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近代の肖像 危機を拓く 第444回 葦津珍彦(2)──敗戦の危機が生んだ「神道の社会的防衛者」(2011年3月2日)


 二十歳になった葦津珍彦は、父・耕次郎がおこした社寺工務店を継いで、神社建築に携わった。いまも靖国神社の境内に堂々とそびえる神門は、若き日に父の命を受け、建築を手がけたもので、生涯の誇りだった。

 しかし葦津の行動はむろん建築の分野にとどまらない。日中戦争が勃発した昭和十二(一九三七)年の暮れ、葦津は汪兆銘政権の要人だった蘇錫文・上海特別市長の招きで訪中する。上海戦線では異常な心理が戦場をおおい、戦慄すべき事件が相次いでいた。葦津は、人道上も、日本の国際的信用性の面からも、軍規粛正が必要だと実感し、帰国後、耕次郎とその友人たちに早期和平を強く訴えた。

 しかし激烈な報告は当初、誰にも信用されなかった。新聞が伝える戦況とあまりに異なっていたからだ。やがて耕次郎と懇意にしていた同郷の朝日新聞主筆・緒方竹虎によって事態が確認されると、伊勢神宮の崇敬団体代表である今泉定助(さだすけ)や明治神宮の有馬良橘(りょうきつ)宮司、俗に右翼の統帥といわれる頭山満らが和平の動きを強める。緒方は蘇錫文支援の特集を組み、独自の和平工作を進めた。

 なかでも耕次郎は、占領地域内で飢寒に苦しむ中国人難民の身の上を肉親のように案じ、救済のため寝食を忘れるほど東奔西走し、ついには健康を損ない、十五年春、この世を去る。葦津は一年間の喪に服した。

 十六年十二月、開戦の詔勅が渙発される。神道精神とファシズムは異なるとの考えから日独伊三国同盟に反対してきた葦津だが、「これまでの一切の思念を断ち切り、陛下の忠誠の臣民として戦うほかはない」と決意する。それは同時に東條英機内閣との闘いであった。

 緒方からの情報で、日本は戦争に勝てない。戦局を強化、維持しつつ、速やかに名誉ある和平を求める必要がある、と考えた葦津は、政府の無責任な言論思想統制を弾劾するパンフレットを発行する。内閣打倒をめざす人々がたちまち結集し、威信を損なった東條内閣は検閲方針を撤回する。

 十八年三月に東條内閣が戦時刑事特別法を改正し、言論禁圧を強化すると、葦津は批判の論説を次々と発表しただけでなく、同志と協力して批判文を議会にバラまいた。

 東條が激怒したのはいうまでもない。姿をくらました葦津の身代わりに、近親者十数名が検挙され、やがて「人質釈放」のために自首した葦津は、検事に「帝国憲法上、われわれが不法か、東條が不法か」と憲法論争を迫った。検事は沈黙して、取り調べに来なくなり、葦津は釈放される。

 東條内閣が倒れるのは十九年の夏である。

 二十年八月、終戦の日。アメリカ軍の占領によって日本は徹底的にアメリカナイズされ、日本的なものはすべて滅びると予感する葦津は、徹底的に抵抗し、日本の歴史と精神文化の防衛に一命を捧げようと心に決めた。「神道の社会的防衛者」を自任する、闘う神道思想家は、こうして敗戦という危機の時に生まれたのだった。

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