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竹田氏の前提こそ政教分離問題の原因ではないか──竹田恒泰氏の共著『皇統保守』を読む その8(2016年5月8日)


 八木秀次氏との共著は、第二章で、うれしいことに、私が明らかにした昭和の宮中祭祀簡略化の経緯について、八木氏が紹介したあと、竹田氏が、

「やはり、大きな流れとして、憲法の政教分離規定を楯にとった話の展開があるんでしょうか」

 と問いかけ、宮中祭祀と政教分離との関係をテーマに、対談が展開されています。そして、またも葦津珍彦の天皇=祭り主論が引き合いに出されています。


▽1 政教分離の厳格主義を批判



 竹田氏は天皇の祭りと政教分離との関係について、次のように語り、厳格主義を批判しています。

「いわゆる政教分離は、皇室には、まったく当てはまらないものだと思います」

「そもそも国家が宗教行為を行うこと自体は、欧米で言う政教分離に何ら反しない。
 現在、宮中祭祀にかかる経費は、宮内庁の予算のなかで『内廷費』と言われる、天皇の私的な経費として割り当てられた費目から支出されています。だから公費ではない、私的な、御手元金で払われているとの解釈です」

「このように政教分離を曲解して過度に厳格に解釈し、運用すると、宮中祭祀のあり方そのものを歪めることになります」

「毎朝の御代拝もそうです。天皇陛下に代わって侍従職、もしくは侍従長が宮中三殿に毎朝行くのですが、以前は、束帯姿で宮中三殿に侍従職が参拝していました。ところが、最大野党だった旧日本社会党から『それは政教分離規定違反ではないか』という質問であったんです。
 侍従職は国家公務員である、公務員が束帯をまとって宗教儀式に参加するとは何事だ、という趣旨の質問があり、それを受けて以後、洋装で毎朝、御代拝をするようになってしまったのです。政教分離の理屈で、宮中祭祀のかたちが変更されてしまったというわけです」

「本来なら、天皇の国事行為を定めた日本国憲法第7条に『祭祀を行う』と具体的に明記すべきです。今からでも、そう改正すれば、ねじれた政教分離解釈がまかり通っても、憲法に記された例外になります」


▽2 厳格主義というより二重基準



 こうしてお二方の話題は憲法改正問題に発展し、竹田氏は

「宮中祭祀は元々、政教分離原則が発生する以前からのかたちです。教会権力と国家とのつながりを分断するというのが政教分離の趣旨です。ですから、宮中祭祀とは本来、無関係な原則のはずです」

 と述べたうえで、次のように葦津を引用しています。

「この点では、必ずしも一部保守派のように、ヨーロッパの王を指し示す『プリースト・キング(祭祀王)』という言葉で、天皇のあり方を説明する必要はないと思います。『祭り主である』という葦津珍彦先生の言葉で必要十分です。敢えて英語に翻訳して説明する必要などありません」(P.136)

 もともと政教分離原則は、キリスト教世界で生まれたもので、日本の天皇の祭りとは本来、関係がないというのが批判の趣旨のようですが、私には正直、いまひとつ理解ができません。

 何点か、簡単に指摘したいと思います。

 まず憲法の政教分離原則ですが、第20条第3項には

「国はいかなる宗教的活動も行ってはならない」

 とあります。竹田氏のいう「宗教行為」ではなくて「宗教的活動」です。校閲・校正ミスでしょうか。

 竹田氏は政教分離規定の厳格主義的解釈・運用をきびしく批判しておられるのですが、宮中祭祀との関連でいえば、厳格主義もさることながら、むしろ宮中祭祀や神社には厳しく、他宗教には緩やかにという二重基準に問題があるのではないでしょうか。

 なぜそうなったのか、を歴史的に考察し、深める必要があると思います。克服すべきテーマとして、いわゆる国家神道問題があると思うのですが、共著では触れられていないようです。


▽3 社会党議員の圧力か



 もっと気になったのは、毎朝御代拝の変更です。

 京都時代には天皇の毎朝御拝が行われていました。9世紀末、宇多天皇のころには行われていたようです。明治になって、側近の侍従に、潔斎のうえ、烏帽子・浄衣に身を正し、宮中三殿に遣わして、拝礼させる毎朝御代拝に変わったのです。

 それがこんどはモーニング・コートを着用し、宮中三殿内ではなくて、庭上のはるか遠くから拝礼する形式に変わりました。昭和50年8月15日、宮内庁長官室での会議で決定され、9月1日以降、そのように行われるようになったようです。

 それは職員の証言や側近の日記などから分かりますが、宮内庁の公式な説明はとくにありません。

 なぜ変更されたのか、竹田氏は、社会党議員の圧力と説明しています。国会の委員会で取り上げられたというのです。そうでしょうか。

 国会議事録によれば、宇佐美毅・宮内庁長官は同年1月から8月まで、参院予算委員会と内閣委員会で計3回、答弁しています。富田朝彦次長の場合は、内閣委員会などで5回、答弁しています。

 宇佐美長官の答弁は、外国御訪問がテーマでした。富田次長も毎朝御代拝について答弁してはいません。少なくともこの間の国会議事録に、毎朝御代拝と政教分離原則に関する質疑応答が、社会党議員と宇佐美長官、富田次長との間で行われた形跡は見当たりません。

 竹田氏が論拠とする国会質疑はどこにあるんでしょうか。


▽4 法的根拠となった依命通牒



 ただ、同年3月18日の衆院内閣委員会で、皇室経済法施行法の一部改正に関連して、上原康介議員(社会党)の質問に対して、富田次長が「(御手元金である)内廷費と(公的活動に必要な)宮廷費は完全に区分して厳密に経理されている」と答弁しています。

 けれども、これも祭祀に関わる質疑答弁ではありませんし、数か月後に決定される祭祀変更の直接的な理由とすることはできないと思います。

 重要なことは、当メルマガの読者ならご承知のように、天皇の祭りが旧皇室祭祀令を法的根拠としていることです。

 敗戦後、天皇の祭りは「皇室の私事」とされました。「私事」なら占領軍は干渉することはありませんでした。日本政府は、当面は「私事」でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、という方針でしたが、実現されませんでした。

 昭和22年5月の日本国憲法施行に伴い、皇室令はすべて廃止されましたが、「従前の規定が廃止となり、新らしい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」とする宮内府官房文書課長の依命通牒第3項を新たな根拠として、天皇の祭祀は片山哲を首班とする社会党内閣時代も行われ続けたのです。

依命通牒起案書@宮内庁


 平成3年4月の参院内閣委員会で、宮尾盤次長は「(依命通牒は)現在まで廃止の手続はとっていない」と答弁しています。とすれば、いかなる法的根拠に基づき、毎朝御代拝は改変されたのでしょうか。やはり竹田氏がいうように、社会党の圧力でしょうか。


▽5 国民統合の国家的儀礼なら



 最後にもう1点、竹田氏は、葦津の天皇=祭り主論を引いていますが、葦津の天皇論では天皇は「国民統合の象徴」なのです。

 竹田氏の場合は、天皇の祭りは米の新穀を皇祖天照大神に捧げる稲作儀礼という見方でしょうが、すでに書いたように、葦津は異なります。

 竹田氏だけではなく、政府・宮内庁も、大嘗祭・新嘗祭は稲作社会の収穫儀礼との解釈ですが、そうではなくて、日本社会の多面性、多様性を前提として、皇祖神ほか、民が信じる天神地祇すべてに、それぞれの捧げ物を行い、民の平安と社会の安定を、古来、一貫して祈り続けてきたのが天皇の祭りだとしたらどうでしょうか。

 それでも「皇室の私事」でなければ、国民の信教の自由を侵すと厳格主義的解釈・運用が必要でしょうか。それに対する反論が求められるのでしょうか。

 バチカンはすでに戦前において、異教儀礼に由来するとしても、皇室や国家の恩人に対する尊敬の印であって、宗教的儀式から社会的な意味に変わっている儀式に参加することは、唯一神信仰に反せず、許されるという趣旨の指針を示しています。

 カトリック信徒の首相が現れても、祭祀に参列することは可能だということになります。バチカンは17世紀において、中国で布教する宣教師らが儒教儀礼に参加することを認めています。

 天皇の祭りはまさに、特定の信仰に基づく宗教儀式ではなくて、国民統合のための国家的儀礼です。政教分離の厳格主義の立場をとったとしても、抵触しないと解釈すべきでしょう。

 実際、聞くところによれば、宮中祭祀にはカトリック信徒の女性が内掌典として奉仕しているようです。さもありなん、ではありませんか。

 天皇の祭り=稲の祭りとする竹田氏の議論の前提こそ、むしろ政教分離問題の原因であり、障害なのではありませんか。皇祖神ほか天神地祇がまつられ、米と粟が捧げられることに注目していただけないでしょうか。(つづく)

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