活動の核となる神風講社が数多く結成され、講習会が盛んに催された。神社非宗教論を主張して神社神道への攻勢を強めていた浄土真宗などに対する対抗意識が高まり、熱心な教化活動が展開され、明治後期には民衆教化のための講師会が発足する。
 大正・昭和になると、戦争や不景気で苦労する国民を励ますために、講演活動はいっそう盛んになり、講師養成のための山口国学院特設講演研究部が創設されるなどした──(「山口県における神道教化の流れ」=「山口県神道史研究」第4〜6号)。

 明治10年代、神風講社の結成のため、県下を巡講していたのが賀屋鎌子だ、と宏視氏は解説するのですが、どのような人物だったのでしょうか。

『神道人名辞典』など、いくつかの人名辞典に当たってみましたが、残念ながら賀屋鎌子に関する記述が見当たりません。子息の興宣が書き残した著作などを手当たり次第、片っ端からめくってみて、ようやく昭和38年に日経新聞に掲載され、のちに単行本化された『私の履歴書』に、わずかな思い出が記録されているのを発見しました。

『履歴書』によると、興宣は明治22年、広島にある母・鎌子の実家で生まれました。父親は藤井稜威(いつ)です。鎌子の名は知らなくても、国学者である藤井を知る人は少なくないかも知れません。嘉永6年(1853)、山口県上関町・白井田八幡宮社家の生まれで、30歳の若さで神宮第15教区本部長となり、やがて広島国学院や国風新聞社を設立しました。藤井の実弟で、その養子となり、のちに賀茂家を継いだのが靖国神社宮司・賀茂百樹(ももき)です。

 興宣によれば、賀屋家のルーツは鎌倉時代に播磨の守護であった赤松則村とされ、江戸期には広島の浅野藩に仕え、江戸詰として江戸に居を構えていましたが、明治維新で広島に帰ります。そして興宣が生まれました。少年時代は「若様」と呼ばれる日々を送り、4歳のとき、母の伯父の家を継いで、賀屋姓を名乗ることになったといいます。

 興宣の回想には母親の記憶が2回、出てきます。

 1つは、むかし伊達という粋人の県令(知事)がいて、芸者学校を建てました。教師に選ばれたのが興宣の祖母と母・鎌子です。祖母は加賀百万石の奥女中を務めたことがあり、礼儀作法と書道、絵画の心得がありました。11歳の鎌子は作文や算術を教えました。はるかに年下ながらきびしい先生で、泣かされた芸者もいたようです。鎌子の月給は巡査並の4円だったそうです。

 もう1つのエピソードは、日露戦争当時のこと、出征兵士の大半が広島・宇品港から戦地に向かったのですが、多くの兵士が賀屋家にも分宿にやってきました。鎌子は若い兵士たちをもてなし、激励し、大いに感激させました。「かいがいしく立ち働いていた母の姿はいまでも目に浮かぶ」と興宣は振り返っています。

 しかし神道家としての鎌子に関する記述が見当たりません。「母は漢学者であり、社会事業やまた精神方面の講演をよくやっていた」という表現が見受けられる程度です。


▢ 講演行脚は数千回を超える
▢ 慈善事業や子弟教育に尽力


 図書館で資料をくまなく探して、手島益雄著『広島県先賢伝』(昭和18年刊。その後、51年に復刻)に鎌子が載っているのをようやく見つけました。面白いことに、郷土の偉人数百人を取り上げたこの紳士録に、鎌子の夫「藤井稜威」の名はありません。一方で、「賀屋鎌子」の方は「教育家」と「心学者」の2つの章に登場します。夫より評価が高いということでしょうか。

『先賢伝』によると、鎌子は文久元(1861)年、江戸藩邸で生まれました。維新後は藩公から拝領した広島市鷹匠町の旧藩鷹屋敷に移り住み、ここで暮らしました。

 手島は一度だけ、この屋敷に鎌子を訪ねたことがあるそうですが、客間の床の間には注連縄(しめなわ)が張られていました。理由を聞くと、「かつて旧藩主が鷹狩りの際、この座敷で休息した。その昔をしのび、敬意を表して」と説明されたといいます。

 手島は、鎌子の生涯を次のように描いています。

 ──早熟の鎌子は幼少のころから学問を好み、国学を藤井稜威に、石田梅岩の教えである心学を宮本愚翁および叔父の賀屋忠恕に学び、さらに漢学を考究した。
 賀屋忠恕は父・明の弟で、心学に志して平野橘翁に師事し、維新後は教務省神宮教院、京都明倫社などから諸国教授の引証を受けたほか、神宮教管長から権大講義に補せられ、神宮教会総理に任じられた。
 藤井家に嫁いだ鎌子だが、明治31年に夫が死去し、さらに実父・明が亡くなると、賀屋家相続のため復籍する(この点、興宣の『履歴書』とは事実関係が異なっています)。

 尊皇の志があつく、国体観念に徹し、国体の本義と民心の作興のため、鎌子は広島、山口、島根、岡山、愛媛などの各県を行脚して講演しました。その回数は数千回を超えたという。

 また慈善事業につくし、愛国婦人会の主唱者・奥村五百子と共鳴して、会の幹事となったほか、平和会、広島婦人慈善会を創立した。

 日清戦争・日露戦争のときは自宅を軍隊の宿舎にあて、兵士の接待・慰労に努めた。同時に皇国精神について講和し、感激・共鳴させた。無事に凱旋帰国した兵士で、その後、何十年も交際を続けた人も多い。

 さらには、自宅に私塾を開き、多数の子弟を教育した。質素勤勉にして、皇国精神の徹底と武士道的婦人のたしなみ以外、何ものもない一生で、大正4(1915)年に55歳で死去した──。

 以上のように手島は書いています。昭和18年の刊行だけに、いかにも戦争の時代を感じさせる表現ですが、鎌子のただ者ではない生きざまは見えてきます。しかし具体的な表情が見えません。


▢ 90日間で5万人が耳を傾ける
▢ 「国運の消長は女子の双肩に」


 神道講師としての賀屋鎌子の具体的な活動を記録していたのは、大日本敬神婦人会の機関紙「女子道」です。宮本重胤の孫で、二所山田神社の現宮司・公胤氏の協力で、何点かの資料を入手することができました。

 明治43年6月の号に重胤は、緑風の俳号で、鎌子との最初の出会いについて書いています。

「女史には謹厳な侵しがたい威厳と情愛とがあふれていた。互いに道を語るにおよんでは、百年の知己に会ったがごとく、意気投合した。斯道(しどう)の不振を慨嘆し、邪教の跋扈(ばっこ)をののしると、熱誠こもる語気が激して庭前の桜花はために散り、道を布く苦心を語っては、眉間に一抹の曇りが帯び、ために前栽の海棠(かいどう)がしなった」

 名文調の記事から、信念に燃える2人の対面の様子が鮮やかによみがえってきます。

 鎌子の地方講演はしばしば長期におよんだようです。45年7月の「女子道」には「個人消息」の欄に、「名誉会員の賀屋鎌子氏が山陰石見地方を巡教した。講演旅行は90日におよび、のべ5万人が耳を傾けた。女史の熱誠と精力を感じるにあまりある」という短信が載っています。

 熱誠があふれていたという講演の内容はどのようなものだったのでしょうか。鎌子は何を語ったのでしょうか。

 大正2年4月、大日本敬神婦人会の周北会員謝恩大祭が開催されたというニュースが「女子道」に掲載されています。会場は二所山田神社でした。午前中は宮本重胤幹事長が祭主を務める謝恩祭と重胤の講話、午後は総会式で、そのあと講話が続きました。講師は古守敏雄と鎌子です。

 婦人装束に身をつつみ、凛々しく足を運んで神拝したあと、鎌子が登壇、朗々と教育勅語を奉唱し、重々しく語りはじめました。「わが国民は神祇崇敬をもって第一の勤めとする。帝国の隆盛発止はこの風盛んになるか否かによる」。神代から当今に至るまでの歴史を引用して詳説し、とくに婦人に対して注意を喚起した鎌子は講演中、終始不動で、数千の聴衆を酔わしめた──と記事にあります。

 そのときの講話の大要が翌月号に載っています。一口でいえば、講演は男女平等を説き、世の女性たちを鼓舞するものでした。

「本来、男女に尊卑の差はない。男女は飛ぶ鳥の両翼のごとく対等でなくてはならない。
 中古以来、男尊女卑の風が起こり、女性がそれに甘んじてきたのは情けないことだ。天照大神も天鈿女命(あめのうずめのみこと)も偉大な神様で、男子と対等で、しかも男子以上のお力があった。
 また女性には人を作る田地たる天職があって、国家にとって利のある人も、害のある人も、みな女性が生み育てた結果による。
 したがって国運の消長は女性の双肩にかかっている。良田に良種生ずるように修養を怠ることはできない。女性の本分を発揮し,その徳光を輝かせていただきたい」

 賀屋鎌子の情熱は、戦後の神道婦人の活動にも受け継がれました。大きな影響を受けた1人が先年、亡くなった山口・宇津神社禰宜、佐古幸嬰氏です。戦前から戦後にかけて、半世紀以上にわたって神道教化の第一線に立ちました。

「佐古女史が女学生のころ、鎌子女史が頭をなでながら『しっかり勉強して立派な神道講師になるんですよ』と励まされた。そんな思い出を私に話してくれたことがある。これが佐古女史の講師人生の出発点だったかも知れない」

 そのように語るのは、元神社本庁総長の櫻井勝之進氏です。鎌子以来、男女平等を神道的に説く女性神道講師の潮流が脈々と流れているのです。

 櫻井氏の郷里・島根県那賀郡の八幡宮を講演のためいくたびか訪ねた鎌子が、櫻井氏の名を詠み込んだ自筆の和歌を残しているそうです。「相当の筆力」だと聞きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?