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11月弦楽器工房:A線調整

ロビーコンサートに出演してから、私がチェロを弾くということが職場で知れ渡った。

退勤後に工房を予約していたので、チェロを抱えて出勤したら、色んな人から「今日は練習あるの?」とか、「またコンサートしてくれるの?」とか声をかけられるようになった。

今回の工房訪問の目的は、調整。

発表会前から師匠に「A線(一番高い音の出る弦)が響きすぎる」と指摘されていた。

発表会は一人演奏だし、音をまろやかに響かせるホールだから、発表会を終えるまではそのままで良い、と言われていた。

年内はもう演奏の予定はなく、レッスンとアマチュアオーケストラの練習会のみ。
オケ練でまた指揮者に「チェロ、うるさい」と言われないように、調整してもらうことにした。

           ★

その日、工房には職人のお兄さんと、奥様のTさんがいた。

電話で事前にA線調整の件は話していた。
私がケースからチェロと弓を取り出すと、お兄さんは早速作業場へ持って行った。

待っている間、Tさんと話をする。

「発表会、お疲れ様。無事開催できて良かったね。」
「はい。お兄さん、当日は会場掛け持ちで大変だったのではないでしょうか。」

同日、同時間、発表会をやっていたホールの隣の小ホールでは、弦楽四重奏のコンサートが開催されていた。
ヴィオラ奏者の方が工房のお客さんなのだそうで、お兄さんは二つのホールを行ったり来たりしていた。

「それがちょうど、夜さんの出番と四重奏の休憩時間が重なったので良かったのよ。」

「そうだったんだ。お聴きくださいまして、ありがとうございました。
私、演奏した後すぐに、オケの練習へ行ってしまったんですよ。
だから、センセから講評をもらったのは、先日のレッスンの時です。
センセ、そのレッスンの日、エレベーターに閉じ込められたんですって。」

Tさん、仰天する。
「ええ?!それは災難!」

「管理会社の人が駆けつけて、20分後には出られたそうですけど。」

「まだそれくらいで済んで良かったねー。
それでKさん(先生)はお元気なの?」

「表面上は元気にしてますねー。だから余計に心配ですけど。私から話せないから、どうしようもないです。」

師匠は今、大きな問題を抱えている。
私はそのことを知っているが、私が知っていることを師匠は知らない。
きっと師匠は私に心配をかけたくないから、状況が落ち着くまで、私には何も話さないだろう。

「私はセンセのスケジュールの全部を知っている訳ではないですが、意識的に仕事を減らしているようです。」

「そう。だからあまりここにも姿を見せないのね。私から連絡してみます。」
「よろしくお願いします。何か分かりましたら、こっそり私にも教えてください。」

           ★

「これでどう?」

調整したチェロを、お兄さんが私に手渡す。

私、用意してくれた椅子に座って、パラパラと弾いてみる。

…うーん、まだキンキンと耳障りな音がする。

「あのぅ、お兄さん。大変申し上げ難いのですが…ふと気付いたことがあります。」

お兄さんもTさんも首を傾げる。
「なに?」

「1年以上、弦を替えていません。」

お二人とも「ええっ?!」と素っ頓狂な声を上げる。

「はい。つまり、昨年8月にこの楽器をいただいた時に、張ってもらったままです。」

お兄さん、慌てた様子で本棚から私の楽器のカルテを取り出し、パラパラとめくる。

「ホントだ…。度々調整に来ているから、てっきり弦も交換した気でいたよ…。
今、替える?」
「弦の在庫があるんでしたら、お願いします。」

お兄さん、その場でA線とD線の2本の弦を取り替えてくれる。

「どうだろう?」

楽器を受け取って、調弦して、無伴奏5番の触りを弾いてみる。

「ああー、全然違う!」
と、Tさんと私。
チェロ本来の、まろやかな音になった。

「基本中の基本だよね、弦を替えるって。職人としてあり得ないよ、申し訳なかったね。」
「発表会の前に気付いて替えてあげれば良かったね。ごめんなさいね。」

お二人とも恐縮される。

「そんな。私がちゃんと言えば良かったんです。
やっぱり、年1回は弦を替えるべきですか?」

「弾いている量にもよるけれど。
夜の場合はレッスンとオケとそのほかでも弾いていることがあるみたいだから、もっと早くに劣化すると思うよ。」

「今、2本替えてもらったけれど、4本替えると幾らになりますか?」

Tさんが、カタログを見ながら計算してくださる。

合計5万弱。
高ッ!!

チェロ弦は元々高価だが、ますます高くなった。

「円安の影響ですか。スミマセン、今日は2本だけにしておきます…GとCは次回に。」

「もちろん、それでいいよ。
円安だね。弦は3、4割高くなったよ。」
「松脂なんかも高いみたいですね。ウチのオケで松脂にこだわりのある人たちがいるみたいで、そんな話をしていました。」

私は小道具にあまりこだわりがない。
松脂なんかすぐ落として壊すので、尚更だ。
今使っているものも、私が粉々にした松脂のカケラを使っているのを見て呆れた師匠が、引き出しをゴソゴソして「コレやるよ」とポイっとくれたものだ。
ケースすら無い。
それもやっぱり落としてしまい、割れている。

「松脂かぁ。所詮松脂だよ。売る側のオレが言うのも何だけど、松脂にこだわるくらいなら練習を重ねろって言いたいね。」

師匠も同じことを言っていた。

「私、こだわりがなさすぎて、自分の使っている弦のメーカーすら分かってないんですけど…。」

そこまでこだわりがないのもどうかと思う。

弦はこのチェロを受け取った時に、師匠の師匠が試し弾きして、お兄さんと相談の上、選んで張ってくれたものだった。

「ええと、AとD線がラーセン、G とC線がスピロコアだね。」

定番だ。

「今日のお代、お願いします。」
「調整代と工賃はいらないよ。弦だけ、お願いします。」

しかも、弦もだいぶ値引きが入っていた。
スミマセン…ありがとうございます。

「もう11月だね。次に会うのは来年かな?
気が早いけれど、良いお年を。」
「夜さんのお仕事も佳境でしょうから、身体に気を付けてね。」
とお二人。

「はい、ありがとうございます。
お兄さんもTさんも、風邪など召されませんよう。
それから、センセのこと、よろしくお願いします。」

「うん。わかったよ。」

私はチェロを担いで、暗い夜道に出た。

年内はレッスン4回、オケ練4回。
どこまでがんばれるかなー。