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猫を棄てる 父親について語るとき

この記事は戸森鈴子さんから誕生日プレゼントでいただいた書籍『猫を棄てる 父親について語るとき』(村上春樹/文藝春秋)の読書感想文です。

まずは鈴子さん、お誕生日プレゼントありがとうございます!
他にも食べ切れないほどのポテトチップスも嬉しいです。
そして、『猫を棄てる』は自分にはまだ読みきれない本だと思いました。

要約

本の前半では、村上春樹が自身の子供時代に飼い猫を棄てに行った思い出を切り口に、故郷の阪神間について戦後という時代を語る。
本の後半では、父・村上千秋氏の戦争体験について述べ、自身の人生を回顧しながら人間は雨粒のようであると結ぶ。

要点

・猫は時代の傍観者である
・傍観者である猫を棄てたため、思い出がごっそりと抜け落ちた(?)
・村上春樹は父に期待されていなかった
・幼少期、養子に出された経験から「自分は棄てられた」と認識した
・村上春樹が今まで語るのを避けていた父について語った
・父と子の確執について多くは語っていない
・伝聞の形で第二次世界大戦について述べている
・デビュー作『風の歌を聴け』で人間を風の喩えてやがては離散する存在だと比喩した村上春樹が、40年越しに人間を雨粒に喩えてやがては集合的な何かに置き換えられる存在だと比喩した

感想1|構成について

とてもむずかしい本。
それが私の第一印象だ。

猫を棄てに行った話を切り口に、著者の父・村上千秋氏の回顧録と戦争の歴史を語り、次第に自身のルーツを考え始めるという構成。

上手いなぁ、と思った。

「自分とは何者なのだろう?」ってクエスチョンは最初に置くものだ。
自分探しの旅とか、自己分析の日記とか。

でも本著は父親についての思い出から自分のルーツについて考え始める。
父親についての回顧録であり戦争の歴史を語りながら、シームレスに村上春樹という人間がどのように構築されていったのかを綴っていた。

この本を出すのに、何か大きな決断があったのかもしれない。
しかし、村上春樹が上手なのはそういったことを語るためではなく、語った内容をそれしか喩えようが無いような言葉でフレーミングするところだ。

感想2|文体について

彼の書く文章というのは、目的地が不明だから近景にばかり目が行く。
身近な出来事のように感じられるのだ。

心をトリップさせる機能がとても優れている。
日常使いな文章とでもいうか……
(うまく言語化できない)

彼の文章はTwitterとかで思わず真似してみたくなる良い文章で、それこそ熟練の職人のようなものだから、物書きを標榜するなら一度は真似るべきだ。

作家・村上春樹というプロダクトは殿堂入りしている。
ただ、『猫を棄てる』というエッセイは、彼のエッセイの中でも異色だ。

なんせユーモアがほとんど出てこない。
最初から最後まで低重なトーンで淡々と事実を並び立ててポツリと終わる。

今まで読んできたものと比べて、『猫を棄てる』はエッセイだった。
すごくエッセイらしくて驚いた。

感想3|猫について

猫に何らかのメタファーを感じさせるが、特に意味はないのだろう。
ひとまず歴史の傍観者として猫が存在すると考えると、猫を棄てることで思い出がごっそりと抜け落ちたと考えるのは妥当だと思う。

でも、考えても無駄だ。
大事なのは読み手がどう感じるかという部分で、村上春樹という書き手は思案を読み手に委ねるのが上手い。

そのひとつとして、猫があったと思う。
私たちが脳裏に浮かべる猫というイメージにどんな意味づけをするか、村上春樹はそういうイメージの担い手を猫に仮託した。

だから、各々がその意味を考えればよい。
私は特に意味はないんだろうなあ、というのを感じた。

いつもの村上春樹だ。
このエッセイも読み終えた後に虚無感があって満足した。

感想4|歴史の片隅にある名もなき物語として

村上春樹はもうじき死ぬんだと思う。
そういう身辺整理みたいな気配があった。

彼に終の棲家があるとしたら、いったいそこはどこなのだろうか。
それを考えるステップとしての原点回帰だ。

私は脚本を書くので、終わりを考える時、いつも始まりを思い出す。
どこかに因果関係を見出せば物語が出来上がる。
三幕構成の基本形だ。

あとがきで「歴史の片隅にある名もなき物語として」と彼は述べている。
原点回帰した始まりの物語が、だ。
つまり、終の棲家となる「歴史そのものとなる物語」の存在がある。

それをすでに書いたのか、それともこれから書くのかは知らない。
ただ、一読者として期待する。

この本はこの一冊で完結していないと思った。
読みきれない本だ。

何年後か、また読もう。

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