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祭祀破壊の「張本人」入江侍従長──続・原武史論文批判(2008年4月22日)


▽1960年以降始まった「簡略化」

 原武史論文批判を続けます。原教授は月刊「現代」5月号の論考で、昭和天皇の時代に祭祀が「簡略化」されたことに言及しています。理由は陛下の「高齢」というのですが、それは口実にすぎず、本当の理由は別にある、と先週の当メルマガ臨時増刊号では指摘しました。

 そのことは原教授自身、気づいているのでしょう。『昭和天皇』(岩波新書、2008年)には次のように書かれています。「入江相政(いりえ・すけまさ、侍従長)は、1960年代以降、天皇の高齢に配慮して宮中祭祀の負担を減らし、代拝で済ませるよう助言してきたが、天皇は入江の助言を受け入れ70年の新嘗祭(にいなめさい)からは『暁の儀』を掌典長に代拝させ……」

 1960年代以降、動きが始まった、というのなら、昭和天皇はまだ還暦を迎えられたばかりです。「高齢」が理由とは言い切れません。

 それなら何が「簡略化」の原因なのか。いや、これは簡略化というべきものなのか、ことの本質を見極める手始めとして、原教授が雑誌論考に参考資料として取り上げる、昭和天皇最後の側近といわれる卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従の日記などをあらためて読むことにします。


▽長時間お座りに

 まず、昭和聖徳記念財団の機関紙「昭和」増刊号を開いてみます。宮中祭祀について語った、卜部元侍従や前田利信元掌典次長の対談などが載っています(『昭和を語る』同財団、平成15年所収)。

 その中で卜部元侍従は、新嘗祭が肉体的に大きな負担であることを次のように説明しています。

「新嘗祭はいちばん大変です。時間も長いですし、長時間ずっとお座りになって御直会(なおらい)をされるのです。足のしびれは普通ではないですよ。新嘗祭が近付きますと、お居間でテレビをご覧になるときに、ふだんはソファでご覧になりますが、座布団を敷いて座ってご覧になるのです。つまりお座りの御練習という、そういうことまで気を遣っていらっしゃる」

 しかし実際の神事は座布団ではないようです。前田元掌典次長はこう説明しています。

「ご拝座がございましてね。畳で半畳よりもちょっと大きいぐらいですが、お座りになって遊ばすのですけれど、座布団もありません。固い畳です」


▽大変だった最晩年

 新嘗祭は天皇みずから天神地祇に新穀を捧げ、ご自身も召し上がるという宮中祭祀第一の重儀で、「夕(よい)の儀」と「暁の儀」があります。午後3時に始まり、すべての祭儀が滞りなく終わるのは翌日の午前1時ごろといわれます。

 晩秋の深々と冷える夜間、長時間、固い畳の上に正座し、ご自分のためならいざ知らず、ひたすら国と民のために切なる祈りを捧げるのは激務以外の何ものでもありません。ご高齢ならなおのことで、卜部元侍従はそのような趣旨から以下のように語っています。

「(昭和天皇が)ご高齢になられるに応じて、側近たちでご相談の上、お許しをいただいて、御代拝を少しずつ増やしていきました。そのときは入江さん(侍従長)が口説き役でね」

「(ご自身でなさる最後の新嘗祭となった昭和)61年、あのときは本当に大変でした。御祭服は長い裾を引いて、後ろから侍従がお支えしている。御殿にはけっこう段差があるんですよ。またぐのが大変です。スロープをつけていただいたり。私は後ろからお裾をお持ちしたままで、お腰をこう支えてね。礼儀作法はちょっと逸脱しているけれど」


▽卜部日記では分からない

 齢80代半ばとなられた昭和天皇の最晩年ともなれば、作法通りに祭祀が行われがたいのは致し方のないことです。むしろ、高齢を押して祭祀をご自身でやり遂げようとされたことに、心からの敬意を表さずにはいられません。「およそ禁中の作法は神事を先にす」(順徳天皇「禁秘抄」)という皇室の伝統を第一に考えられてのことと拝察します。

禁秘抄@京都大学


 しかし問題は昭和天皇の「高齢」ではありません。卜部侍従も「ご高齢」という表現を使い、徐々に御代拝が増えたと説明するのですが、繰り返しになりますが、いみじくも原教授が『昭和天皇』で指摘するように、これよりもはるか以前、祭祀の簡略化は入江侍従長によって1960年代以降に起きているからです。

 昭和天皇が還暦を迎えたばかりで、まだまだ「高齢」とはいいがたい60年代に、入江侍従長はなぜ祭祀のご負担軽減を進めたのか。残念ながら、その経緯は、原教授が雑誌論考の資料として取り上げる「卜部日記」からはうかがえません。

 卜部氏が人事院から侍従職に転じたのは昭和44(1969)年。「日記」はその年に始まりますが、44年から59年までの抄録を収めた朝日新聞社刊『卜部亮吾侍従日記』第1巻に、祭祀簡略化に関連する記述が現れるのは46年の新嘗祭が最初で、もうすでに「簡略化」の流れは決まっていたのです。


▽女官や皇后の抵抗を押しのけ

 事情がうかがえるのは、原教授の『昭和天皇』には取り上げられているけれども、雑誌論文には取り上げられていない、卜部元侍従が「口説き役」(『昭和を語る』所収のインタビュー)と表現した入江侍従長の「日記」です。

 昭和41年から47年までの日記を収めた『入江相政日記 第4巻』(朝日新聞社、1991年)をめくると、祭祀「簡素化」をめぐって女官や香淳皇后との激しいつばぜり合いがあったことが見えてきます。高齢となった陛下を慮(おもんぱか)って、というような穏やかなものではなく、むしろ入江侍従長の執念が見え隠れしています。


 43年10月25日(金) (富田)長官の所へ行き、新嘗のことなど報告。10時過ぎに皇后さまに拝謁。新嘗の簡素化について申し上げたが、お気に遊ばすからとのこと。もう少し練ることになる。永積さんと相談。夕方、掌典職の案というのを聞かせてもらう。これで行くことになろう

 同年同月28日(月) 魔女に会い、新嘗のこと頼む。(筆者注。「魔女」というのは祭祀に熱心な、ある1人の女官のことを意味しているようです)

 44年7月14日(月) 賢所のクーラーの見通しがついたというので、お上に申し上げ、お許しを得る。小川さんに頼んで皇后さまに申し上げたら、とんでもないこと、賢所に釘を打ってはいけない、それくらいのことにお堪えになれないお方ではない、などとおっしゃった由。お気の毒さまだが、お取りやめにする。

 45年5月30日(土) 10時過ぎに皇后さまお召しとのこと。何事かと思って出たら、旬祭(しゅんさい)はいつから年二度になったか、やはり毎月の御拝(ぎょはい)が願わしい、なぜかというと日本の国がいろいろおかしいので、それにはやはりお祭りをしっかり遊ばさないといけないとのこと。貞明皇后さまから御外遊まで洗いざらい申し上げる。それでは仕方がないということになる。くだらない。

 同年11月23日(月) 5時10分に出て吹上に行く。夕の儀。脚は大して痛くなかった。やはり夕の儀だけ。明年は何もなしに願ってつくづくよかった。

 同年12月3日(木) 待っていたら甘露寺さん来。新嘗を今年は夕だけ、明年は両方ともお止め願った方がいいと思うわけをよく話し、内掌典に先手を打っていっていただきたいと頼む。

 入江日記が真実を記録しているのだとすれば、昭和天皇の側近中の側近である入江こそ祭祀簡略化の張本人だったことになります。賢所へのクーラー導入という電化推進を含めて、入江の工作は昭和40年代前半に始まり、女官や香淳皇后の抵抗を押しのけて進められました。


▽キーパーソンは入江侍従長

 原教授は、なぜ昭和天皇は晩年まで祈りにこだわったのか、と問いかけます。しかし、むしろ問わなければならないのは、なぜ入江侍従長は祭祀簡略化にこだわったのか、ではないでしょうか。つまり「簡略化」のキーパーソンは昭和天皇ではなくて、入江侍従長です。

 入江侍従長はいったい何を考えたのか?

 ヒントとなるのは、入江侍従長の昭和45年の日記に載っている、大晦日に書いたとされる「補遺」です。「万博で大変な年だった」という1年の回顧ですが、中心テーマは祭祀問題でした。少し長くなりますが、関係する部分を以下、引用します。

「新嘗をお止めに願うこと。四方拝は御洋服で、それに続く歳旦祭は御代拝。この3つだけ整えれば、まだ当分はおさしかえなしと考えられたが、新嘗お取りやめの工作は、この2年来まず皇后さまにばかりあたったために、いつも失敗に終わっていた。今年は皇后さまは抜きにして、お上とお祭りの今後について、とくと懇談申し上げようと考えていた。

 そうしたら5月30日(土)お上が御研究所にお出ましになったあと、皇后さまがお召しで、なぜ6月1日の旬祭は御代拝かとおっしゃる。2年ほど前にお上のお許しを得て、年2回陽気のいい5月と10月の2回だけ御親拝、あとは御代拝ということになっていると申し上げたら、もっとお祭りを大事に度数を増やした方がいいとおっしゃる。

 なぜそういうことをおっしゃるのか。誰がそういうことを申し上げるかとうかがう。もし魔女の名が出たら、たちまち爆撃しようと構える。ただ私が考えるだけのこと。それなら皇后さまがお考えをお変えになりさえすればいい、お上はお大事なお方、お祭りもお大事だが、お祭りのためにお身体におさわりになったら大変、と申し上げる。そうしたら驚いたことに、それでは私がやろうかとおっしゃる。無茶苦茶とはこのこと。こうまで魔女にやられていらっしゃるとは。

 そこで貞明皇后のことを詳しく申し上げる。歌御会始のことをうかがったときのすばらしさ。神様とお思いになったとき、賢所は浮かばず伊勢が浮かぶとおっしゃったこと。還暦過ぎたら粗相があっては恐れ入るから賢所などもご遠慮すべきものとおっしゃったこと。いまの日本でお上がどうかおなりになったら救うべからざる事態になることなどいろいろ申し上げる。1時間ほどかかったろうか。

 とうとう、それでは仕方がない、と仰った。そこで今年は新嘗は夕だけ。明年からは両方お取りやめ。四方拝は吹上のテラスで御洋服で。歳旦祭は御代拝ということに願うつもり。皇后さまはこの種のことを申し上げることは、お上に老来をお告げすることになり、がっくり来ておしまいになるとかねがね仰せだったので、控えていたが、よくよく申し上げてみればそんなことは絶対にない旨を申し上げる。魔女の奥の手の貞明皇后のことまでぜんぶ申し上げたので、つまりはとどめを刺したことになった。ことにいま貞明さま御在世ならばかならずもうこれ以上遊ばすことはないと仰せになるに違いない、というのは効いたと思う。

 新嘗のちょうど1週間前の月曜にお上に申し上げる。すぐにはご承知にならなかったが、やっとご承知になる。新嘗の翌日の24日にお祭りを夕だけでお止めになったことについて、何か批評はなかったかと仰せになったが、東宮さまもすっかりご安心で、ようこそ止めて上げたと仰ったことを申し上げたらすっかりご安心だった」


▽不敬きわまる横暴

 祭祀問題はこのころの入江にとって大テーマだったのでしょう。入江日記にこのような「補遺」までわざわざ書き残しているのは、ほかの年には見当たりません。

 入江は祭祀簡略化工作を昭和43年に、香淳皇后を通じて開始しました。しかし思わぬ反対をうけてうまくいかず、45年には戦術を変えて昭和天皇に直接の働きかけを行い、新嘗祭お取りやめ、四方祭の洋装、歳旦祭の御代拝などが合意されたようです。

 分からないのは、なぜ祭祀の「簡素化」という方法がとられたのか、です。卜部侍従や入江侍従長の言い分を呑んで、百歩譲って、陛下の高齢に配慮したのだとしても、皇室伝統の祭祀をなぜ「簡略化」しなければならないのでしょうか。

 原教授は軽々に「簡略化」と表現していますが、宮中祭祀であれ、神社祭祀であれ、祭祀には決まった形式があり、装束にもそれぞれ意味があります。儀式を簡単に省略したり、装束を勝手に変更したりすることは許されるべきことではありません。

 考えれば当たり前のことで、戦前の皇室祭祀令に「天皇が喪に在り、その他事故あるときは、前項の祭典(筆者注。大祭)は皇族または掌典長をしてこれを行わしむ」とあるように、みずから祭祀を行い、拝礼することが無理だとすれば、大祭なら皇族か掌典長、小祭なら皇族か侍従の代拝という方法を選択すればいいことです。

 神社のお祭りなら、たとえば事情で宮司が祭式通りに祭典を奉仕できないとすれば、祭式を変更するのではなく、宮司に代わって権宮司や禰宜(ねぎ)が祭典を奉仕するでしょう。人間の都合にあわせて神事を簡単に変更することなどあってはなりません。

 それをなぜ、歳旦祭の御代拝はまだしも、四方拝の装束を洋装とし、しかも神嘉殿ではなく御所のテラスでおこない、さらに第一の重儀である新嘗祭をお取りやめにする、というような方法をとるのでしょうか。これは端的にいえば、祭祀の簡略化ではなくて、祭祀の改変・破壊であって、不敬きわまる横暴というべきです。

 なぜそのような冒涜を、皇室の藩屏(はんぺい)であるべき入江侍従長は敢行したのか、それは引き続き次号で考えます。本論はいよいよ佳境に入ります。


☆ 補論 ☆

 先週の臨時増刊号で、昭和天皇の時代の祭祀簡略化は「高齢」が理由ではなかったことの根拠として、昭和50(1975)年2月17日の祈年祭の「タタラ事件」を取り上げました。

 卜部侍従のインタビュー(『昭和を語る』所収)は事件をこう説明します。

「内陣の方でドタンドタンと音がしました。……お倒れになったかと思いましたが、お立ちになったりお座りになったりする儀式で、タタラを踏まれたのだそうです。そういうことが何回かあって、お祭りの軽減を考えました」

 タタラを踏むのが「儀式」ならば、この事件が軽減のきっかけになったとしても、「高齢」を理由とすることには無理があります。したがって臨時増刊号では、「老い」の問題ではないはずなのに、その後の祭祀簡略化の口実にされたようにも受け取れる、と書いたのでした。

 けれども、うっかり見落としてしまったことがあります。じつは卜部日記にはこの事件の生々しい様子が以下のように記述されています。

「賢所にて最初お倒れになったような大きな音二度 とばりを少しくりて伺うも御異常なき御様子に安堵(あんど)す、皇霊殿では御退出の際、正対遊ばされずこれまたあわてる。このほか御剣の金具が落ちたり、いろいろなことあり、ともかくも無事相済み、昼食時、侍従長に報告申したるところ、即刻(永積寅彦)掌典長とお話しなされ、やはり前にお倒れになり手をおつき遊ばしたる由、寒さの中、急にお立ち上がりになりたるせいか、今後居拝の線で願う方向協議されたる模様」

 これを読むと、祭典中にさまざまな不測の事態が起きていたことが想像されますが、これを簡単に「高齢」に伴う現象と解釈すべきかどうか、私は躊躇しています。神社の祭典でも祭式通り行かないのは日常茶飯事だからです。

 また、祭祀は形式であるとはいいながら、単なる形式ではありません。形式にこだわれば、祭りの精神は失われます。卜部侍従の証言は、陛下の「高齢」から祭祀が「簡略化」されたのではなくて、最晩年はともかく、最初から「簡略化」の方針があって、形式論的発想から「高齢」がでっち上げられるのではないかという疑いさえ抱きます。

 原教授は、「現代」の論考で、「昭和天皇はみずからの高齢を理由に宮中祭祀が削減または簡略化されていくことについて、いいがたい不安を覚えていた」「昭和天皇は晩年まで『祈り』にこだわった」と論理を展開させていますが、この論理は成り立たない、というのが私の考えです。

「高齢」を理由とした祭祀の改変がいままた起きようとしています。それどころか、原教授は「新しい神話づくり」などと、天皇の制度そのものの改変を主張しています。じつに危険といわねばなりません。


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