2021年05月13日 「自分らしく」のウソ

「自分らしく」とは2種類あると考える。

その1:「自分探し編」

「今の自分は本当の自分ではない。もっともっと輝いている自分が本当の自分だ!!だからこんなクソなところはさっさと抜け出そう!!」

みたいな事を考えている人は気を付けてください。

それは妄想です。

もうすでにあなたはあなた自身であって、自分らしくもらしくないもなく自分そのものです。
単に環境が自分を抑え込んでいたり、周囲の人が自分の素晴らしさを認めてくれなかったりといった不満を言い換えているだけです。

単なるグチ、不満です。

「自分らしくありたい」と思いこんでいる内は自分がよくわかっていないおめでたい状態であり、自分を過大評価しすぎです。

もっと足元をみて現状を冷静に現状分析するのが得策です。

「自分らしくありたい」をもうちょっと大人な感じで翻訳すると、

「今の私は〇〇だから今の状態がある。とても不満で不安である。だけど△△して毎日を気分よく、自分の思い通りの人生を手に入れたい。」

てな感じでしょうか。

目標や自分の獲得したいものが具体的にわかっている人が発する「自分らしくありたい」という言葉であればとても腑に落ちる。
なぜならば、どのような「自分」になりたいかが具体的であれば、例え困難なことであってもやりようがあるからです。

自分らしくありたいと思うのは別に結構なことだが、自分がまだ知らないあるべきところにたどりつけば「本当の自分」が見つかる、みたいなことは100%ありえない。

自分自身というものは様々な経験を通して失敗して、恥かいて、喜んで、楽しん、怒って、笑って作っていくものだから、向こうから突然

「よっ!俺は本当の俺だよ!」

みたいな感じで笑顔で手をあげて駆け寄ってきてくれない。

本当に「自分探しの旅」と称し世界中を旅するならば様々な価値観に触れる事で、まあある意味旅は自分作りにテキメンかもしれない。


「世界中の様々な価値観に触れることで自分の価値観が強烈に育まれた」
と言う経験を
「自分が見つかった」
という言葉で表現する人がいるかもしれない。

海外に行くと、できれば1か月以上とか、ちょっと危険な所に行ったならば嫌でも日本とその土地の事を比較をするだろうし、そのことで自分や日本の事を客観視したり、自分のこれまで生きてきた歴史とか考えたりするきっかけになったりする。

「あーなんでこんなに日本と違うんだろう。自分の生き方って何だろう」

って漠然とでも思ったりする。

そこで「自分を探す旅なんてありえないんだね」って気づく。

「自分らしくありたい」

ってうっかり頭に浮かんだら、自分に対して

「私は具体的にどのような私になりたいのか常に考えるぞ」

と言い聞かせてください。

つまりは自分に責任を持とうという事だ。
今もし今いる場所に不満があるならば、そこにいることを選んだのは紛れもない自分なのだから。
そこから脱出なり、変化するなりするのは自分自身しかいない。


その2:「本質的な自分編」

これは人の尊厳を紙一重で隔てる考え方にもつながる。

全ての人類が自分らしくありたいなら、サイコパス的な人はどうなる?
痴漢、幼児性志向、暴力志向など反社会的行為がどうしてもやめられない、どうにか理性で抑えているという人はどうだろうか。

そんな人に対して「自分らしくあれ」と言うのはとても酷だ。

「自分らしくある」=「反社会行為」

であるからある程度ブレーキがかかる。

つまり「自分らしく」という事は条件付きで、社会規範に反する事柄はダメであり、その中での自分を表現するのであればOK。
当たり前の事と言えばそうだが、僕らは条件付きの世界で生きていると実感する。

よく「自由には責任が伴う」と言うが、まさにその通りだと実感するが、現代日本で言うとその「責任」はイコール「憲法」とか「法律」に値するのだろう。あるいは文化的慣習とか礼儀とかもその価値判断基準となる。

だから「自分らしく」とは犯罪を犯さない範囲に限り許されたされた事に過ぎない。

だからこそ安全な社会が維持できている。

人は千差万別の才能をもってこの世に生まれてくる。
野球がめちゃくちゃ上手であればプロ野球選手になれたり、歌がめちゃくちゃ上手ければプロ歌手になったりと世間で認められ、賞賛されたりと、能力を生かしそういった職業に就けるのであれば言うことはない。

どうでもいい能力に長けているなあと思ったことはないか?

例えばどんなくつでもひもの結びが超絶早くてうまい。自転車のこぎ方が超絶上手い、感覚的にチェーンががっちりかみ合うこぎ方、チェーンが外れないギアチェンジ方法など、特に意識せず備わってしまうそんな能力、別にあってもなくても全く困らないし、特に喜ばれないものが多かれ少なかれ誰しもある気がする。

ただその本人の希望とは全く別に生まれつき備わっていた特異な能力が、反社会的なことであった場合はどうだろう。

例えばたまたま人を傷つけることにすごい才能があり、それを楽しめる人がいたとすると、そんな能力はもちろん歓迎されないし犯罪だ。
でも仮に野球のメジャーリーグのように、人を傷つけるプロリーグがあったとするならば間違いなく世界トップレベルの人であったとしても絶対にそんな能力を表現することは許されない。

現代日本においてプロ野球選手がたまたま稀有な能力を持っていただけで(血の出るような努力もしつつも)、賞賛され大金を稼げるのに、人を傷つける能力を持つ人は決してその能力を発揮することはないし発揮するときは、その人の人生が崩壊する時だ。
じゃあせいぜい傭兵にでもなって人を殺しまくるか?

何が言いたいのかと言うと、「自分らしく」は必ずしも自分の得意なことを最大限表現する事とは限らないが、自分しかない類まれな能力を発揮することに喜びを感じるのならばそれは「自分らしさ」と言えなくはないか?
でもその「自分らしさ」は許されないことであるのならばその人にとっての「自分らしく」は諦めないといけない。

でももし仮に、自分の子どもがその「自分らしさ」を表現した人に何か傷つけられたのなら、そんな悠長なことは思わないだろう。
その人がどんなに辛い境遇にあっていようが一切関係ない。子どもにした何十倍の復讐をしてやると怒り狂うと思う。

ああ、人間はなぜこんなにも複雑なんだろうか。

「自分らしくありたい」と声高にいう事はなかなか難しい。

あなたは「本質的な自分」に真正面から向き合えます?


バイなら。


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