なぜ政府は有識者に意見を求めるのか?──第6回「女性宮家」ヒアリングを前に考える(2012年7月2日)
facebookに書きましたが、皇室制度に関する有識者ヒアリング、いわゆる「女性宮家」有識者ヒアリングの第6回目のヒアリングが今週の木曜日、7月5日に行われます。今回の出席者は、所功・京都産業大学名誉教授(モラロジー研究所教授)と八木秀次・高崎経済大学教授だそうです。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koushitsu/yushikisha.html
そもそも政府はなぜ、皇室の制度に関することについて、有識者に意見を求めるのでしょうか?
▽1 失われた法的基準
皇室に関することについて、政府が有識者に参考意見を求め、ものごとを決めた最初のケースは、私の知るところ、昭和天皇の崩御のあと、御代替わりの諸行事について、だったのではないかと思います。
「文藝春秋」昨年(2011年)2月号掲載の拙文に書きましたように、内閣総理大臣官房がまとめた政府の公式記録『平成即位の礼記録』などによれば、政府の準備委員会で、15人の参考人が意見を述べています。
当時のキーパーソンの1人である石原信雄内閣官房副長官によれば、当時の最大の懸案事項は大嘗祭でした。「行うか行わないかが大問題になった」と石原氏は著書『官邸2668日』で振り返っているほどです。
そこで石原氏は、海部総理や森山眞弓官房長官とも相談し、賛成・反対の、各方面の意見を聞くことにしました。意見は十分に言ってもらい、「最後は政府の責任でやらせてもらう」と姿勢で、議論を収めたのでした。
なぜ「各方面の意見を聞く」ことになったのでしょうか?
それは石原氏ら政府関係者は固く口を閉ざして、説明していませんが、125代にわたって皇室に伝わってきた、御代替わりの諸儀礼の伝統を重んずべき、法的基準が、昭和の時代に、昭和天皇の側近たちの一方的判断によって、失われていたからです。
▽2 依命通牒によって続いてきた皇室の伝統
皇室に関する諸制度が大きく変わった歴史的転換点は、一般には敗戦および占領と考えられています。GHQによって皇室制度が変革させられたという理解です。
たしかに憲法は代わり、皇室典範も代わり、皇室令は廃止されましたが、占領軍によって皇室制度のすべてが変えさせられたというわけではありません。
というのは、昭和22年5月の憲法施行とともに、宮内府長官官房文書課長の依命通牒が発せられ、これによって、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)とされ、宮中祭祀など皇室の歴史と伝統が、辛うじてではあるにしても、新憲法下でずっと生きていたからです。
昭和21年12月5日の帝国議会で、金森大臣は皇室典範改正案について、「即位の礼に関しましては、今回制定せられまする典範のなかに、やはり規定が設けてありまして、実質において異なるところがございません」と明言しています。
皇室典範が、皇室の法律である皇室令から国会が定める法律に皇室典範の位置づけが変わり、条文の表現が変わっても、皇室行事の体系はいささかも変わらないという認識をはっきりと述べています。
したがってこの数カ月後、22年5月3日に現行皇室典範が日本国憲法とともに施行され、その前日に皇室令は廃止されましたが、皇室の伝統はそのまま維持されたのです。
ところが、終戦30年の昭和50年8月15日、ときまさに宇佐美宮内庁長官、富田次長の時代、宮内庁長官室における、いわば密室の会議で、この依命通牒第3項が事実上、廃棄されたことが、宮内庁関係者の証言や側近の日記などによって明らかになっています。
そして以後、依命通牒は「宮内庁関係法規集」から消え、実際、毎朝御代拝など宮中の重要な祭祀などが大きく変革されました。
125代の皇室の伝統は、占領期ではなく、ここに至って、失われることとなったのです。
▽3 国民主権という新たな基準
依命通牒に記された、基準とすべき「従前の例」が否定された以上、皇室の長い歴史と伝統に代わって、新たに作らなければなりません。
基準はもちろん憲法です。御代替わりにおいて、また小泉内閣時代の皇室典範有識者会議において、そしていま「女性宮家」有識者ヒアリングにおいて、「象徴天皇制度のもとで」と強調されているのは、その意味と理解されます。
即位の礼準備委員会以後、参考人、有識者の意見が求められているのは、むろん天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」からでしょう。当時の政府は、皇室の伝統と憲法の趣旨を対立的にとらえ、結果的に、皇室の伝統が破られたことは、当メルマガですでに書いてきたところです。
数年前、来日した中国副主席のゴリ押し天皇会見の是非が問われたとき、小沢幹事長はこう言い放ったことが思い起こされます。
「天皇陛下の行為は、国民が選んだ内閣の助言と承認で行われるんだ、すべて。それが日本国憲法の理念であり、本旨なんだ」
さらに、戦後の憲法学をリードした宮澤俊義東大教授(故人)はこう書いています。
「憲法に書いてある天皇の行為は、すべて儀礼的・***判(斎藤吉久注。差別用語ということで、ネットに載らないようなので、伏せ字にしています)的なもので、なんら決定の自由を含むものでないことは、明らかだ。昨年(1952年)8月の衆議院の解散のとき、首相はまだ閣議で決まってもいない解散の詔書に天皇の署名をもらい、数日あとで閣議にかけてそれを決め、その詔書を発したということだ。天皇が署名したときは、たぶん日付も書いてなかったのだろうから、天皇はいわば白紙に署名させられたわけで、ずいぶんばかばかしい役目のようだが、日本国憲法の定める天皇の役割は、つまるところ、そういうものなのだ」(『憲法と天皇』)
国民の名において、政府の責任で何でもできる。むろん皇族方の意見を聴く必要もない、というのが、有識者ヒアリングの本質なのかも知れません。
皇室典範有識者会議は「国民の多様な意見」(報告書)について言及していますが、皇室による皇室観を検討した形跡は見当たりません。それどころか、寛仁親王殿下が男系の維持を訴えたとき、皇室を守るべき立場の宮内庁長官は「皇室の方々は発言を控えたいただくのが妥当」と口封じしたのでした。
▽4 悪いのはGHQではない
昭和の時代はまだ皇室の意見が重んじられました。
宮中祭祀のあり方が大きく変わったのは昭和40年代でした。最初は毎月1日の旬祭が年2回に減らされました。入江相政侍従長の「工作」によるものです。
このとき香淳皇后が猛抗議したことが「入江日記」に記録されていますが、入江は皇后陛下の意見に耳を傾けませんでした。逆に「ねじ伏せた」ことが誇らしげに書き残されています。
皇族の意見を聴く耳を持たなかった入江氏ですが、皇族方の意見に基づいているかのように装うことはしました。「入江日記」によると、皇太子殿下(今上陛下)のご発案によって、祭祀簡略化を進めようとしています。
けれども、昭和50年代に入ると、様相は変わります。富田長官の下で、祭祀の簡略化が政教分離の名のもとに、さらに強力に進められましたが、50年8月15日の長会室会議がそうだったように、皇族方の意見が参考にされることはなかったようです。
御代替わりのとき、即位の礼準備委員会は参考人の意見を求めました。皇室典範有識者会議も有識者の意見を聴きました。いま皇室制度ヒアリングも有識者の意見に耳を傾けています。しかし、皇族の意見を聴くことはないのでしょう。
なぜなのか?
理由の1つは、昭和50年8月15日の長官室会議で、皇室の伝統が一方的に、密室において、断絶されたこと、もう1つは、いびつな憲法解釈・運用ということになるでしょうか?
だとすると、いま必要なことは、第1に、昭和50年8月15日の会議で何が行われたのか、知られざる皇室関係史の一コマが明らかにされること、第2に、皇室の伝統と憲法の趣旨を対立的にとらえる憲法解釈・運用が正されることだ、と私は考えます。
「悪いのは GHQだ」というような昔ながらの理解では、皇室の歴史と伝統は、いつまで経っても回復されないでしょう。
さて、今週の木曜、皇室問題に造詣が深いお2人の研究者は、ヒアリングで何を語るのでしょうか?
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