「責任を取れ」という考え方が嫌い 【という主観】

迂遠な言い方をして的を射ず、読んでもわからない含蓄は奥ゆかしさか。
それとも日本人の悪癖か。
はたまたその両方か。

そんなわかりづらさなど事務的な場では不要に感じる。
創作やら、何かしらの表現の場であるならば理解できるしいくらでもやれば良い。
しかし事務の場では場違いと言わざるを得ない。

ふとテレビをつけてはしきりに映る一幕。
「責任を取れ」と叫ぶ記者会見があった。
そこここにあった。
ありふれていた。
責任とは何だろう。
責任を取るとはなんだろう。

ある人は責任をとって辞任しろと言う。
またある人は責任をとって賠償しろと言う。
それがその人にとっての責任なのだろうか?
本当に?
責任という言葉を深く考えもせず、お得意の「ただみんながそう言っているから追随しているだけ」なのではないか?
本当に責任をとって欲しいのか?
ただやめさせたいだけやただ金が欲しいだけではないのか?

責任を取るならば、ミスを取り返すべきではないか。

勿論、
「続けて欲しくない」
その気持ちは理解できる。
「その様な失敗を犯す人間に任せていられない」
その気持ちはわかる。
でもそれは
「責任を取れ」
ではない。
それはそのまんま
「辞めろ」
「任せられない」
でしかない。
責任をとって辞めろ?
失敗したんだから辞めろ、だろう。
何を言い換えているのだか。
それが通例、慣例だから?
そんな有様で誰が成功できるのだろう。
誰かの踏みしめた道しか歩こうとしない。
安全な牌しか切ろうとしない。
緩やかに衰退するだけだ。
そんな考えさえ湧いてくる。
「責任をとれ」
という無責任で無思慮に思える発言に触れるたびに湧いてくる。

いい加減、語義を誤るような言い換えはやめてはどうか。
やめて欲しいならただ辞めろと言えばいい。
その理由に失敗を託けたいなら失敗したんだから辞めろと言えばいい。

「責任をとってやめる」
じゃあその後釜は?
辞めさせるのが目的で、その先がない人。
何も考えていない。
ただ自分の溜飲を下げることしか頭にない。
その盲信。
虫唾が走る。

「責任をとって賠償する」
賠償すれば責任がとれると?
そんな馬鹿な話があるか。
それはただ「償い」をしただけ。
「償えた」かどうかもわからない、ただの「償い」の一行動、一形態。
例えば失われた命は戻らない。
毀損された信用や事物も元には戻らない。
金を払えばいいんでしょう、とでもいうのだろうか。
拝金主義なのは結構だが、他人にとっての価値が金に換算できると信じて疑わないのは致命的な齟齬を生みかねないと思う。
其方がそう思わなくても結構。
此方がそう思うだけ故。
全てそう。
これを態々語る必要もない。
本来。
閑話休題。

だから気にせず、持論を述べる。

誰も責任なんてとれやしないんだ。

代替え品を用意してもそれは別物だ。
代替え品が用意できない事物も多々存在する。
時間は戻らないし人生の選択はどんなに仕方がなくても全てが自己責任ということになる。
誰も他人にとっての何かに責任なんて取れないんだ。
とりようはずもない。

国策にせよ、経営方針にせよ。
誰かが決定を下さなければならない。
そこに責任が伴うという。
この文脈はわかる。
たとえば、ペナルティ無しで意思決定されては適当な選択をされるのでは、という脊椎反射的懸念。
この文脈の責任とはつまりミスをした場合に然るべき罰を受けてもらおうという罰による教育と通ずる考え方のこと。
罰として立場を失え。
罰として賠償しろ。
痛みを伴え。
そうしたらもっと適切な判断ができるはずだ。
と。
本当にそうだろうか。
罰がある環境下でパフォーマンスが発揮できない例は幾つも見てきた。
では罰はなくてもいいのか?
考え方を変えよう。
自動運転で何人に死のうが決して謝らない姿勢。
問題やミスについて過度に恐れすぎずそれが起きた場合に思考を巡らせた舌戦やプレゼンにより一定の納得を得る文化。
何のことかわかるだろうか。
敢えてかかない。
「責任をとりたくないから」
なんてことも起きないオープンな場。
わかるだろうか。
わからなくともよい。
わたしにあなたの責任はないから。
これを書いた責任?
それがあると考える価値観、
ないと考える価値観があろう。
あなたが前者であることが責任を取る、担保する理由になるだろうか。
社会的正しさ、直感的正しさに反するとして、それが間違っているとなぜ言えるか。
どれだけの人間が流暢に説明できる?
訥々としても構わないが、破綻せず話せるだろうか。
指摘に反論できるだろうか。
仮説を持っているか?
或いは今この場で急造することができるか?
そういったことから逃げて。
頭を使わず、楽することばかり覚えて。
凝り固まった前自体的で形式的な埒のあかない児戯にも等しい言い合いばかり。
呆れ返って、言葉を尽くして果てて、やがて言葉もなくなり、しかし相変わらずであり、疲れてしまう。
挙句の果てに言うのだ。
「責任をとれ」
と。
頭ごなし、いや、考え無しに。
ただ継承した語彙を再生しているだけ。
「そう言えば良い」と思ってるだけ。
考えて言っているか?
「責任をとれ」と。
責任を取れと迫る責任を取れるのか?
自分は無責任で良いのか?
「だって立場がないから」?
「その立場じゃないから」
「その仕事じゃないから」
それはただの他力本願で無責任だよ。

誰も真には責任を取れないけれど、現実問題としてリーダーシップを発揮すべきことは幾らでも存在している。
ので、何らかの決断を下す必要がある。
その立場にしがみつきたいから決断をしない。
それは無責任だ。
それなら確かに、辞めた方がいい。
間違えても良いから、何かを決められる人間の方がマシである可能性がある。
場合による。
普遍的な正解などない、と普遍的に書いてしまう矛盾。
誰しもが考えたことのあろう循環的な矛盾。
しかし普遍的な正解などない、と決めつけて仕舞えば話は実際楽になる。
厳密でないかもしれない。
物理の計算で空気抵抗を度外視する様な物だ。
厳密でないし真に現実的でもないかもしれないが大凡の概算は出せる。
なので使おう。
普遍的な正解などない、と。

全てはケースバイケースであり所詮教訓というものは平均値やら中央値やら最頻値とって塗り固めていくものとしよう。

ただ一つ「こうしておけばよい」「こう考えれば全てうまくいく」という所謂「銀の弾丸」はなく、個々の事例に対して真摯に向き合うことが其々の最適解に至るためには有効なのは感覚的に同意できそうな事だ。

しかしその考え自体が一種の銀の弾丸であるし、その考えに従って毎度毎度本気でぶつかっていくなんてことは普通できない。
その様な気力や体力は通常存在しないから続かないだろう。
だからある程度の妥協がに必要になる。
いちいちアナログをアナログで処理していたらリソースがいくらあっても足りないの或いはより高いスペックが必要になる。
そんなスペックの人間はそもそもこんなことを考えない。

しかしそれをデジタルに丸れば丸めるほどことは単純に

ねっむ一旦ここまで2023/04/28/06:33

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