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キュバン, 全フッ素化キュバン(2022今年の分子)

水素原子が少ない有機化合物の構造

アルカンはCnH2n+2, アルケンはCnH2nのように通常の有機化合物では水素結合の数が炭素原子の数に比べて2倍近く多いです。ただ, 中にも水素原子の数が炭素原子と同数程度しかないものもあります。有名なものだとベンゼン(C6H6)がその1例です。

ベンゼンの構造がどうなっているかは最初はよくわかっておらず, 以下のような構造が考えられてきました。


左からデュワーベンゼン, プリズマン, クラウスベンゼン

ただし, 臭素で置換したときの異性体が, デュワーベンゼンでは1置換体が2種なので実際と違い, プリズマン・クラウスベンゼンでは2置換体が(光学異性体があり)3種より多い点で違います。最終的にはケクレにより, みなさんもお馴染みの構造に落ち着きました(二重結合と単結合が交互に並んでいる六角形の環であり, 本来は二重結合と単結合で長さが違うので歪な六角形だと思ったり, 二重結合があるから付加しやすいのではと思ったり, 臭素2置換体が4種なのではと思ったりするかもしれませんが, 通常の二重結合と単結合ではなく, 長さが一緒なので正六角形となっている…わけでその先にも話はありますが割愛します)。


ベンゼン(ケクレ構造)。
有機化学ではCを点で表し, C-C結合を1本線, C=C結合を2本線, -Hは省略することが多く, その場合は亀の甲羅に見えます。

やはり水素結合が少ない有機化合物って特殊っていうか, 「こんな構造とるんだ」と驚くことが多いです。タイトルのキュバンもそうです。
キュバンはC8H8で, 立方体です。「立方体なんか取れるの?」という疑問はあると思います。というのも, 結合角が90°っていうのはsp3炭素の109.5°より小さいです。これが歪みから考えられるよりも意外と安定なのは, 対称的な構造でうまく歪みエネルギーが分散されているからだと思います。

※参考までにシクロアルカンの結合角の話をします。シクロアルカンの歪みには①角歪み,②ねじれ歪み, ③立体歪みがあります。①は結合角がsp3の角度109.5°から離れていると生じるようになり, 構造が不安定化します。
結合角は, シクロプロパン(n=3)では60°, シクロブタン(n=4)では88°であり, 109.5°から離れているため, 角歪みがあり不安定です(n=4で90°ではないのは②の影響を考慮に入れているからでシクロブタンは平面構造とはなりません)。シクロプロパン(n=5)ではもし平面正五角形なら108°で109.5°に近いですが, やはり②のために平面ではなく, 少し結合角は小さくなります(103°〜107°程度)。シクロヘキサン(n=6)はもし平面正六角形なら120°ですが折り曲がれば109.5°に近づけるためシクロアルカンの中では最も安定です。

キュバンの全合成はたくさんのステップがあり, 化学部の同期が部誌の自由記事のネタにしていました(それで初めて知りました)。鍵となっているのがファヴォルスキー(Favorskii)転位であり, この転位により環を縮小(5員環を4員環に)します。

全フッ素化キュバン

水素原子の数があまり多くないキュバンのHを全て別の官能基に変換する研究というのが多く見られます。

例えば, 全部ニトロ化されたものは最も強力な爆薬なのではないかと言われています(先に述べた歪みのエネルギーも利用しています。ただし, コストが見合わないので非現実的)。

今回紹介する全フッ素化キュバン(C8F8)はアメリカ化学学会ACSのC&en誌の今年(2022年)の分子に選ばれていますが, 日本人も多く貢献しています。

全フッ素化の嬉しいことには以下の3点があるのかなと思います。

  1. HとFの原子の大きさがほぼ同じなので生体への適合性が高いということです。生体が区別できないという効果(mimic効果)を持っているため, より生理活性が高い医薬品にも利用されます。
    また, よくフッ素樹脂(テフロン)って聞きますが, これはC-F結合の結合エネルギーがかなり大きく安定であり, しかも表面張力が低く水も油も弾くという性質を利用しています。

  2. 電荷が通常のものと違う感じになる(真逆になる)ということです。ベンゼンの全フッ素化(C6F6)を例にして考えると, ベンゼンは通常水素が結合がしている環の面が正電荷, 環の上下が負電荷となっているが, 電気陰性度が最も高く強い電子吸引性を持つFで置換すると環の平面が負電荷, 環の上下が正電荷となり逆転します。そのため, 通常のベンゼンでは上下にそのままstackingできない(少しずれて重なるslip stackが起こる)が, C6F6とベンゼンが互いに向き合ったstackingができるようになります(https://doi.org/10.1038/1871021a0: 参考: 「溶液における分子認識と自己集合の原理 分子間相互作用」平岡秀一著)。

  3. 今回のC8F8に関してはC-F結合のσ*軌道(反結合性軌道で空軌道となっている)は立方体の内部にあるため, 何らかしらの方法で電子を無理やり入れさえすれば, その電子を閉じ込められるという点で面白いです(アダマンタンがカゴ状だがσ*軌道の重なりが不十分であまり電子は吸引しないみたいです: https://www.toyotariken.jp/wp-content/uploads/report74_218.pdf) 。電子を受け取る分子は有機エレクトロニクスデバイスに用いられるので, それへの応用が期待されます。

キュバンの入試問題

化学が好きな一個人であるとともに, 化学を教えている予備校講師・塾講師なので入試問題についても触れたいと思います。やはり近年はキュバンが注目されているからでしょうか, 今年の名古屋大の構造決定の問題でもキュバンが出てきました。

化合物Dは分子量104の炭化水素である。Dは不飽和結合を持たず, 全てのC-C結合の長さは等しい。また, どの水素原子1個を塩素原子に置き換えても, あるいはどの炭素原子1個をケイ素原子に置き換えても, それぞれ1種類の化合物となる。化合物Dの構造式を記せ(鏡像異性体を区別する必要がない)。

名古屋大 前期入試化学 大問3 問1-5 表現改 

分子量104の炭化水素は分子式C8H8以外にはありません。不飽和度は(8×2+2−8)÷2=5で, かつ不飽和結合がないので, 全て環です。つまり環がたくさんあります。また, 置換の情報より死ぬほど対称性が高いです。C1個につきH1個ついていると判断した方がいいでしょう。なぜならCによって異なるHがついているとSi置換のときにそれぞれHのついている数によって環境が異なるからです。
例えば, 最初にシクロオクタン(C8H16)を書いて, これだとHが多いから対称的になるように線を加えて行って最終的にキュバンを得ることもできます。


クリーンする前の構造(描画にはMolViewを使用)
これをクリーンすると…


ちゃんとキュバンが得られる。

※ キュバンって6平面だから不飽和度あってないのでは, と思うかもしれません。これはトポロジー(位相幾何)の話をせざるを得ず, 立体をうまく平面に落とし込むのも謎です。


これもC8H8で対称的な構造です。しかも環が5個あるのもわかりやすいと思います。これをクリーンしてもキュバンが得られましたので, これも幾何的に同じみたいです。

どちらかというと水素がどれくらい減ったかで考えないと分かりにくいし, 不飽和度で考えてもうまくいかない例ですね…。どのみちこれは知っていないと厳しい問題です。

おまけ: 正多面体の炭化水素

キュバン以外では正四面体のテトラヘドラン(C4H4),正12面体のドデカへドラン(C20H20)が考えられる。炭素の手の本数は4本なので頂点から伸びている辺の本数が4, 5本である正八面体, 正20面体の炭化水素はありません。テトラへドランはt-ブチル基置換のものは合成されているが, C4H4自体はおそらく執筆現在(2023/1/8)合成されていない?はずです(これも歪みが大きいからでしょう)。

個人的には化学と数学(幾何)が密接に関わっている例は面白いと思います。藤田誠先生の講義を聞いたとき(研究内容について触れたとき), 化学ってこんな美しい分子が作れるんだと感動した記憶があります。錯体についてもただ目で見た色の美しさだけでなく, 「構造の美」を感じとりました。

参考: 有機化学美術館(佐藤健太郎さん)

古いサイトですが, 学部生の頃これを見て感動しました。今日のような話が満載なのでおすすめです。

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