「二十六聖人殉教」の背景──秀吉が見抜いたキリスト教の“侵略性”(「神社新報」平成10年4月13日号から)
「愛媛玉串料訴訟」最高裁判決から1年が過ぎた。
判決文に
「わが国では……国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた」
というくだりがある。
驚いたことに、同じような表現が昭和52年の「津地鎮祭訴訟」最高裁判決にもある。「国家神道」が宗教迫害の元凶だとする論が“判例”となっているのだ。
◇「認識のズレ」なのか?
「厳しい迫害」で思い出されるのは、キリシタンの受難である。
おりしも昨年(平成9年)2月、長崎では「二十六聖人殉教400年祭」が行われたが、なぜ26人は「殉教」し、「列聖」したのだろうか?
「カトリック新聞」を読み返してみたが、「殉教」の理由は連載「26聖人長崎への道」に「認識のズレ」とあるばかりである。はたして「ズレ」程度のことなのだろうか?
慶応大学の高瀬弘一郎先生(キリシタン史)によると、こうだ。
大航海時代、カトリックの布教はポルトガル・スペイン両国王室の後援によって推進された。海外布教は国王の信仰に発するものではなくて、教会法に基づいていた。ローマ教皇は両国諸侯に「布教保護権」を与え、未知の世界に航海して武力で異教世界を奪い取り、植民地としてこれを支配し、交易などをする独占的な権限を与えた。
こうして両国の海外進出はカトリック世界の拡大をもたらし、地球は両国によって2分割される。
天文18(1549)年のザビエルの来日以来、日本はイエズス会の宣教によってポルトガルの「布教保護権」がおよぶ。1575年設定の「マカオ司教区」には日本が含まれていることが、グレゴリウス13世大勅書に明記されている。このとき日本教会の保護者はポルトガル国王であり、日本は潜在的なポルトガル領と法的に定まった(高瀬『キリシタンの世紀』など)。
日本は知らぬ間にポルトガルの領土にされていたのである。
キリシタン大名の大友、有馬、大村、高山氏の領地では、領民の多くが領主から事実上、強制的に改宗させられ、社寺が破壊された。バテレンにとっては、たとい強制的であっても、キリスト教への改宗は神の御旨にかなうことであったが、当然ながら秀吉には「邪教」と映った。
九州征伐の帰途、天正15(1587)年に、秀吉はバテレン追放を命じる。禁教令には
「日本は神国なり、邪法をもたらしたのはよくない」
「神社仏閣を破壊したのは前代未聞」
さらに
「日本人を明、朝鮮、南蛮に売り渡すことを禁止する」
とも記されている。
◇「布教をもって外国を征服」
「カトリック新聞」によると、8年後の文禄5(1595)年、スペインの豪華船サン・フェリペ号が暴風のため、土佐の浦土沖合に漂着した。スペインは日本と国交はなかったが、フランシスコ会のバウチスタ神父を「大使」として置いていることから、乗組員と積み荷は安全が保証されるものと考えていた。
一方の秀吉は、同国との通商の保障として「人質」となって留まることを申し出ている同神父を日本にとどめて置いた。ところが、そのうち乗組員から
「領土を得るのに宗教は役立つ」
という「不用意な発言」が飛び出す。報告を受けた秀吉は激怒した。
「カトリック新聞」の連載はここに「認識のズレ」があるというのだが、はたしてそうだろうか?
フロイス「日本史」全12巻の共訳者として知られる京都外国語大学の松田毅一先生によると、難破船の積み荷と殉教者の遺骸の引き取りを要求してきたフィリピン総督に対する返書に、秀吉はこう書いている。
「バテレンが異国の宗教を説き、国風を乱し、国政を害したので、予はそれを禁じた。しかるに僧侶たちは帰国せず、異国の法を説いてやまぬので、誅戮せしめた。聞くところによれば、貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲している……」(松田『豊臣秀吉と南蛮人』など)
天下を統一し、朝鮮征伐どころか明への遠征までも考えていた秀吉であればこそ、キリスト教の“侵略性”に敏感であり得たのではないか?
「迫害」には「認識のズレ」どころではない、それ相当の理由があった。
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