「大和撫子の恩人」パトリック・バーン神父──厳寒の北朝鮮で殉教す(平成20年6月14日号)
(画像はバーン神父。メリノール会HPから拝借しました。ありがとうございます)
敗戦後、靖国神社の焼却が噂されていたとき、「殉国者はすべて靖国神社に祀られるべきだ」とマッカーサーに答申し、同社を救い、一方、キーナン検事に何度も面談して昭和天皇訴追の断念、天皇制の存続を認めさせたビッテル神父のことはよく知られています。
しかし、もう1人、日本を救ったカトリック神父がいることはあまり知られていないようです。「大和撫子の恩人」といわれるパトリック・バーン神父(司教)です。
ビッテル神父はドイツ人で、イエズス会に属していましたが、バーン神父はアメリカ人でメリノール会の所属でした。
▽1 これが「迫害」の時代か
元朝日新聞記者で、のちに洗礼を受けた宮本敏行氏が、昭和63年から亡くなる直前まで、秋田県にある修道院「湯沢台の聖母」の黙想誌に2年あまり連載したなかに、その苦難に満ちた生涯が描かれています。
その一部がカトリック高野教会(京都)のホームページに転載されていますので、お時間のある方はぜひお読みください。
〈http://www.takano.catholic.ne.jp/genkan.html〉
バーン神父は1888年に生まれました。不幸な事故で兄弟を失ったことが聖職者への道を選ばせたといいます。
メリノール会の副総長として名を馳せていたバーン神父が来日したのは、1935(昭和10)年。滋賀県で活動を開始し、2年後には京都教区の初代教区長となりました。
今日の教会指導者たちはこの時代を迫害・弾圧の時代と主張していますが、ドイツ人のビッテル神父はまだしも、やがて戦争相手国となるアメリカから神父が受け入れられ、教区長に就任していることは注目されるべきです。
ついでながら、日米戦争前夜に来日し、日米交渉の幕開けを演じたとされるウォルシュ、ドラウトという2人の聖職者もメリノール会の所属でした。
▽2 占領軍の暴行の恐怖
昭和16年に日米戦争が始まると、ほかの在日アメリカ人と同様、アメリカ人宣教師たちは母国に送り返されました。たった1人残ったのがバーン神父で、それが数奇な運命の始まりでした。
宮本さんによると、敗戦後、東京の朝日新聞の社会部は、虚脱状態にあったといいます。何を記事にしたらいいのか。終戦の玉音放送より、その数時間後に、昭和天皇が「みんな窓を開けて、夜は電灯をつけて休むように」と呼びかけられたことの方が実感があり、うれしかったといいます。
問題は占領軍がやってきたあとに予想されるパニックでした。暴行の恐怖が若い女性たちの間に渦巻いていたのです。
新聞社として何とかしなければ、というので白羽の矢が立ったのがバーン神父でした。日本を愛し、日本にとどまった神父の口から、上陸前のアメリカ人将兵たちに呼びかけてもらおうというのです。
荒垣社会部長のもとで、企画を提案し、すぐさま京都にいる神父に取材し、記事を書いたのが宮本記者でした。
宮本氏の回想で面白いのは、神父を担当していた特高の刑事が「とにかく、えらい方ですわ」とすっかり神父に心酔し、祈りを共にするほどになっていることです。軟禁するどころか、刑事がまるで執事になっていたのです。
▽3 「わが息子たちよ──」
バーン神父は取材の翌日には東京のNHKで、「わが息子たちよ」とラジオでアメリカ人将兵に訴えました。
──私は日本の人々について何をいえるでしょうか。彼らは進駐してくる勝利者の姿に万感こもるものでありましょう。あなたたちの到着を、憤怒、恐怖、不信、失敗の気持で見るのは当然です。
もし、この国の女性や若い人々を乱暴に襲うことがあるなら、どうなるか。私は日本の人々に、あなたたちが堕落した行為をせず、苦しんできたこれら戦争の真の犠牲である人々を認めるよう、愛と善意をもって努力し、彼等の忍んでいる苦しみを増さないであろうと保証します。
それゆえ、あなたたちが私に協力することを切に願います。あなたたちは、全世界の注目の中で試みられています。あなたたちのどんな暴力や不道徳、どんな不正や犯罪行為も、あなたたち自身の人格を汚すばかりでなく、あなたたちの代表する国家を汚すことになります。
──私には日本の人々の恐れが理解できます。日本へ来る兵士たちよ、私は、あなたたちが親切な心をもって来るよう、そしてこれらの人々のよい友達になるよう、切に勧めます。
あなたたちは、一生懸命戦って勝利を得ました。あなたたちがそれを楽しみ、誇りたいことは、よくわかります。しかし、日本の人々の苦悩を理解するよう努めて下さい。そして大国の代表として穏やかな温かい振舞をして下さい。
恐らく二、三カ月後に、彼らはあなたたちをよりよく理解するようになるでしょう。それからあなたたちと彼らとの間に親密な友情が生まれるであろうと私は思います。
バーン神父のメッセージは、日本人が知らないところで、何度も英語で放送されました。そして将兵たちの心を打ち、日本人を救ったのです。
バーン神父のことは一般にはほとんど知られていないようです。神父自身何ら誇ることはなく、「第二のマッカーサー」といわれたのもつかの間、顧問役を果たし終えると何事もなかったように京都に戻っていったのでした。
▽4 感謝の言葉を残して
神が神父に与えた使命はそれで終わりませんでした。1947年に朝鮮半島に渡り、教皇使節となり、司教に叙階された神父は、朝鮮戦争勃発後、北朝鮮軍に囚われの身となります。
そして、雪嵐が襲う酷寒の中を、病と飢えに苦しみながら、最果ての地へ徒歩で向かい、落伍者には銃殺のみが与えられるという、8日間にわたる「死の行軍」のさなか、みずからの食糧をいっしょに歩く人々に分け与え、神に命を捧げたのでした。
「司祭になったという恩寵以外に、キリストのために苦しむ恩寵を与えられたことは、私の生涯における大きな恵みである」という感謝の言葉を残して──。
1950年11月25日といわれます。
韓国ではバーン司教の列福運動が盛んに行われているようですが、日本の教会指導者は逆に北朝鮮支援者と強い関わりがあると指摘されています。ありもしない戦前の日本での迫害を強調しながら、北朝鮮での殉教には沈黙しています。
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