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さて、ここから本格的な留学 とんでもないことが連日起こってしまう。

トラックの運転手をしながら アメリカに書類を送り (当時まあファックス、Emailもない時代 あるのは郵便のメールのみ、毎日自宅のy郵便受けを見て アメリカから来ていないかの確認が日課になり 郵便メールを出して 6週間後に とうとうアメリカから返信が来た。そこには ビザを申請することの情報がしっかりそして 学校は俺をアクセプトしたと書かれており 喜び勇んで 神戸のアメリカ大使館へパスポートを持って ビザのスタンプをもらいに。そしてそこでこっぴどく 留学は簡単じゃない 君のようなフラフラした気持ちじゃ 半年持たないと 大使館でお墨付きまでもらう始末
情けないやら 悔しいやら。しかし 渡米まで あと数ヶ月しかない トラックの運転手と 残された時間は マクドナルドでアルバイト(これは アメリカに行って働く時 仕事などわかっていればすぐ働けると、若干バカな単純発想で、)それから 日本を出る時がやってきた。12月25日 クリスマスの日に出発。周りの友人連中は 皆クリスマスじゃなくて 苦しみますだって 大笑いしたけど 気にせず出発 (のちにそれがわかる事態が連日)
日本ではクリスマスは 24日のイブくらいで そんなに大きなものではないが、ところがアメリカでは大きなイベント 母方の叔父がロスアンジェルス空港に迎えきて 不機嫌になんで今日なんだ クリスマスだぞって 俺はなんでって思っていたけどこれほど 空気読めないバカはって感じだった。
叔父の家に連れて行ってもらい、日本から持ってきた お土産で叔父の心を和ませた。しかし 叔父は無常にも 1週間は泊めてやるが そのあとは自分でアパート探せ、また学校まで ここからじゃ通えない。そして俺はこの日から アパート探しなど もう何がなんだかわからないことずくめ、ロスアンジェルスで販売されてる 羅府新報なる新聞を買って 片っ端から安いアパートを探し 家具付きを見つけて すぐ契約。車はないが バスで学校に通える そんなことで オリンピックブルバードのアパートを契約 破格の金額で 決して綺麗じゃないけど 住めるだろうって感じ 薄暗く 部屋の中には薄汚れた家具 そして どう見ても使い物にならないようなベッド
しかし、貧乏人はここからスタートとそこに入居。昼間でも薄暗く 入居者と一度もあったことがなく 非常に不気味なアパートだった。そんなおり 道端で昔の古いワーゲンが売りとサインが出ており 値段を調べると 200ドルって記載されている。これなら買うことができるぞって 現金を持って、その車の持ち主と値段交渉して 180ドルで買い取った。しかしその車は、エンジンが止まると押してかけないと行けない。だから 車を止めるのはいつも坂道。こんな苦労も当時は笑いながら 愛嬌と思いやっていた。
語学学校はと、いえば 俺が入学して数週間で一気にアフガニスタン人が大挙押し寄せてきた。(当時ソ連がアフガン侵攻でアフガニスタンからの難民)これだけならいいのだが、アフガンの民は風呂に入る習慣がない そして羊を食べるので 体臭が本当にキツく アフガン人以外は皆 鼻を摘んでいたくらいだ。学校にクレームするも それ以上言うと、お前学校を退学にするぞって 言われる始末。授業も彼らはアフガンでも裕福だった民なのか 非常に横柄で 校内でいつも問題が起きていた。数ヶ月俺も頑張って授業を受けて 成績もトップでいつも通過していたが とうとう我慢できず、クラスメイト数名が アフガン人を虐めたってことで退学処分。


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